学習通信071012
◎戦争柄がこれほどの広がり……

■━━━━━

現代のことば
 深井 晃子

戦争柄を着る

 アメリカの着物コレクターが編集した『ファッショニング・キモノ』という本に寄稿した。このコレクションはロンドンのヴィクトリア&アルパート美術館で展覧会として開催され、アメリカにも巡回する。展示されるのは大正・昭和に普段着として着られた着物である。今、若い人たちの着物への関心と一致している。

 明治以降、西欧文化の移入が盛んに行われると、着物の形は影響を受けなかったものの、柄には、時々の新しい流行が積極的に取り入られた。特に、普段着の着物柄は伝統的な制約に縛らず人々の心を掴む流行の事象を貪欲に取り込んだ斬新なデザインだ。アールヌーボー風にはじまリアールデコ風へと移り、また配色も流行に敏感で、その時々の欧米にも通じるフアッショナブルな意識が溢れている。そうした先進的な気分が国内外でコレクター・アイテムとしての興味をそそるのだろう。

 着物生産の最盛期は、明治二十三(一八九〇)年頃から昭和十五(一九四〇)年頃。この時期日本の繊維産業が大躍進し、新技術が導入された。着物は浮上した新興階級の需要の高まりに応えて、質量ともに飛躍的に発展した。日常着として洋装が広く普及するのは戦後のことだから、人々のおしゃれ心が向かったのは、着物であり、特に流行に敏感な〈柄〉だった。

 なかでも異彩を放っているのは戦争柄。戦争柄は富国強兵のスローガンのもと日清戦争頃に現れ、帝国主義的な時代風景の中で太平洋戦争が始まる頃まで好まれた。男の子のモスリンや絣(かすり)といった普段着の着物、男物の羽裏、長襦袢(じゅばん)、さらには女物の帯などにもおしゃれに使われている。図柄に取り上げられているのは、新聞などに掲載された有名な戦争シーン、実在した飛行機や戦艦などである。当時の人々は、その絵柄をすぐ理解し、イメージを広げたのだろう。

 こうした戦争をテーマとした柄のみに焦点を絞った展覧会が、アメリカと日本で相次いで開催されたことを最近知った。二〇〇六年アメリカで開かれた「Wearing Propaganda」、〇六、七年東京、札幌、西宮で催された「着物に見る戦争柄」展などである。残念ながら私は展覧会を見ていないが、その展覧会図録で、多くの人々が〈戦争〉柄をまとったという紛れもない事実を再確認することになった。

 普段の生活と切っても切れない着物の柄に〈戦争〉が現れている。戦争は、ある時の一般的な日本人にとって憧れの事柄だったのだろうか。と考えられるのは私たちが衣服を着るわけは多様だが、多かれ少なかれ着る物には夢や憧れが託されているからだ。いや、戦前、戦争は国策として賛美され、プロパガンダが行われた、だから戦争柄は着させられていたという考えもあるかもしれない。そうだとしても、人々の自由な好みが向かなければ、戦争柄がこれほどの広がりを持つことはなかっただろう。

 だが、着たにせよ、着せられたにせよ、いずれにしてもその先にあるのは、戦争への是認を無意識のうちに行うことになるという刷り込みの構図である。
 (京都服飾文化研究財団理事、チーフキュレーター)
(「京都新聞」夕刊 20071002)

■━━━━━

 敗戦の日、私は少年兵でしたが、高野山の麓の村で農作業の手伝いをやっていました。天皇の放送を聞いて宿舎にしていた小学校にもどると、班長が本隊からの伝達として、村の人たちが暴動を起して軍隊を襲うかもしれないから外出はするなと言われました。しかしそんな気配はなく、私たち同様、村の人たちも、戦争が終ってホッとしていたようです。

 あのころ、もし軍や政府のなかに、民衆が反乱を起すことを心配する者がいたとしたら、それはぜんぜんマト外れだった。みんなもう、やっと終った、という感じと、今後の不安とでいっぱいで、軍人に対して、もっと戦え! 腰抜けめ! などとは誰も言わなかった。軍隊も国民もいっぺんに戦意を失っていたのです。だからまもなくやってきたアメリカ軍にテロ事件ひとつ起らなかった。ついこの間まで、「鬼畜米英」などと言っていたのに。

