学習通信071106
◎万人が万人に対して狼……

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明日への話題
悲しむべき真実
作家 柴田 翔

 十数年前〈ベルリンの壁〉が崩壊し、同時に共産主義の夢も死んだ。共産主義の理想から生まれたはずの社会主義国家はみな独裁的宮僚国家と化し、計画経済は究極の不経済的机上プランとなっていた。

 今や〈社会主義的市場経済〉なる繁栄の中国は実質、開発独裁の一変形であり、孤塁を守る世襲制社会主義北朝鮮の計画経済は闇市場と物物交換で危うい余命を保つ。

 だが社会主義の崩壊、共産主義の死は──つまり共産主義の理想が現実には独裁と停滞しか生み出しえなかったことは──人類にとって喜ぶべき事態なのだろうか。

 共産主義は、第一に人間の本性が善であり第二に人間知性が無限の能力を持つことを前提にしていた。一人は万人のために、万人は一人のために身をささげ、また輝かしい人間知性が作る計画は、社会の全経済活動を狂いなく制御しうる……。

 だが人間は自分勝手で冷酷であり、その知性もエゴに歪んで限界にぶつかる。社会主義の崩壊が示したのは人類についての悲しむべき真実だった。

 資本主義は逆に人間のエゴイズムを基盤とする。市場経済は人間の自己利益追求を動力源とし、かつ人間を、敗北者となる恐怖を挺子に、利益優先へと誘導もする。それは人間の本性に根ざすゆえに繁栄する。

 しかしそれを野放しにしたとき何か起きるか。弱者の絶対的窮乏化と社会の共同性の崩壊。それを予言したのがマルクスであり、描き出したのはディケンズたった。そして、それが共産主義の幻影を生んだ。

 バブル経済崩壊後の市場原理主義は、戦後社会の安定の基盤を破壊した。失われた社会の共同性を、今後どう再構築するか。失敗すれば万人が万人に対して狼となる。
(「日経」夕刊 20071106)

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チャールズ・ディケンズ

チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens, 1812年2月7日 - 1870年6月9日)は、イギリスのヴィクトリア朝を代表する小説家。ポーツマスの郊外に生まれた。

年少時より働きに出され、新聞記者を勤めるかたわらに、作品集『ボズのスケッチ集』で登場。主に下層階級を主人公とし、弱者の視点で社会を諷刺した作品群を発表した。その登場人物は広く親しまれており、イギリスの国民作家とされる。作品は『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』『二都物語』『大いなる遺産』など。

生涯
困苦の少年時代
海軍の会計吏ジョン・ディケンズとエリザベスの長男として、1812年2月7日にハンプシャーのポーツマス郊外のランドポートに生まれた。2歳のときにロンドンに、5歳のときにケント州(現在は独立行政区メドウェイ)の港町チャタムに移る。チャタムでは6年間を過ごし、チャールズの心の故郷となった。少年期は病弱であり、フィールディング、デフォー、セルバンテスなどを濫読した。

靴墨工場のディケンズチャールズの家は中流階級の家庭であったが、父親ジョンは金銭感覚に乏しい人物であり、母親エリザベスも同様の傾向が見られた。そのため家は貧しく、チャールズが学校教育を受けたのは、2度の転校による4年のみであった。1822年の暮れに一家はロンドンに移っていたが、濫費によって1824年に生家が破産。チャールズ自身が12歳で独居し、親戚の経営していたウォレン靴墨工場へ働きに出されることになり、さらに借金の不払いのため、父親がマーシャルシー債務者監獄に収監された。家族も獄で共に生活を認められていたが、チャールズのみは一人靴墨工場で働かされ、しかもこの工場での仕打ちはひどく、チャールズの精神に深い傷を残した。数ヵ月後に父親の出獄が認められ、チャールズはウェリントン・ハウス・アカデミーへ行くことが認められたが、このとき母親に強く反対され、このことも強く心に残った。父親はのちに、『デイヴィッド・コパフィールド』の登場人物の一人であるミコーバー氏のモデルとなったとされる。

