学習通信071101
◎よい保育園ってどんな保育園……

■━━━━━

 遊戯は、幼児の発達の、この時期の人間の発達の、最高段階である。

というのは、戯ということば自身もしめしているように、遊戯は、内面的なものの自主的な表現、内面的なものそのものの表現にほかならないからである。遊戯は、この段階における人間のもっとも純粋な精神的産物である。

同時に、全人間生命の、人間および事物のなかの内面的な、ひめられた自然生命の原像であり模倣である。

したがって、遊戯は、遊戯をしている子どもたちにも、それをみている大人たちにも、ともに喜び・自由・満足・安息を与え、まわりの大人たちとの和合をもたらすものである。

あらゆる善の源泉は遊戯にあり、また遊戯からあらわれてくる。

しっかりと、自発的に、黙々々と、忍耐づよく、身体がつかれるまで根気づよく遊ぶ子どもは、きっと、また有能な、黙々として忍耐づよい、他人の幸福と自分の幸福のために献身する人間になることであろう。

この時代の幼児の生活のもっとも美しい姿というのは、遊んでいる子どものことではなかろうか。──遊戯に没頭しきっている子どものことではなかろうか。──遊戯への完全な没頭の後に眠りこんだ子どものことではなかろうか。

 この時代の遊戯は、すでに前にのべたように、坦なる遊び戯れ(Spielerei)ではない。

それは、高い重要性と深い意義とをもつものである。ゆえに、母親よ、子どもの遊戯を養い育てよ! 父親よ、子どもの遊戯を保護してやるがいい。

──人間に真に精通している者のおちついた、するどいまなざしにとって、この時期の子どもの自主的にえらんだ遊戯のなかにその子どもの将来の内面的な生活があることは、明々白々である。この時期の遊戯は、将来の全生活の若芽の中につつまれた嫩(わか)い子葉である。

というのは、遊戯において、人間の全休が発達し、全人間のもっとも清純な素質、内面的な心があらわれてくるからである。死にいたるまでの人間の将来の全生活は、この時期にその源泉をもっている。

この将来の生活が清純なものであるかそれとも濁ったものであるか、おだやかなものであるか、それともあれ狂ったものであるか内から湧れてでてくるものであるかそれとも上下に激動するものであるか、勤勉であるか、それとも怠惰であるか活発であるかそれとも不活発であるか、沈うつな思いにしずむものであるかそれとも清朗な気持で創造していくものであるか、息ぐるしい抑制的なものであるかそれとも清朗な観照的なものであるか、建設的なものであるかそれとも破壊的なものであるか、協調をもたらすものであるかそれとも不和をもたらすものであるか、争いをかたらすものであるかそれとも平和をもたらすものであるかどうかということ──父母、家族および兄弟姉妹、市民社会および人類、自然および神にたいする子どもの将来の関係──は、子どもの個性および自然の素質にしたがいながらも、とくにこの時期の子どもの生活のし方に左右されるものである。


 というのは、自分自身の生活と同胞との共同生活と自然および神との共同生活とは、まだまったく一体のものだからである。

したがって、この時期の子どもは、花がすきなのか、それとも花についての自分自身の喜びのほうがすきなのか、それとも花を母親または親たちのところへもっていってみせ、母や親たちを喜ばせることがすきなのかそれとも愛する神のさだかならぬ予感がすきなのか、ほとんどわからない。

この時期の子どもがゆたかに惑ずるこの喜びを、誰が分析することができよう。

──この時期の子どもがきずつけられてしまうと、この時期の子どものなかにある彼の将来の生活の幹の子葉がきずつけられてしまうと──その時こそは、最大の骨折りと最高の努力とをもってして、やっと子どもはつよくなり、大人の生活をおくるようになる。

この、大人の生活にいたる発達・形成の途上において、教育不全に、少なくともへんぱな発達におちいらないようにするにはまことに困難である。
(フレーベル著「人間の教育 1」世界教育学選集 明治図書p50-51)

