学習通信071105
◎強力な国防力とともに国家の破産が起こる……

■━━━━━

あすへの話題
エンゲル法則の話
東京大学教授 吉川 洋

 経済学でも「法則」という言葉が使われるけれども本当に法則の名に値するものはあまりない。「光の速度が一定である物理学者がうらやましい」。これはある大経済学者のぼやきである。

 数少ない経済法則の中で、文字どおりの「法則」として百年を越える時の流れに耐えてきたのが「エンゲル法則」だ。家計の支出に食費が占めるシェアは所得の水準が高くなるほど低くなる。ドイツの統計学者エンゲル(一八二一〜九六年)がこの法則を発見した。今も昔も、そしてどこの国でも、金持の家計では食費のシェアは貧しい家計よりも低い。国全体の平均的な食費のシェアを五十年前の日本と今の日本、あるいは今の日本と日本より平均所得の低い途上国で比べてもエンゲル法則は立派に成り立っている。

 エンゲル法則が成り立つ訳は、食料に対する需要に上限があるからだ。食料と人間の付き合いは古い。先月、縄文中期の土器から大豆栽培の痕跡が発見された。五千年前に大豆から出発し、豊かになるにつれて食料の需要と生産(農業)は増えたが、需要はやがて頭打ちになる。理由は簡単。人間の胃の腑には限界があるからだ。食料に対する需要は人口の増加を越えてそれほど大きくは成長しない。

 実はエンゲル法則が成り立つのは食料だけではない。経済を引っ張ってきた工業製品やサービスでも洗濯機や車など昔からあるモノに対する需要は必ず飽和する。そして需要の飽和につれて経済成長は鈍化する。しかし新しいモノの登場がエンゲル法則をリセットする。経済成長の歴史は、工ンゲル法則と新しいモノ・サービスの登場とのイタチごっこにほかならない。
(「日経」夕刊 20071102)

■━━━━━

エンゲルの真理

 働く能力があり、働きたいと望んで、必死に職探しをしているのに職がない。それは本人の責任ではない。

 もし家庭の中に全自動洗濯機などの機器が入れば、主婦の労働時間は短くなり、その分、ゆとりが生まれる。機械化は人間の労働を軽減するためのものだ。

 しかし、資本主義社会では、技術の発達が労働者の労働時間短縮には結び付かない。機械の導入によって、いらなくなった人手を解雇して利潤の増大をはかる。それだけでなく、資本は低賃金の国に工場を移転し、そのために本国の労働者は職を失う。さらに経済のグローバリゼーションによる多国籍企業化や合併によって、これまでは必要とされていた専門分野のエリートまでもが、職場から追放された。失業の三重苦である。

 痛みは責任のない失業者におしつけられて、個人の人生からみれば、取り戻すことが不可能な人生の価値の多くが、廃品同様に捨て去られているのである。社会主義国家の没落によって、いま、世界は資本主義的な市場経済と競争社会に一元化されそうな勢いであるが、その枠組みが豊かさの条件を破壊するとしたら、喜ぶことはできない。

 エンゲル係数で有名な統計学者エルンスト・エンゲル(一八二一〜九六年。プロイセン王国の統計局長をつとめた)は、一〇〇年以上も前に労働者の家計を分析して、次のように言った。

 「生産にかんしては、世界中で最も技量のある国民でありながら、同時に最もみすぼらしい国民であることもありうる。強力な国防力とともに国家の破産が起こる場合もある。最善の病院があるにもかかわらず、国民が貧困と窮乏のうちに病弱であることもありうる」

 「各国の経済力は物的生産量などで比較するのは無意味で、経済力を表す真の指標は、それぞれの国民の生活水準、つまり福祉の測定としての生計費である」(『ベルギー労働者家族の生活費』一八九五年)

 この言葉は、民主主義や人権の基礎が生活の福祉水準にあることをひろく世界に認識させ、経済の活力もまた、自由と安全を基盤にした人間の活力なしにはありえないことを具体的な家計分析によって示した。いまの言葉でいえば、経済利益よりも、また軍事力よりも「人間の安全保障」が最優先される社会でなければ、持続可能な活力は生まれない、ということである。

 しかし、国際競争に勝ち残ろうとする政財界は、個人の人生と生活の価値を犠牲にするこれまでどおりの方法で、いやそれをもっと激化した方法で不況に対処しようとしている。国と企業経営者の誤った判断の巻きぞえでバブルに巻き込まれ、次には不況のどん底につき落とされた市民は、生活の見通しを失って、将来不安をかきたてられている。
(暉峻淑子著「豊かさの条件」岩波新書 p27-29)