新聞記者から作家に
1827年からエリス・アンド・ブラックモア法律事務所に事務員として勤めたが、のちジャーナリストになることを決心し、速記術の習得に取り掛かった。これを修了すると事務所を辞め、法廷の速記記者となった。なおディケンズは芝居好きであったが、このころ俳優になろうとしたこともあった。20歳前後から諸雑誌から仕事の声が掛かるようになり、1834年に「モーニング・クロニクル」紙の報道記者となり、ジャーナリストとしての活動が本格化する。

定職の片手間に「ボズ」という筆名で書き始めた投稿エッセイが1833年、初めて「マンスリー・マガジン」誌に掲載され感激、その後も継続して書き続ける。なお、この時期の筆名の「ボズ」とは、ディケンズの弟オーガスタスに付けられたあだ名に由来するとされる。こうしたエッセイは後にまとめられ、1836年、第一作『ボズのスケッチ集』として発表された。優れた批評眼が注目を浴びた。

同年、編集者の娘であるキャサリン・ホガースと結婚した。二人は10人の子に恵まれたが、性格の不一致のため結婚生活はうまくいかなかった。なお、チャールズはキャサリン・ホガースよりもその妹のキャサリン・メアリを愛していたが、まだ幼かったこともあり、結局その姉と結婚したが、メアリはチャールズの結婚後もディケンズ夫妻の住まいに同居しており、この翌年急死した時にはチャールズにしばらく執筆活動を中断させるほどの打撃を与えている。

国民作家として
続いて発表した『ピクウィック・ペーパーズ』がサム・ウェラーの登場後に大人気となり、第一流の小説家として文才を認められた。さらに雑誌「ベントリーズ・メセラニー」の編集長を務め、同誌に初めて筋書きのある長編小説「オリバー・ツイスト」を発表、小説家としてのディケンズの人気はその後、終生衰えることがなかった。その後は虐待学校を題材にした『ニコラス・ニクルビー』、悲劇的な物語『骨董屋』などを発表、『クリスマス・キャロル』(1843年)以後毎年刊行された「クリスマス・ブックス」ものは子供から高い人気を得た。先に出た『ニコラス・ニクルビー』や『骨董屋』などの作品や、以後の作品では、主人公は多く孤児であり、チャールズの少年時代の体験が影響している。

このころ、J.ホースターと親交を結ぶ。またベン・ジョンソンの『十人十色』を友人らと上演。義捐基金のための素人演劇で、もっぱら演出と主演を兼ねた。

1842年に夫人とともに訪米し、長期のアメリカ旅行を行った。ただ、南北戦争前夜の米国は、当時の著作権問題などもあって良い印象を与えなかった。そのため、帰国後に発表した小説『マーティン・チャズルウィット』や、旅行記『アメリカ紀行』で記した米国観はあまり良いものではなく、米国でも不評であった。ただし、南北戦争後の1867年に再訪した際には、大歓迎を受けて印象を改めている。

後期の作品と晩年
『ドンビー父子』の次の作品『デイヴィッド・コパフィールド』は自伝的要素が強い作品で、このころの作品から次第に社会的要素を取り組んだ、凄惨な作風へと変化していく。ヴィクトリア朝の社会を批判した『荒涼館』や、社会制度を批判した『リトル・ドリット』、フランス革命を背景とした『二都物語』、失意の人々を描く『大いなる遺産』などである。

編集長としても、1850年から「ハウスホールド・ワーズ」、1859年から「一年中」をまとめ、ギャスケル夫人やコリンズなどの作家に作品発表の場を与えた。もっとも、編集者としては勝手に小説の内容に手を入れたり、などというワンマンぶりもよく知られている。また慈善事業や講演といった活動も行っている。

晩年はエレン・ターナンと不倫関係にあり、1858年から夫人とは別居していたが、これはディケンズの死後まで公的には秘密にされていた。創作力の衰えと並行して、執筆を離れて公衆の前での公開朗読に熱中し、過労で死期を早めた(2度目の米国旅行の際にも、各地で公開朗読を行っている)。1865年には鉄道の事故に巻き込まれて九死に一生を得る。この事件も、晩年の作品に目立つ暗い影の一因ではないかと言われている。