 あの日本占領がうまくいったので、アメリカはイランやアフガニスタンの占領も楽勝だと思い込んでしまったのかもしれません。逆に、それほどまでに戦意を失っていたのであれば、ではなぜ、敗戦に至るまでの間に戦争はもう止めろという暴動やテロが起らなかったのか。これも不思議です。国民はなぜ、あれほどの苦痛を強いる政府や軍に、最後の最後まで、ただおとなしく従っていたのか。私自身、反乱の意志など持たなかった。

 どうやら日本の軍国主義は、われわれ日本人の多数の途方もないほどの従順さによってこそ支えられていたと言わざるを得ません。警察国家だったからだと言っても、日本の警察は国じゅうに強制収容所を作って不平分子を押し込むほど巨大ではなかったのです。

 われわれはじつに従順であり、我慢づよく、さらには大いに付和雷動的でした。あの侵略的な軍に大いに喝采していたのです。軍と半ば一体化し、だから軍がまいったときには国民もまいったのです。残念ながら軍国主義は一部の軍国主義者たちだけのものではなく、草の根の広がりと深さを持っていました。

 その時代の気分とものの感じ方、考え方について考えてみようと思います。われわれは戦後に努力して平和主義者に転向することに成功したけれど、じつは軍国主義を支えていた心のありようは根が深い。いまのわれわれの平和主義がそれ以上の根の深さに達しているかどうか、反省を止めたら恐ろしい。そう思うからです。
(佐藤忠男著「草の根の軍国主義」平凡社 p7-8)

■━━━━━


戦争呪う今日を生きる
 欺瞞の過去に感慨無量
  水上 勉

 大正八年三月生れなので、昭和改元は七歳の十二月。大正天皇崩御と、たった六日しかなかった昭和元年を、尋常科二年生で送りむかえた。福井県若狭本郷の谷奥の村でだった。九歳で京都へゆき、禅寺の小僧になったが、村ではなぜか奉公に出るといった。ぼくだけでなく、小作人の家の次三男は京、大阪で丁稚(でっち)した。それを奉公というのである。

生れた年が米騒動、シベリア出兵、農村は全国的に疲弊、ぼくの家は朝夕粥を喰っていた。のち母が、お前が京へ出たことで助かった、といっていたから出家も口べらしだったのだろう。小作人の家は、子の躾や教育を奉公先の主人にあずけたのである。

京都は御大典だった。町じゅう提灯がともって、市民は夜おそくまで「えらいやっちゃほい」と踊っていた。男は女に化け、女は男に化ける扮装で、なぜあんなに町じゆう狂ったように踊っていたのか、子供心にも不思議な光景だった。

「人より馬」へつらう毎日

 昭和六年の満州事変、上海事変は仏門中学の一年生。寺の小僧もゲートルをまき、くりくり頭で、執銃教練をうけた。奉公人は徴兵検査で年期があけ、入隊するまで「御礼奉公」といって無給で主人につかえた。ぼくと同じ小作農家の友人の場合を見ると、村では喰えぬから、奉公先で喰い、年期あけると軍隊で喰う。これが生きるコースで、除隊になってはじめて一人前だった。だが、除隊できた者はいいけれど、そのまま村へもどらぬ者もいた。満州や北支、中支で死んだ。ぼくらの教科書では、日清、日露も「戦役」だった。戦争は「役」であった。

 丙種合格で現役にはゆかなかったが、十九年にぼくは召集で京都の伏見輜重(しちょう)隊に入った。「輜重輸卒が兵隊ならば蝶やとんぼも鳥のうち」と村の盆踊りでうたわれたその兵科だった。

Fという鬼軍曹がいて、「お前らは一銭五厘であつめられたが、馬はそうはゆかぬ。天皇陛下のお馬ゆえ、放馬したり、傷つけたりしたら重営倉だぞ」といった。朝から晩まで馬の尻をふき、傷つけぬよう荷駄を負わせたり、馬房のそうじをしたりして、馬とくらした。