■━━━━━

エンゲル,C,L,E
ベルギー労働者家族の生活費
1895年

 クリスチャン・ローレンツ・エルンスト・エンゲル(1821〜1896)はドイツ連邦ザクセン王国のドレスデンで生まれた。はじめは鉱業専門学校で採鉱冶金学を学び,卒業直後の1846〜47年にヨーロッパ各地の研修旅行に出かけた。その時に,フランスでル・プレーと,そしてベルギーでケトレーと知りあい,大きな影響を受けた。帰国してからはザクセン政府の産業労働調査委員となった。次いで1850年には,ドイツではじめての一般産業博覧会を開設する責任者となり,多大な成功をおさめた。この功績により,同年設立されたザクセン王国統計局の局長となり,1858年まで在職することになった。さらに1860年にはプロシア王国統計局長となり,1882年まで在職した。

 30年間を官庁統計の組織者としてすごし,トッブの座にありつづけたエンゲルは,統計行政のうえでも数数の刷新をもたらした。それは,統計中央委員会をつくって官庁統計の統一と集中化をはかるなど,統計機構の整備からはじまる。つぎに,国勢調査の方法として,被調査者自身による記入方式(自計主義)を採用し,さらに個人票による調査方式を導入したことがあげられる。また,統計の公開性を強調し,その普及をすすめるために,原資料・年鑑・雑誌などの出版をおこなった。同時に,国際統計会議においても指導者として大きな役割を果たしている。さいごに統計教育についても,統計局付属の統計ゼミナールを設立し,統計学と社会科学の教育をおしすすめている。このゼミナールは,のちに講壇社会主義者として有名になったブレンターノなど多くの人材を育てた。

 エンゲルは統計学を方法の科学ではなく,独立した実質科学としてとらえ,その内容としては包括的な計量社会学体系である「デモロギー」を提唱した。こうした壮大な構想のもと,彼のおこなった研究は多くの分野にわたっており百科全書的なものであるが,そのなかでも注目されるのがエンゲル係数の名でよく知られている消費統計の研究である。この「経済学と統計学と社会政策との交錯地帯」(森戸辰男「エンゲルの生涯と業績」『統計学古典選集』第11巻所収)の研究にこそ,エンゲルは最も愛着をもち,精力をそそいだのである。

それは消費が人間の福祉にいちばん密接な関係にあると考えたからであり,絶筆となった『ベルギー労働者家族の生活費』も,「国民福祉の測定」・「家族福祉の測定」・「個人福祉の測定」の三つの部分から構成される「デモス」とよばれる人間福祉測定学の体系の一部分であった。

 『ベルギー労働者家族の生活費』のなかで述べられているエンゲル法則は,すでに「ザクセン王国の生産および消費事情」(1857年)という論文で提唱したものをさらに展開させたものである。一般には,所得が増加すれば食料費への支出割合が減少することをエンゲルの第1法則,食料費への支出割合が家族または国民の福祉の尺度であることをエンゲルの第2法則とよび,単にエンゲル法則というばあいには第1法則をさすことが多い。また住居費,とくに家賃についての同じような経験法則をシュワーベ法則とよぶ。さらに今日ではエンゲル関数(消費関数)として,一般に家計項目支出を支出総額で説明するものと広義に解釈されている。

 現在は,消費支出にたいする食料費の比率をエンゲル係数とよんでいる。また動物性食品が高価なのにくらべて穀類などのでんぷん質食品は安価であることから,熱量構成比におけるでんぷん質の比率を第2エンゲル係数ともよんでいる。これはでんぷん質の比率が,単に栄養の構成比を示すだけではなく,生活水準を示す指標ともなりうるからである。エンゲル係数は生計費に反映された生活水準や最低生活費の測定に利用されるが,比較するばあいには食料の相対価格や生活諸条件ならびに生活様式に大きな違いがないことが前提となる。エンゲル法則はあくまで統計的な経験法則であって,所得がある限界以下に低下したばあいにはエンゲル法則の停止あるいは逆転という現象もみられるのである。

 エンゲル法則のほかにも,消費についてのデータを家計調査から,しかもアンケートや面接聴き取りではなく家計簿から得る方法の提唱,また家族構成の変化を生計費に反映させる消費単位(新生児を1.0として男は25歳,女は20歳まで毎年0.1を加算する)の研究などが注目される。(福島利夫)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「各国の経済力は物的生産量などで比較するのは無意味で、経済力を表す真の指標は、それぞれの国民の生活水準、つまり福祉の測定としての生計費である」と。