1870年6月9日、『エドウィン・ドルードの謎』を未完のまま、ケント州ギャッズ・ヒルの広壮な邸宅で、脳卒中により死去した。死後、ディケンズ自身はロチェスターに一私人としての埋葬を希望していたが叶えられず、ウエストミンスター寺院の詩人の敷地に埋葬された。墓碑銘は "He was a sympathiser to the poor, the suffering, and the oppressed; and by his death, one of England's greatest writers is lost to the world."(「故人は貧しき者、苦しめる者、そして虐げられた者への共感者であった。その死により、世界から、英国の最も偉大な作家の一人が失われた。」)となっている。

作風
一般にプロットの巧みさなどにはやや難があり、最良の部分は人物描写などの細部にある、と言われることが多い。多作家でもあるため出来栄えにムラがあるが、『大いなる遺産』などの名作では、そうした描写力に、映画のカメラワークにも似た迫真のストーリー・テリングが加わり、読者をひきつける。精密な観察眼と豊かな想像力で、時代社会の風俗を巧みに描いた。日常生活の描写は具体的で、丹念に細部に亘って生き生きと写し出されており、登場人物の性格はシェイクスピアのそれに比して多種多様であり、ほとんどが典型として戯画化されているにもかかわらず、型を破ってはみ出すような生命力に満ちている。とくに前期の作品においては主人公に個性があまり見られず、脇役にこうした特色を与え作品を盛り上げている。

また、幼少時の貧乏の経験からおのずと労働者階級に同情を寄せ、時に感傷が過度になることもあるが、常に楽天主義と理想主義に支えられ、ことに初期の作品には暖かいユーモアとペーソスが漂っている。その点、ヴィクトリア朝の代表作家として並び称され、中・上級階層を中心に描いたサッカレーとは対照的である。後期には、健康状態の衰えなどの影響もあって徐々に悲観的な価値観に傾斜していき、作品発表のペースも落ちた。初期の明るいユーモアや天才的なキャラクター造形は目立たなくなっているものの、プロットは複雑で深遠になり、主題を強調することに成功している。ただし偶然に頼ったご都合主義の物語展開や、最後をめでたく終わるといった典型は最後まで残った。これは月刊分冊という発表形態で、売れ行きや人気を考えてあらすじや登場人物を変えていったためである。

作品(エッセイ・小説)を通しての社会改革への積極的な発言も多く、しばしばヴィクトリア朝における慈善の精神、「クリスマスの精神」の代弁者とみなされる。貧困対策・債務者監獄の改善などへの影響も大きかった。しかし、一方で帝国主義的な色合いもあり、ジャマイカ事件ではカーライルなどと共に総督エア側に組して、反乱を擁護しエアを弾劾するミルらと論争したことが知られている。ただし、年代の違いもあって、一般にはキプリングのように人種差別主義者などと露骨に批判されているわけではない。

最終作『エドウィン・ドルードの謎』は、コリンズなどの影響もあって、ミステリーのプロットを導入し、後期のディケンズの中でも特に陰鬱な雰囲気に包まれた野心的な作品であった。しかし、作者の死により全体の半ばほどを残してついに未完に終わった。そのため、犯人(正確には、表題人物の失踪の原因)は不明のままであり、さまざまな説が提唱されている。ただし厳密には、殺人の謎解きは『バーナビー・ラッジ』ですでに登場しており、これが世界初の推理小説と言われることもある。

批評史
没後、そのストーリーの通俗性、あらすじの不自然さ、キャラクターの戯画化などのために、通俗作家として、芸術至上主義的な19世紀文壇からは批判された。確かに分冊販売という発表形態のために、人気の上下動を見て、もともと考えていた筋に執着せずに、時に強引とも思えるストーリーの変更を行った。特に『マーティン・チャズルウィット』や『ニコラス・ニクルビー』などではプロットの不自然さが目立つ。

