学習通信071114
◎雇う側は雇われる側に対して圧倒的に強い……

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明日への話題
普通の人の普通の仕事
 作家 柴田 翔

 先日、東京駅の新幹線ホームで待つ私の前へ満席の列車が到着した。折り返し私の乗る列車になり十数分後に発車する。乗客の降りたあと、窓の中では清掃係の中年女性が素早く手際よく車内掃除をし、座席の向きを次々直して行く。十分後には乗車の案内があって席に付くと、車内はまさに当駅始発にふさわしく清潔に片づいていた。

 その清掃係の熱心な仕事ぶりを眺めていたら、例のホワイトカラー・エグゼンプションの是非が世を賑わしていた頃の、財界人など世の識者たちの主張を思い出した。

 その制度では労働時間がますます長くなるという危惧に答えて、ホワイトカラーは無意味な残業など断る気概を持つべきだという発言があった。自分の専門能力を高い年俸で売れ。無意味な残業を強いる会社などは見限って自分を高く評価してくれるところへさっさと移籍すればいい──。

 だがそれほど高度な専門能力を持つ、イチローや松坂なみのホワイトカラーは、どれだけいるのだろうか。資本主義の下では、雇う側は雇われる側に対して圧倒的に強い。雇う側は辞めた代わりを見つければいいが、首になる側は端的に路頭に迷う。普通の人々は無理な会社の要求を受け入れて、残業を重ねる他ない。

 そうした力関係を放置すれば、やがて社会は崩壊する。絶対主義的政治家ビスマルクが、他方で労働者保護の社会政策を推進したのも、その危険を知ればこそだった。

 企業の繁栄も社会全体の効率と安定なしにはありえない。例えば、仕事熱心な清掃係など沢山の普通の人々がいてこそ、新幹線が無事に走り、最先端企業の社員たちの出張も可能となる。財界人たちがそれを忘れるなら、企業社会そのものが崩壊する。
(「日経 夕刊」20071113)

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二 公正な取引などありえない

 それでは、「労働組合──その過去」、その第一段落の前半から、テキストにそって学習を始めることにしましょう。この部分の全文はつぎのとおりです。

(イ)その過去
  資本は、集積された社会的な力であるのに、労働者が処理できるのは、自分の労働力だけである。したがって、資本と労働のあいだの契約は、けっして公正な条件にもとづいて結ばれることはありえない。それは、一方の側に物質的生活手段と労働手段の所有があり、反対の側に生きた生産カがある一社会の立場からみてさえ、公正ではありえない。

 マルクスはこの最初の一節で、資本主義生産(機械制大工業)のもとでは、なぜ、労働者は自分の生活をまもるためには、資本家に要求をつきつけてたたかわねばならないのか、その根拠はどこにあるのか、という根本問題をあきらかにしています。それはまた、要求にもとづく労働者の団結である労働組合運動の発生の必然性、また発展の根拠をあきらかにするものです。

 マルクスによれば、資本主義制度にあっては、なによりもまず労働者は、自分の労働力(労働を可能にする人間の肉体的・精神的能力の総体)を生産手段(工場・機械装置・原料など)を所有する資本家に売り、賃金をうけとって生活するわけですが、この取引はけっして公正ではありえないというわけです。これはどういう意味でしょうか。

1、形式的には「公正」な雇用契約

 資本主義制度は、むきだしの奴隷制度や封建制度とは違って、すべての人間は法律上身分的に「対等・平等」というたてまえになっています。したがって、労働力を取引するさいの労働者と資本家とのあいだの契約は、形式的にはおたがいの人格的な自由と平等といった基礎のうえに行われます。

 労働者は、資本家にこんな安い賃金で雇われたくないと思えばそうすればよいし、資本家もまた、この労働者は雇いたくないと考えれば不採用にすればよいわけでしょう。労資の双方が雇われよう、雇い入れようと合意するときに、雇用契約は成立します。ですから「資本と労働のあいだの契約」は、形式的には自由であり平等である、といってよいでしょう。

 しかも、この場合、賃金が、労働者とその家族が労働力を再生産するのに必要な生活手段を買い入れるのに、ほぼ不足しない程度の金額であり、労働日が、商品としての労働力を損傷しない程度の長さで決められているとすれば、この労働力と資本との交換は、資本家から主張されるように「公正な条件」でさえある、といえそうです。

 しかし、この「公正」さは、やはり交換の形式だけについていえることで、実際の内容にたちいると、けっして「公正な条件」であるとはいえないとマルクスはいっています。というのは、労働者とその家族が生活でき、労働力の再生産を維持できるような賃金や、労働力の損傷を許さない程度の長さの労働日が保障されているとしても、すなわち、賃金が労働力の価値どおりに支払われているとしても、資本家は、労働者に労働させて労働力の価値をうわまわる価値を生産させ、不払労働(剰余価値)を搾取することができるからです。