馬は若いくせ馬が多く、調練もゆきとどいていなかったので、蹴られて死んだ仲間もいた。いくら働いても星は一つで、出世できない兵科だった。この兵科出身で軍隊を語らぬ人が多いのは、歩兵や騎兵のように華いだ物語がないせいだ。書けば枚数もつきぬ苦惨の日々をここでぼくも語る気がしない。除隊になって助かったが、そろそろ敗け戦だとわかっている前線へ出かける戦友や馬と、伏見の営庭で別れた暑い夏の一日をぼくは忘れない。みな死んだ。

 上官にへつらい、自分にも嘘をつき、だまし、狡猾(こうかつ)に、要領よく立ちまわらねば、鬼軍曹からスリッパで撲(なぐ)られた内務生活。めしの盛りの少しでも多いアルミ皿にむかって、二十人の班兵が必死に殺到した食事時間を思いうかべても、ぼくらは犬になっていたと思う。戦役は歌にあるような花々しいものではなく、人間をゆがめる日々だった。それゆえ、ぼくは戦争を呪う今日を生きる。

 F軍曹が一日に何どかその名を出して、ぼくらを直立不動で「気をつけ」の姿勢にさせた大元帥陛下は、昭和二十年に終戦を英断され、やがて人間宣言された。まるで悪夢のようだったな、と輸卒時代をぼくは若狭へ帰ってふりかえったが、生きてこそそれもいえたことで、死んでいった友や馬はこの終戦を知らなかった。このことがいまも悲しい。

 正直いって、よく生きのこれた、という思いが戦後生活のぼくの背中にへばりついてはなれなかった。今日も村へ帰れば、石塔になっている友の名を見て、つくづくそれを思う。ぼくの家は兄も弟も応召したが、戦死もせずもどれた。小作人の家に田がもてた農地改革は戦後早々の片山内閣だった。人の田を這いづりまわってぼくらを育ててくれた母には、夢のような自作田だったろう。戦後の記憶でよろこばしいことの一つになった。

だが、その解放でせっかく田がもてたのに、やがて田を放す農家もうまれた。何人も男がいたけれど、全員戦死の家。生きてもどれた子らの揃った家。終戦はやがて「奉公」を「出稼ぎ」と名を変え、ひろみへ出ねば喰えぬ農民をうんだ。それが新しい出発であった。

今は帰らぬ友 従順な仲問

 天皇の崩御で、昭和の六十四年が終った。天皇の名をつかって、戦争をおこし、相手国を侵略した軍閥の専横を、どの新聞も、テレビも報じた。まことぼくにも昭和二十年、二十六歳までは重苦しい昭和だった。戦後の四十三年間は、背中にへばりついたうしろめたさを感じながら生きた歳月であった。そうして、七十歳になっている。母が自作田をもらってよろこんだ年齢より老いたのだ。

 天皇の崩御の日、ぼくは若狭にいた。平成の改元をむかえる報道も若狭できいた。感慨は無量。家の者たちが、村の神社にお詣りにいった。その神社は、大工だった父の建てた社殿をもっていた。ぼくが召集をうけて出発する日、死ぬ覚悟で柏手をうった神社だった。一しょに送られて出た友は、死んでいる。ぼくはひとり家にいて、戦死した人々のことを考えずにおれなかった。もちろん、死者は平成の改元を知らない。大元帥陛下だったこともある、人間天皇の崩御もである。

 ぼくは、農民のなかでも、小作人の子としてうまれて、「奉公」にでることで、生計を立てざるを得なかったありふれた庶民のひとりである。僧侶になることを嫌ったことでながらく父の勘当をうけたが、小説を書くようになって、父との仲も雪解けが生じて村へも帰れる身となったが、その父も八十五歳で死に、母も八十二歳で死んだ。感慨無量の中味は、親たちの辛苦なくらしの思い出もあるけれど、戦争時代を、何の抵抗もせず、自分に欺瞞を課して、あくせく生きたみにくさが大半を占める。

伏見の輔輜重隊には、Fのほかに、やさしげな上官もいて、僧侶出身だときいた。彼はどなることはあっても、スリッパで撲ることはなかった。M上等兵は足をのばすだけで、ぼくらに長靴をささげもたせてはいた。伊勢で馬喰(ばくろう)をしていたということだった。Fも近江の農民の子だときいた。「奉公」さきで、主人に躾けられ、主家の利害を考えながら生きたように、軍隊でも従順に働いた仲間だったのだろう。