しかし、一般大衆の人気がこうした批評で衰えることはなかった。プルースト、ドストエフスキーなどの小説家も愛読者として知られ、ギッシング、チェスタトン、ジョージ・オーウェルなども優れた評伝を寄せている。L.トルストイはディケンズをシェイクスピア以上の作家であると評価しているほどである。近年ではエンターティナーとしてだけでなく、小説家としても作品の再評価が進んでおり、小説が映画、ドラマなどで映像化されることも多い。弱点こそあれ、現在の評価は、英国の国民作家というその正しい位置に、ほぼ復していると言える。

日本においては、その膨大な作品量も災いして、未だにディケンズの翻訳全集は、昭和初期の、舞台を日本に移した翻案に近い選集を除いて、存在しないという状況にある。なお、ディケンズの生涯と作品を研究する団体として、ディケンズ・フェロウシップ日本支部がある。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

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共産主義の諸原理

第一二問。産業革命のいっそうすすんだ結果はなんであったか?

答──大工業は、蒸気機関その他の機械によって、いっそう短い時間といっそう少ない費用で工業生産物を無限に増加させる手段をつくりだした。

この大工業から必然的に生ずる自由競争は、生産のこの容易さのために、たちまちきわめてはげしい性格をおびた。多数の資本家が工業に身を投じて、短期間に消費しうるよりも多くのものが生産された。

その結果、製造された商品は売れなくなって、いわゆる商業恐慌が到来した。工場は停止せざるをえず、工場主は破産して、労働者はパンを失った。最大の窮乏がいたるところで生じた。

しばらくして、過剰な生産物は売れ、工場はふたたび動きはじめ、賃金は上昇して、事業はしだいに前よりもよくなった。しかし、まもなく、ふたたび商品があまりにも多く生産されて、新しい恐慌が到来し、またもや以前の恐慌と同じ経過をたどった。

こうして、今世紀のはじめ以来、産業の状態は絶えず好況の時期と恐慌の時期とのあいだでゆれ動いて、ほとんど規則的に五年から七年ごとにこのような恐慌が到来したが、この恐慌は、そのつど、労働者の最大の窮乏、全般的な革命的高揚および現存状態全体にとっての最大の危険と結びついていたのである。

第一三間。規則的にくりかえされるこれらの商業恐慌からなにが生ずるか?

答──第一に、大工業は、その最初の発展期にみずから自由競争を生みだしたとはいえ、それにもかかわらずいまでは自由競争を乗り越えて成長しすぎたこと。競争が、そして一般に個人による工業生産の経営が、大工業にとっては、爆破しなければならず、また爆破するであろう足かせになっていること。

大工業は、現在の基礎の上で経営されるかぎり、七年ごとにくりかえされる全般的な混乱によってのみ維持されうるのであるが、この混乱は、そのつど全文明をおびやかして、プロレタリアを窮乏に突き落とすばかりではなく、多数のブルジョアをも破滅させるということ。

それゆえ、大工業そのものがまったく放棄されなければならないか──このことは絶対に不可能なことであるが──、それとも大工業は、もはや個々の、互いに競争する工場主たちではなくて、全社会が一つの確固とした計画にしたがって、また万人の需要に応じて、工業生産を行なうような、社会のまったく新しい組織をどうしても必要とするということである。

 第二に、大工業およびこれによって可能とされた生産の無限の拡張は、すべての生活必需品がきわめて多く生産されるために、社会のどの成員も、このことによって、そのすべての能力および素質を完全に自由に発達させ、かつ実現する状態におかれるような社会の一状態を可能にするということである。

そこで、こうしてこんにちの社会において、すべての窮乏およびすべての商業恐慌を生みだすという大工業のまさにこの特質が、他の社会的組織のもとでは、まさにこの窮乏およびこの不幸をもたらす動揺をなくすであろう特質とまさしく同じものだということである。そこで、こうして、つぎのことがきわめて明瞭に証明されているのである──

(1)こんにち以降、これらすべての害悪は、もはや事情にふさわしくなくなった社会秩序のせいであるということ、そして、

(2)新しい社会秩序によってこの害悪を完全に除去するための手段が現存しているということ。

第一四問。この新しい社会秩序はどのような種類のものでなければならないであろうか?