■━━━━━

いい保育園って
どんなところ?
 明星大学人文学部人間社会学科教授
 垣内 国光さんに聞く

 よい保育園ってどんな保育園でしょうか。帰り際、子どもが目を輝かせて「先生、おもしろかったね。明日もやろうね」といってくれるような、「あのね、今日、保育園でね……」と親に話してくれるような保育園ではないでしょうか。そんな保育園では、保育士が子どもたち一人ひとりを受け止めてくれて、愛してくれています。「〇〇ちゃん大好き!」「すてきだね!」という保育士の言葉は、子どもたちに人間っていいなあ∞生きていくってすてきなことだね≠ニ伝える一番あったかいメッセージになると思います。

 そんな保育をしていくためには何か必要なのでしょうか。

心を響かせ合う保育こそ

 一日の多くの時間を子どもたちは保育園で過ごしています。保育士は子どもたちの権利の代弁者であり、子どもたちの最大の理解者だといわれています。よい保育というのは、子ども同士、子どもと保育士、子どもと他の親、親同士、親と保育士が心を響かせ合えている保育だと思います。おとなが互いに心おきなく話し合え、子どもをまんなかにおいて、子育てを豊かにするために共同できる関係があることだと思います。「私、預ける人、あなた保育する人」「私、保育料を払う人、あなた儲ける人」という関係では、子どもたちを豊かに育むことはできません。

 すでに小学校から競争を強いられ、互いに分断されがちな今、保育の共同性はとても重要になっています。保育園では、豊かな家の子どもも、そうでない子どもも区別なく育ち合え、親同士も自然に助け合うことができます。そんな場所はなかなかありませんね。私もいまだに子どもの保育園時代の親仲間と付き合いがありますが、すてきなことですね。子育て支援という意味でも大切にしていくべきだと思います。

遊び込むこと≠フ大切さ

 子どもの過ごし方で大事なのは、子どもが年齢にふさわしく遊び込むことができているかどうかという点です。親には、ただ遊んでいるだけ≠ニ映るかもしれませんが、子どもたちは遊びのなかでさまざまなことを学んでいるのです。負けて悔しい! もう一回やろう≠ニ思ったり、楽しさや心地よさを共有したり、どうしてこうなるの?≠ニ疑問を抱いたり、さまざまな刺激を受けているのです。

 漢字や英語を教えることをうり≠ノしている保育園も増えていますが、「遊び」の成果は、こうしたものと比べてすぐには見えません。よい保育ほど自然に見えるものなのです。非常に地味です。

 しかし、豊かな遊びの保障こそが、子どもの発達を保障するためには一番大切なものなのです。日本の保育園は、この点でも非常にがんばってきたといえるのではないでしょうか。

人間の発達にかかわる専門職

 そういう保育ができるために何が必要なのでしょうか。私は、保育の専門性≠保障することがもっとも大切だと考えています。

 保育士の資格をもっていることはもちろん大切ですが、資格があるだけでは不十分です。たとえば、ADHD(注意欠陥多動性障害)をはじめ、軽度の発達障害をもった子どもたちについても、どんどん新しいことがわかってきています。よい保育をしていくためには、常に学び、知識と技術が更新されていかなければいけません。

 また、さまざまな家庭環境をもつ子どもたちを、一人ひとりをよく観察して理解する能力も必要です。一人ひとりの個性を認め、その子どもに合わせた働きかけをしていくためには、十分な経験と裁量性も必要です。各年齢を二年ずつ受けもち、障害児の保育も経験し……と考えると、一人前の保育士になるのに十数年はかかるといわれています。

 保育士の個性もある程度認められるべきでしょう。実践の裁量性を認めない保育──マニュアル通り、園長にいわれたことしかやってはいけない保育では、よい保育はできません。

 保育の質は、保育士が人間の発達にかかわる専門職≠ニして生き生きと働けるかどうかに大きく左右されるといえるでしょう。

権利の代弁者になつてこそ

 「儲けるため」ではなく、「子どもを豊かに育てるため」に保育をするのだという使命感≠ェ現場と経営に自覚されていなければ、こうした保育の専門性を高めることはできません。

 保育士たちが専門性を維持向上させていくためには、保育士を子どもの発達にかかわるプロとして処遇する労働条件も保障されなければなりません。そのなかには、専門性にふさわしい賃金、労働条件はもちろん、研修会に参加することや、労働組合の活動に参加する権利も含まれます。

