学習通信071115
◎労働者新聞がまったく正当にも社会的殺人と……

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 はじめに

 我々は反撃を開始する。

 若者を低賃金で使い捨て、それによって利益を上げながら若者をバッシングするすべての者に対して。

 我々は反撃を開始する。

 「自己責任」の名のもとに人々を追いつめる言説に対して。

 我々は反撃を開始する。

 経済至上主義、市場原理主義の下、自己に投資し、能力開発し、熾烈な生存競争に勝ち抜いて勝ち抜いて勝ち抜いて、やっと「生き残る」程度の自由しか与えられていないことに対して。

 フリーター二〇〇万人、パート、派遣、請負など正社員以外の働き方をする人は一六〇〇万人。いまや日本で働く人の三人に一人が非正規雇用だ。二四歳以下では二人に一人。なぜか? それは若者に「やる気がない」からでも「だらしない」からでも「能力がない」からでもなんでもない。ただたんに、企業は金のかかる正社員など雇いたくないからだ。好きなときに使い、いらなくなったら廃棄し、それによって人件費を安く抑え、利潤を追求したいからだ。国際競争に勝つためなら、若者の未来が奪われようと、食えない賃金であろうと、不安定な働き方が原因で心を病もうと、ホームレスになろうと、そんなことはどうでもいいからである。

 正社員の平均年収三八七万円に対し、フリーターの平均年収は一〇六万円。生涯賃金は正社員二億一五〇〇万円に対し、フリーターは五二〇〇万円(UFJ総合研究所)。三倍から四倍の格差である。というよりも、年収一〇六万でどうやって自立して生きていけというのだろう。すでに格差ではなく貧困の部類の話だ。

 また、フリーターの生活に直接かかわってくる最低賃金は全国平均で時給六七三円という低い水準に抑えられている。パートの主婦など扶養されている人と同じ額で働くフリーターの多くは、その収入で家賃から光熱費、食費まで生活のすべてをまかなっている。結果、「ワーキングプア」と呼ばれる、働いているのに生活保護水準に満たない生活を強いられている層が激増している。全国最低の最低賃金は時給六一〇円。一日八時間、月に二二日働いてもこの額では一〇万七三六〇円にしかならない。そして非正社員であり続けるかぎり、時給が数円単位で上がることはあっても、収入は一生涯にわたりほとんど変わらない。

 なぜ、こんなことになったのか。本書で詳しく触れるが、九五年、日経連が明確に宣言したからだ。これからは働く人を三つの階層に分け、多くの人を使い捨ての激安労働力にして、死なない程度のエサで生かそう、と。つまるところ、国内に「奴隷」を作ろうという構想だ。なんのことはない、この状況は一〇年以上前から用意されていたのである。まったくもって若者の「やる気」や「モラル」などは一切関係ない。そんなものは現実から目を逸らさせるだけの真っ赤な嘘ということだ。

 周りを見わたしてみよう。

 低賃金で未来の見えないフリーター生活に疲れきった二〇代、三〇代がいる。

 多くの職場では当たり前に即日解雇や給料未払いなどが横行している。

 時給一一〇〇円で工場に派遣されれば、休みの日でも派遣会社に勝手に寮に入って来られ、逃げていないかどうかをチェックされる監獄のような日々が待っている。

 そして都市部には、漫画喫茶に何年も住みながら携帯電話で明日の現場を知り、日雇いの仕事に出向く家なきフリーターがいる。彼が風邪をひいて一週間仕事を休んだら、すぐにホームレスに転落することは明白だ。

 過労死寸前で連日一五時間以上働かされる名ばかりの正社員がいる。

 そんな過酷な労働条件を経験から、また友人知人の話から知り、「働かない」という「賢明」な選択をすれば「ニート」と分類され、「役立たず」と罵られる。

 フルタイムで月曜から金曜まで働き、月収が一〇万円以下の派遣社員はザラにいる。

 既婚の派遣社員が妊娠したら当たり前のように中絶を連られ、中絶しないと解雇される(ある産婦人科では、中絶手術に来る多くの人が派遣社員ということだった。彼らはそんな人々を「現代のエアポケットに落ちた人たち」と呼んでいる)。

