学習通信071024
◎彼はなんのために働くのか?……

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《筆洗》

 <ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて>。詩人の故茨木のり子さんの『自分の感受性くらい』はこう始まり、次の一節で締めくくられている。<自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ>。しかられていると感じる人は、まだ感受性がある方なのだろう

▼何も感じない人が「官」の世界で増えているのでは、との思いをこの数日深くする。厚生労働省では薬害肝炎の問題について、患者個人の特定につながる情報を把握しながら、本人に伝える努力を怠っていた。早く知ることで、症状の悪化を防げた患者もいたに違いない

▼防衛省では海上自衛隊がインド洋で活動していた米補給艦に給油した量について、国会での閣僚答弁の誤りを担当者の段階で把握しながら、訂正しないでいた。情報操作にしか見えない

▼「世のため」「人のため」。官の道に進むのは、そういう志のある人ばかりだろうと学生のころ考えていた。今も全否定はしたくない。長く歩んでいるうちに「自分の保身のため」「組織の利益のため」に変わっていくのかもしれない

▼民間の世界も批判しているだけではすまない。和菓子の老舗「赤福」など、食品の偽装問題が毎日のように紙面をにぎわせ、一級建築士による耐震偽装もまた発覚している。まさかうそをつくために仕事を始めたのではあるまい

▼茨木さんの先の作品には<初心消えかかるのを/暮しのせいにはするな>とのくだりもある。初心を思い出してみよう。おそらく感受性を守ることにつながる。(「東京新聞」20071023)

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毎日、朝から晩まで、いやな仕事をしなければならないことほど、恐ろしいことはない。労働者が人間的な感情をもっていればいるほど、彼にとってそういう労働はいやなものになるに違いない。なぜなら彼は、そういう強制を自分にとっては無意味なものと感ずるからである。

いったい彼はなんのために働くのか? 創造の喜びのためか? 自然の衝動からか? けっしてそうではない。彼が働くのはお金のためであり、労働そのものとはまったく関係のないあるもののためであり、働かなければならないから働くのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p182)

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第二節 価値増殖過程

 生産物──資本家の所有物──は、ある使用価値、糸、長靴などである。

しかし、たとえば長靴がある意味では社会進歩の基礎をなしており、またわが資本家が断固とした進歩主義者であるとしても、彼は長靴を長靴そのもののために製造しはしない。

商品生産においては、使用価値は、決してそれ自身のために人が愛する&ィではない。

この場合、使用価値は、一般に、それらがただ交換価値の物質的基体、その担い手であるがゆえに、またその限りでのみ、生産されるのである。

そしてわが資本家には二つのことが問題である。

第一に、彼は、交換価値をもつ使用価値、販売予定の物品、商品を、生産しようとする。

そして第二に、彼は、その生産のために必要な諸商品の価値総額よりも、すなわち彼が商品市場において彼の貴重な貨幣を前貸しして得た生産諸手段と労働力との価値総額よりも、大きい価値をもつ商品を生産しようとする。

彼は、使用価値だけでなく商品を、使用価値だけでなく価値を、しかも価値だけでなく剰余価値をも、生産しようとする。
(マルクス著「『資本論』第1巻」新日本新書A p318)

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 労働過程は、資本主義的基礎の上では、二つの独自性をもっている。第一に、労働者は資本家の管理のもとで労働する。

第二に、生産物は資本家の所有物である。なぜなら、労働過程は、いまや資本家によって買われた二つの物、すなわち労働力と生産手段の一過程にすぎないからである。

 しかし、資本家が使用価値の生産を求めるのは、使用価値そのもののためではなく、ただ交換価値の担い手、とくに剰余価値の担い手としてだけである。このような条件──そこでは商品は使用価値と交換価値との続一であった──のもとでは、労働は生産過程と価値形成過程との統一となる。
(エンゲルス著「『資本論』綱要『資本論』書評」新日本出版社 p47-48)

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◎「資本家が使用価値の生産を求めるのは、使用価値そのもののためではなく、ただ交換価値の担い手、とくに剰余価値の担い手としてだけである」と。