答──それは、なによりもまず、エ業およびあらゆる生産部門一般の経営を、個々の互いに競争する個人の手から取り上げて、その代わりにこれらすべての生産部門を、社会全体によって、すなわち共同の計算で、また共同の計画にしたがって、また社会の全成員の参加のもとに運営させなければならないであろう。

それゆえ、それは、競争を廃止して、その代わりに連合をおくであろう。

ところで、個人による産業の経営は私的所有を必然的な結果とし、また競争は個々の私的所有者による産業の経営の様式および方法以外のなにものでもないから、私的所有は産業の個々の経営および競争から切りはなされない。

それゆえ、私的所有は同様に廃止されなければならないであろうし、またその代わりに、すべての生産用具の共同の利用および共同の合意による全生産物の分配、すなわちいわゆる財貨共有制が現われるであろう。

しかも、私的所有の廃止は、産業の発展から必然的に生ずる社会秩序全体の改造の、もっとも簡潔でもっとも特徴的な総括であり、またそれゆえに、当然のことながら共産主義者によって主要な要求として強調されるのである。

第一五問。では、私的所有の廃止は、それよりも前にはできなかったのか?

答──できなかった。社会的秩序におけるどの変化も、所有諸関係のどの変革も、古い所有諸関係にもはや適合しようとしなくなった新しい生産諸力の産出の必然的な結果である。私的所有そのものは、こうして生まれた。

というのは、私的所有はつねに存在していたわけではなく、中世の終わりごろに、当時の封建的所有および同職組合所有に従属させられなかった一つの新しい生産の様式が、マニュフアクチュアとしてつくりだされたとき、古い所有諸関係よりも成長してしまったこのマニュフアクチュアが、一つの新しい所有形態、すなわち私的所有を生みだしたからである。

しかし、マニュフアクチュアにとっては、また大工業の最初の発展段階にとっては、私的所有以外のいかなる所有形態も可能ではなかったし、私的所有にもとづく以外のいかなる社会秩序も可能ではなかった。

万人にとって十分に存在するだけではなく、社会的資本の増加および生産諸力のいっそうの発達のために生産物の余剰がなお残るほど多量に生産されえないかぎり、そのかぎりでは、つねに、社会の生産諸力を意のままにする支配階級と、貧しい抑圧された階級とが存在しなければならないのである。

これらの階級がどのようなものであるかは、生産の発展段階に依存する。農業に依存する中世には領主と農奴がおり、中世後期の諸都市には同職組合の親方と職人と日雇いがおり、一七世紀にはマニュフアクチュア主とマニュフアクチュア労働者が、一九世紀には大工場主とプロレタリアがいる。

これまでは、万人のために十分なだけ生産されえたほど、また私的所有がこれらの生産諸力にとって足かせとなり、限界となったほどには、生産諸力がまだ発展していなかったことは明らかである。

しかし、大工業の発展によって、

第一に、諸資本および生産諸力がこれまで知られなかったほどにつくりだされ、またこれらの生産諸力を短期間に無限に増加する手段が現存しているいまでは、

第二に、これらの生産諸力が少数のブルジョアの手に集められ、他方、人民の大多数がますますプロレタリアになり、ブルジョアの富が増大するのと同じ程度に、プロレタリアの状態がいっそうみじめで、いっそうたえがたくなるいまでは、

第三に、この巨大で、容易に増大しうる生産諸力が、どの瞬間にも社会的秩序におけるきわめて暴力的な混乱を呼び起こすほどいちじるしく、私的所有およびブルジョアを越えて成長したいまでは、はじめて私的所有の廃止がただ可能となっただけではなくて、まったく必然的にさえなったのである。
(マルクス・エンゲルス「共産党宣言・共産主義の諸原理」新日本出版社 p124-129)

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◎「この混乱は、そのつど全文明をおびやかして、プロレタリアを窮乏に突き落とすばかりではなく、多数のブルジョアをも破滅させるということ」と。