学習通信071112
◎初歩的な知識……

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 日本の労働組合の多くは、企業別組合として、その企業に本工として勤めれば労働者が知らないうちに組合員になっています。ですから、日本の労働者の多くは労働組合とはなにか、労働組合の性格や任務についての初歩的な知識を身につけていないのが実態です。

これにくらべて外国の労働組合はそうではなく、基本的には一人ひとりの労働者が組合の必要性を理解して組合に加入するしくみになっています。労働組合運動を語る場合もこの実態をふまえることが大切です。

 一般的にいって、大衆運動という場合、それは勤労大衆が自然発生的に非組織的にたちあがることではなく、勤労大衆がいろいろな大衆組織に結集して行動することをいいます。大衆運動=大衆組織の運動といってもよいでしょう。ここでいう大衆組織とは、労働者についていえば労働組合、生活協同組合、共済組合、文化・学習、スポーツなどの自主的サークルをはじめ数多くあります。

これらの組織は、それぞれの目的にもとづいて組織されているものであり、同じ労働者の組織でも性格が違います。労働組合と音楽や演劇など特定の要求にもとづいて組織されている文化サークルとは違った性格のものであることは、感覚的にだれにでもわかります。

しかし、どこがどう違うのかを理論的に知っているのと、そうでないのとでは、運動を指導する場合、大きなひらきがでてくるものです。
(荒堀広著「新 労働組合読本」学習の友社 p14-15)

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心を灼く運動を
 伊東 壮

 戦後間もない私たちの学生時代、労働者は人間の理想的な生き方と世界を実現していく主体として眩しい存在であった。

私などは、「労働者像」を「生の単純な肯定のうえに、貧困や苦境に屈せぬ不撓(ふとう)の意思をもち、利己主義や功利主義に禍いされず、人を愛する美しい心をもち、人と人との連帯の大切さを生まれながらに知り、虐げられる者・貧しい者のない、そして戦争のない新しい社会を創造していくもの」と考えていた。

いわば、人間の理想像を労働者像に重ねていたのである。

 そしてしばらく定時制高校の教師をしていたころ、昼間働き夜学ぶ生徒たちにこの理想像のかけらを数多く見出し、教えるよりも教えられる喜びに浸ったものである。

 ちょうどそのころ、教師たちの間では学園の民主化闘争があった。きびしい条件をはねのけて一定の民主化を獲得したとき、ある教師がいった。「この果実を生徒に返さなくちゃ、今度は教育で頑張ろう」。その言葉は、人がみずからの権利を守るということは、人間としての尊厳、人間全体の尊厳をみずがらもまた体現しているからであり、人間としての尊厳を高め、それを他の人びとに分かつための不断の自省が権利を守るたたかいに不即不離のものであることを若い私に教えてくれたのである。

 こうした一種の人間変革をともなう運動こそ、労働組合が「労働者の学校」である所以である。このような運動がともなわないかぎり、経済闘争は利己心と功利主義を肥大させる運動に堕してしまう。

そしてその結果として組合には寄りつかなくなり、自分勝手にうまく立ちまわることを選ぶ人をつくり出していくことになる。このような運動がともなわない政治闘争は、いくらスローガンを叫んだところで組合員にはなんの関係もなく、それどころかときには反発させ、ときにはその人の自己判断力を組合権力のもとに隷属させることになる。

 いまや思想状況が多様化しているときに、果たしてこうした運動が可能かという問いもあろう。しかし、多様化し大衆化状況がでてきているだけに個々人はかぎりなく不安であり、よりたしかなもの、より高いものを求めているともいえる。

 もともと反体制的運動は敵に打撃を与えるとともに仲間をはげましみずからを鍛えていく三つのいみをもっているものだと私は思ってきた。そして、とくにその最後の「みずからを鍛える」ことは正しく人間的連帯のなかでこそなし遂げられていくものであり、まさしく「彼と我との対話」のなかにその芽を育てていくものである。

 かつて、オルダーマストン平和行進のなかでラッセルがいった「私は私自身のなかに向かって行進している」という言葉を労働運動こそいま一度大切にしてみずからをふり返り、新しい人間、新しい連帯をきずくことを最底辺として運動を再構築していく必要がありはしないだろうか。
(「わたしの選択 あなたの未来」労働旬報社 p200-201)

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◎「反体制的運動は敵に打撃を与えるとともに仲間をはげましみずからを鍛えていく三つのいみをもっているものだ」と。