 子どもたちに利益になることには一生懸命になり、不利益になることにはきちんと反対できる保育士……。それがプロの証だと思います。子どもたちの最大の理解者である保育士が、子どもたちの権利を代弁しなければ、子どもの権利を守れないことがあるからです。

岐路に立つ日本の保育

 今、全国で保育園の民営化が進められようとしていますが、さらに政府の規制改革会議は、保育の自由化=施設側が料金やサービスを決め、利用希望者と保育施設が直接入所について契約できるようにすることを検討しています。しかし、保育の自由化では、保育料が割高になり、低所得者や障害のある子どもが排除される危険があることを、「朝日新聞」(〇七年十月三日付)も指摘しています。

 公的保育制度がなく、保育の市場化=「儲けの場」にすることを「先取り」しているアメリカでは、ケアワーク(介護職と保育職)は、デッド・エンド・ジョブ(deadend job =将来性のない職業)と呼ばれているそうです。それくらい低賃金で、長く働き続けられる仕事でないのです。日本の保育をデッド・エンド・ジョブにしてはなりません。

 日本の保育は、長らく家事の延長≠フように考えられ、他の専門職──教員や医師、弁護士などとくらべて保育者の専門性は非常に低く見られてきました。職員の配置基準を見ても、国の基準では(地方自治体によって上乗せがあります)、五歳児三十人にたいして保育士一人でいいということになっています。他の先進国では、通常、保育士一人にたいして子どもは十人ていどです。スウェーデンでは保育士一人にたいして子どもはたった五人です。政府は一人の保育士がもっと多くの子どもをみられるように基準を緩めようとしていますが、それは世界の流れから見てもおかしいのです。

 九月十八日に発表されたOECD(経済協力開発機構)の調査で、日本は就学前児童にかける公的な教育支出が、米英の半分であることがわかりました。同じOECDの別のデータでは、保育への公的支出は、主要国の四分の一から五分の一です。主要国で最低です。厳しい状況のなかで、日本の保育園がいかに質の高い保育をしてきたかがわかります。

 こうした日本がもっている公共的な保育、脱市場的な保育システムを大切にしていくのか、それとも、今でさえ低い保育への支出をさらに削ってアメリカの後追いをするのか。このことが今、問われているのではないでしょうか。
(月刊「女性のひろば」07年12月号 日本共産党中央委員会 p28-31)

■━━━━━

保育者の任務と課題

 学習というのは、ともすれば地べたにはいがちになる私たちの目を、うなだれがちになる私たちの頭を、高くもたげさせて、その富士の頂を見せてくれるものだ、と私は思います。現在のなかに育ちつつある未来を見てとる力を与えるもの、それが学習だ、といってもいいでしょう。

 いまの時代は、子どもまでがいちはやく未来を見失ってしまいかねない、そんな傾向がますます強まっています。そんなとき、子どものもっとも身近な人間仲間代表としての私たちが未来喪失におちいっていたら、どうなるでしょう。重ねていえば、それは、子どもたちから未来をうばう手助けをすることになってしまう。これは、人類の未来をうばう仕事に加担する、ということでもあるわけです。

 だから、私たちは断じて未来を見失ってはならない──私たち自身のためにも、子どもたちのためにも。くりかえしそう思うんです。子どもたちが未来を見失いそうになったとき、子どもの心にとりこまれた内なる仲間としての私たちが、「もっと高く、もっと高く目をあげて!」というあの船員の叫びをあげることができなければいけない。子どもの左半球にも右半球にも、そういう船員の叫びを内なる仲間としておくりとどけられるような、そんな人間仲間代表であることが私たちに求められている、と思うんです。

 そのためには、勉強しなければなりませんね。社会について、生き方について、その他あらゆることについての勉強を。たんに知識を左半球につめこむというだけでなく、しっかりとした知性にうらづけられた真に人間らしい生き方を私たち自身のものにすることが──そのなかで人間的なハラの虫をやしなうことが、必要です。保育についての専門的・技術的知識を身につけ、そつなくそれをこなすというだけでは、保育者としての任務をはたすことにならない、と思うんです。なにしろ、保育の仕事は人間を育てる仕事なんですから。
(高田求著「未来をきりひらく保育観」ささらカルチャーブックス p158-159)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「この時代の幼児の生活のもっとも美しい姿というのは、遊んでいる子どものことではなかろうか」と。