2、賃金は「労働の価格」ではなくて「労働力の価格」

 賃金は「労働の価格」(労働の報酬)とみられていますが、厳密には「労働力の価格」です。資本主義のもとでの労働者の労働は、資本家に時間決めで売りわたされた労働力が、資本家の管理のもとで彼の所有する生産手段と結びつけられ使用されることであり、その成果は資本家の所有するところとなります。労働者は自分が所有してもいない「労働」を資本家に売ることはできません。労働者が売ることのできるのは、自分の身体のうちにある「働くことのできる肉体的・精神的能力の総体」であって、賃金とは、この「労働力の価格」にほかなりません。

 労働力という商品の価格は、一般の商品と同じように価値の大きさによってきまります。商品の価値の大きさは、その商品の生産のためにどれだけの人問労働が費やされたか──社会的に必要な労働時間によってきまり、商品の価格は、この価値を貨幣の一定量によってあらわしたもので、需要と供給の関係で変動します。賃金は「労働の価格」ではなくて「労働力の価格」であり、それは「労働力の価値」を貨幣であらわしたものです。

 賃金は「労働力の価値」を基礎としてきまります。この労働力の価値の大きさは、成人の労働者が家族をふくめて「労働力の再生産」がくりかえしてできるだけの生活手段(衣・食・住など)の購入費用、健康で文化的な生活を営むにたる生計費の大きさによってきまります。

しかし、この賃金の基礎となる「労働力の価値」の大きさ(労働力の再生産に必要な一定の生活手段を生産するに必要な社会的労働時間)と、資本家が購入した労働者の労働力を消費させてつくり出させる商品の価値の大きさとは、その大きさが異なります。

たとえば、一日の労働時間を八時間とするとき、一日分の労働力の再生産に必要とされる生活手段の価値の大きさ(その社会的必要労働時間はたとえば四時間)と一日の労働が生み出す価値の大きさ(八時間)という具合に。そこで、先にもふれたように、資本家は、労働者に労働させて労働力の価値を生産させ、さらに不払労働(剰余価値)を搾取することができることになります。

3、剰余価値の搾取とは

 不払労働=剰余価値こそ資本家の「もうけ」の唯一の源泉ですが、そのおかげで働かない資本家はぜいたくな生活ができるだけでなく、資本の規模をだんだん大きくしていくこともできるわけです。資本とは、このように過去に多くの労働者が働いてつくりだしたものであって、その意味で、「資本は集積された社会的力」にほかなりません。

しかも、労働者は、自分たちが過去の労働によってつくりだした資本によって、ますます多くの不払労働=剰余価値を搾取されることになります。このようにみてくると、「資本と労働との契約は、けっして公正な条件にもとづいて結ばれることはありえない」ことが、あきらかでしょう。

 ところで、資本主義社会では生産手段を所有する資本家は、生産をするには生きた労働力の買い入れを必要とするし、労働者は、生活するには労働力を売る必要があります。このように労資双方とも取引が必要だとすると、剰余価値の搾取という根本問題は残るとしても、その契約条件でちやんと労働力の再生産が維持されるなら、資本主義という「一社会の立場」からみれば、それはそれで「公正」だとはいえないでしょうか。

この点についてマルクスは、資本主義的生産にあっては、そういう「公正」な契約が保障される条件さえも客観的には存在しがたいという意味から、この面でも「公正ではありえない」といいきっています。

 なぜそういう結論になるかというと、資本主義社会の企業では、剰余価値の搾取をいちだんと強める手段として、賃金を労働力の価値どおりに支払わず価値以下に切り下げる傾向が強く働いているからです。

 よく知られるように、今日の春闘やリストラ「合理化」では、総額人件費の抑制と称して、賃金の生計費原則を掘り崩す財界一丸となった直接の攻撃がかけられてきています。また、一般に資本主義企業では、搾取強化と企業間競争に立ち向かう武器として、蓄積した利潤(その源泉は剰余価値)を資本に追加的に転化して新しい機械・装置が導入されます。

この利潤の増大を目的とした機械の資本主義的利用は、労働時間の短縮によって労働を軽減するどころか(機械化による労働の生産力の向上は本来、それを可能にするはずです)、人員削減による失業と労働強化など社会的貧困化の手段に転化します。このような資本の蓄積にともなう相対的過剰人口の増大が、賃金を労働力の価値以下に切り下げる社会的圧力として作用します。

 要するに、「その過去」第一段落の前半で、マルクスはつぎのことをあきらかにしています。第一、資本主義のもとでは、賃金が「公正」に労働力の価値どおりに支払われている場合でも、剰余価値搾取のしくみが残る以上、本来、資本家と労働者との契約は「けっして公正な条件」で結ばれているとはいえないこと。第二、しかも、賃金が「公正」に労働力の価値どおりに支払われないという点で、雇用契約はこの点にかぎっていっても、「公正ではありえない」というわけです。
(戸木田嘉久著「労働組合の画原点」学習の友社 p35-40)

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◎「なぜ、労働者は自分の生活をまもるためには、資本家に要求をつきつけてたたかわねばならないのか、その根拠はどこにあるのか、という根本問題をあきらかにし……それはまた、要求にもとづく労働者の団結である労働組合運動の発生の必然性、また発展の根拠をあきらかに」と。