 そんな派遣会社が莫大な利益を上げている。

 そして若者を激務から過労死、過労自殺に追い込みながら、遺族に一〇万円程度払って済ませようとする企業が「優良企業」として名をとどろかせている。

 企業の「至上最高の利益」に貢献しているのに、一円の時給も上がらない派遣、請負社員がいる。

 親が亡くなり、経済的に頼れる人がいなくなったことから、ホームレスに転落してしまったフリーターがいる。一週間、怪我や病気で仕事を休んでしまったら、たちまち家賃を滞納し、家を追い出されてしまうからだ。

 心を病んで働けなくなっても、若ければ若いほど生活保護など受けられない。〇六年、三〇代の睡眠障害を持つ男性が生活保護の申請を却下され、市役所の駐車場で自殺した。彼は「俺が犠牲になって福祉を良くしたい」と友人に話していた。

 私たちはすでに、生存の権利すら奪われている。個人の価値が市場原理にしか還元されないという、人間の命よりも経済が優先される社会のなかで。

 なぜ、日本の若者は暴動を起こさないのかという言葉をよく聞く。

 暴動はすでに起こっている。散発的に、暴発という形で。

 すでにひきこもりと呼ばれる一〇〇万人が、労働を拒否して立てこもっている。二ートと呼ばれる八五万人が、無言のままにストライキを起こしている。そんなふうにも見えないだろうか。一人の指導者もいないままに、誰の呼びかけもないままに、それだけの若者がこの社会に見切りをつけている。若者をめぐる状況は、いまの日本で「普通に働く」ということが崩壊してしまったそのこととあまりにも密接にかかわっている。

 私のもとには、日々、読者からの声がよせられる。「就職試験で一〇〇社を受けたが全滅で死にたい」「フリーターという先の見えない生活で将来が不安で生きていたくない」などという声だ。

 それだけではない。働くことと直接関係ない形でも、この国を覆う空気は若者をつねに追いつめている。巷にあふれる「自己責任」という言葉が蝕む若者の心。自らの能力を高め、人を極限まで蹴落とし、競争の果てに大金を得るのも自己責任。競争に負けて困窮し、ホームレスに転落して餓死するのも自己責任。社会を覆いつくすそんな空気を若者たちは言語化できないまま、肌で口々感じとっている。

 だからこそ、私のもとには中高生からも悲鳴のような声がよせられる。「どうしてかわからないけど生きづらくて仕方ない」「こんな世の中で生きていたくない」。圧力というよりも、それはもはや暴力だ。彼らはその言葉を内面化し、「能力のない」自らを責める。怒りの刃を自分に向ける。そこにお茶の間レベルの自己責任論が拍車をかける。いまの日本では、親の資産によって明らかに進む人生が決まるのに、親は「努力すれば上昇できる」という時代錯誤な嘘で子どもを追い立て、さらに努力し競争することを奨励し、過酷な競争のなかにプチ込もうとする。

 不毛な努力を強いられるほどの拷問はない。悪いのは自分だけではないような気もするし、しかし、誰が悪いのかわからない。たまった怒りは、そうして自分自身へと向かう。手首を切ってみたり、大量に薬を飲んでみたり、ネット上で心中相手を探してみたり、不毛な誹膀中傷合戦を繰り広げてみたり、あるいは明らかな嘘をしたり顔で繰り返す親に暴力をふるってみたり。暴発は起こっている、散発的に。一人の部屋で、家庭内で、ネット上で。

 しかし、悪いのは決してあなたではない。

 制御不能なまま暴走する資本主義が、人を人として扱わなくなったことに、もう誰も黙ってなどいないのだ。

 闘いのテーマは、ただたんに「生存」である。生きさせろ、ということである。生きていけるだけの金をよこせ。メシを食わせろ。人を馬鹿にした働かせ方をするな。俺は人間だ。