過ち二度と起こさぬ決意

 ぼくの昭和は、このような人々をぬきにしては考えられない。六十四年の二十年までが「戦役」で、二十年から三十年頃までが飢餓、闘病とつづき、三十六年の直木賞受賞で小説で喰えるようになった。高度成長期に入って、発表雑誌もふえて運を拾ったといえるが、あの日、ぼくにも前線出動命令が降りていたら、馬と一しょに死んでいたという思いはいまもある。

平成と改元されても、あやまちの多かったこの人生をひきずってゆくしかないのである。戦争をおこそうとする者にはあとわずかな命ゆえ、命がけで闘わねばならぬとぼくは一月七日から八日にかけて、ひとり考えた。(平成元年一月十一日)(作家)
「朝日新聞」 一九八九年一月十三日付夕刊『昭和と私』より
(水上勉・不破哲三「一滴の力水」光文社 p75-81)

■━━━━━

Q&A
日本共産党 知りたい 聞きたい

軍国主義、ファシズム、ナチズムとは?

〈問い〉 軍国主義、ファシズム、ナチズムという用語は、どう使い分けられているのですか?(東京・一読者)

〈答え〉 「軍国主義」とは、政治・経済・文化のあらゆる面で全国民を侵略戦争やその準備に動員する体制とそのイデオロギーを表す用語ですが、そのあらわれ方は国によって違い、それぞれ特徴があります。戦前の日本の政治体制は、その意味で軍国主義そのものでした。

 「ファシズム」の用語は、その発祥の地であるイタリアだけでなく、暴力的・専制的な政治支配を表す用語として、広くもちいられています。ドイツのナチズムも「ドイツ型のファシズム」と表現されることがあります。1930年代によびかけられた「反ファシズム統一戦線」も、第2次世界大戦の火つけ役となったドイツやイタリアなどのファシズムと侵略戦争の危険に対抗するためによびかけられたものです。

 「ファシズム」が一般的な用語となったのは、イタリアが1922年というもっとも早い段階で、ムソリーニを総裁とする国家ファシスト党がクーデターで支配を確立し、25年以降一党独裁体制をうちたて、そのすさまじさを世界にみせつけたことによります。その後、ドイツやポルトガル、スペインなど、似たような暴力的・専制的な政治支配を表す言葉として使われていきます。

 「ナチズム」は、ヒトラーを指導者とするナチス(国家社会主義ドイツ労働党)によってつくられたドイツのファシズムをさします。ナチスは、テロとクーデターなどをくりかえし、1932年11月の総選挙で第1党となり、33年ヒトラー首班の連立内閣を組織し、共産党の非合法化、さらに社会民主党など他の政党を解散し、一党独裁体制をうちたてました。ゲシュタポ(秘密警察)と強制収容所による残酷な弾圧、議会制度の廃止、極端な人種的排外主義と侵略政策などを特徴としています。

 これにたいして戦前の日本では、1931年の中国侵略戦争開始以降、軍部が発言力を拡大するなかで、軍国主義が強化されました。そして、1940年には日独伊三国同盟を結び、せまりつつある太平洋戦争にそなえて、大政翼賛会発足をはじめ侵略戦争推進のための国民動員体制をつくりあげました。

 しかし、日本の軍国主義体制もファシズムの一種か否かについては議論が分かれています。それは、イタリアとドイツの場合と日本の場合は、大きく異なっていることがあるからです。イタリア、ドイツと日本では、民主主義、議会制度の発展の度合いが違っていて、ムソリーニ、ヒトラーが政権を握るのは、テロやデマゴギーなどの暴力がありますが、それと並行して国会で多数を握るという経過をたどりました。

 これにたいして日本では、天皇が絶対的な権力を握っていて、最初から議会の権限が制限されており、ファシズム政党が政権を奪取するという経過をたどっていません。また、天皇制権力は、独占大企業とともに、封建的な性格の強い地主勢力を基盤にしていたという特徴もあります。(喜)
(「赤旗」20070830)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「着たにせよ、着せられたにせよ、いずれにしてもその先にあるのは、戦争への是認を無意識のうちに行うことになるという刷り込みの構図である」と。