 スローガンはたったこれだけだ。生存権を二一世紀になってから求めなくてはいけないなんてあまりにも絶望的だが、だからこそ、この闘いは可能性に満ちている。「生きさせろ!」という言葉ほどに強い言葉を、私はほかに知らないからだ。

 そしていま、生きることそのものが、現実的に脅かされている。過労死も過労自殺も、失業や就職のプレッシャーによる心の病からの自殺も、そして私の周りに多くいる、生きづらさから自らの命を絶ってしまった人々も、こんな狂った社会の犠牲者であることは明白だ。彼らは自己責任論のなかで心を病み、自己責任を無理矢理とらされ、死んでいった。そしてフリーターが「新しい生き方」としてもてはやされた世代がすでに三〇代に突人し、労働力としての価値が暴落しつつあるなか、〇五年度の三〇代の自殺率は過去最高となった。

 本書の目的はただひとつ、当たり前の反撃を開始することである。
(雨宮処凜著「生きさせろ! 」太田出版社 p5-10)

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 われわれは、イギリスの都市労働者階級の生活状態をかなり詳しく考察してきたので、いまや、これらの事実からさらに包括的な結論をひきだし、これをふたたび事実とくらべてみるときであろう。

そこでわれわれは、こういう環境のもとで労働者自体はどうなったのか、彼らはどんな人びとなのか、彼らの肉体的、知的、道徳的状態はどうなっているのかを、見ることにしよう。

 ある個人が他の人の身体を傷つけ、しかもそれが被害者の死にいたるような傷害であるなら、われわれはそれを傷害致死と呼ぶ。

もし加害者が、その傷害が致命的となることをあらかじめ知っていたら、われわれはその行為を殺人と呼ぶ。

しかし社会が、何百人ものプロレタリアを、あまりにも早い不自然な死に、剣や弾丸によるのと同じような強制的な死に、必然的におちいらざるをえないような状態においているとすれば、

またもし社会が何千人もの人から必要な生活条件を奪いとり、彼らを生活できない状態におくとすれば、

またもし社会が、法律という強大な腕力によって、彼らを、こういう状態の必然的な結果である死がおとずれるまで、こういう状態に強制的にとどめておくとすれば、

さらにもし社会が、これら何千人もの人がこういう状態の犠牲となるに違いないことを知りすぎるほど知っており、しかもこれらの状態を存続させているならば

──それは個人の行為と同じように殺人であり、ただ、かくされた陰険な殺人であり、誰も防ぐことができず、殺人のようには見えない殺人である。

というのも、殺人犯の姿が見えないからであり、皆が殺人犯でありながら誰も殺人犯ではないからであり、犠牲者の死が自然死のように見えるからであり、そしてこの殺人は作為犯というよりは不作為犯であるからである。

しかしそれはやはり殺人である。

私はこれから、イギリスでは、イギリスの労働者新聞がまったく正当にも社会的殺人と名づけたことを、社会が毎日、毎時間犯しているということ、社会は労働者を健康のままではいられず、長くは生きられないような状態においていること、こうして労働者の生命を少しずつ、徐々に削りとり、そして早ばやと墓場へつれていくことを、証明しなければならない。

さらに私は、こういう状態が労働者の健康と生命とにどんなに有害であるかを、社会は知っており、しかもこの状態を改善するためになにもしていないということも、証明しなければならない。

私が傷害致死の事実の典拠として公式文書や議会や政府の報告を引用することができるなら、社会がみずからの制度の結果を知っており、したがって社会のやり方はたんなる傷害致死ではなく、殺人であるということは、それだけですでに証明されたことになるのである。──

(エンゲルスの注)私は、ここでも、ほかのところでも、社会という言葉を、それ自身の権利と義務をもつ責任ある全体という意味で使うときには、自明のことであるが、社会の権力のことを意味しており、それは現在、政治的社会支配権をもち、それと同時に、この支配にまったく加わっていない人びとの状態にたいして、責任をもつ階級を意味している。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p149-151)

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◎「当たり前の反撃を開始する」と。