学習通信071116
◎能動的要因としての、労働組合……

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「停滞」から「飛躍」ヘ──上げ潮への流れ

 私はつねづね労働運動について、その発展の合法則性を主張してきた。労働運動の発展は、漸進的な自然成長的な発展としてではなく、資本家階級の系統的・組織的な「あらゆる反労働者的な術策や奸策」に抗して、敗北と勝利、停滞と飛躍をともないながら「人類史の弁証法」、階級闘争の弁証法をとおして貫徹するというのである。

こういう発展の合法則性が、戦前・戦後にわたるわが国の労働運動の歴史のなかでどのように貫徹されてきたか、あらためて簡単に整理しておこう。それは運動の停滞から前進・攻勢への反転を確信するうえで重要なことだと思うからである。

@、一九世紀末から二〇世紀初頭、日清戦争後の産業革命と日露戦争を経て、活発な活動を開始した日本の労働運動は、治安警察法や「大逆事件」によって、たちまち「冬の時代」に直面し壊滅する。しかし、一九一四〜一八年の第一次大戦とロシア革命を転機として、労働運動はたちまち再生し怒濤のような前進を開始する。一九二四年(大正一三年)には労働組合数は四六九、組合員数的二三万人に達し、この間、友愛会の日本労働総同盟への脱皮、総同盟の分裂と戦闘的な日本労働組合評議会の結成まで進む。

 戦前の労働組合運動は、一九三〇年代前後には激しい弾圧をへて、ふたたび急速に衰退の局面をむかえる。日本帝国主義は、第一次大戦後、あいつぐ恐慌と一九二九年の世界恐慌によろめき、経済危機からの脱出先を一五年戦争にもとめ、労働運動、社会運動を圧殺したからである。治安維持法による弾圧、国家総動員法と大政翼賛会、戦争協力の「産業報国会」の結成によって、労働運動はふたたび壊滅させられる。

A、しかし、日本の労働組合は、日本帝国主義の敗北とともに再生し、飛躍的な前進によって新たな戦後段階をむかえる。一九四五年夏から二一世紀初頭の今日まで、この間、六十余年にわたって運動の屈折・「飛躍」と「停滞」はあれ、総じて戦後労働運動は、獲得した労働基本権や労働組合の組織人員からいっても、また運動の量的・質的な両面からみても、戦前とは隔絶した高い到達段階を維持してきたことは確かである。

 もちろん、戦後の運動もけっして安穏とはいえず、「停滞」と「飛躍」の屈折した道をたどってきたことは、重ねて指摘しておかねばならない。産別会議を先頭とした戦後労働運動の怒濤の進撃と、これを阻止したアメリカ占領軍主導の「戦後第一の反動攻勢」(公務員のスト権剥奪、レッド・パージ、産別解体)、産別会議にかわって、日米安保体制の支柱となることを期待された総評のたたかう組合への「変身」と三池・安保闘争への前進、統一労組懇運動に結集する階級的民主的潮流、これに対抗するケネディ・ライシャワー路線とIMF・JCの結成、七〇年代前半の国民春闘の発展と革新自治体の前進、「戦後第二の反動攻勢」による労働戦線の右翼的再編と総評の分断・解体、長時間・過密労働と過労死など「ルールなき資本主義」の形成、全労連と連合の二つのナショナルセンターの結成、「九〇年代不況」下の容赦ないリストラ・首切り「合理化」と労働組合運動の存在感の低下、そして、小泉・安倍「構造改革」による「ルールなき資本主義」のさらなる展開と憲法改悪への積極的な策動──。

B、戦前・戦後の日本労働運動は、このように敗北と勝利、停滞から飛躍へと階級闘争の弁証法をとおして、生成・発展してきたといえる。そして最近の状況は、総じてあまりにも長い「停滞」の局面を経過してきているが、ここで強調しておきたいのは、明けない夜はなく、労働運動の敗北、停滞もつぎの勝利と飛躍へと展開せずにはおかない、これが歴史法則だということである。

そして今日、「ルールなき資本主義」に対抗して、人間らしく働き生きる権利の確立を基本に、経済と社会の再生をめざさんとする、日本の労働者・国民の運動も、国際的な動向とも連動しながら、「停滞」から「飛躍」へ、深部において引き潮から上げ潮への局面を迎えつつあるのではないか、ということである。

 いま貧困と「格差社会」という状況が、全労働者、勤労国民、中小経営者のうえに、ますます拡がり深刻化してきている。その意味では一即触発の状況ともいえよう。そういうなかでホワイトカラ一・エグゼンプション、労働契約法による集団的労資関係の解体にたいして、全労連、連合、全労協、純中立系などすべてのナショナルセンター、連合体が、共同の行動に立ち上がり始めたという状況がみられ、それを力に労働者の共同結集が強まる気配がみられる。

 世界の労働運動でも新たな大きな変化がみられる。国際自由労連と国際労連が解散し、新しく国際労働組合総連合会(ITUC)が誕生した。これには資本のグローバルな展開と新自由主義による労働者への攻撃に対して、世界の労働運動としても対抗する力を拡大し、強化しようという願いがみられる。いまや、いつも労働者の団結の障害となっていた反共主義が薄れ消えつつあるなど、新しい変化がみられる。労働運動の上げ潮、高揚はつねに国際的広がりのなかで起こってきたことを重視したい。

 また、アメリカにおける〇六年中間選挙での共和党の歴史的敗北は、国際的なイラク反戦運動などの成果である。中南米諸国における革新政権のあいつぐ誕生は、グローバルな新自由主義政策への断固とした回答である。

 こうしたなかで「ルールなき資本主義」といわれ、新自由主義路線の展開する日本における労働運動、民主的諸運動の前進が期待されている。日本では勤労国民による生活と権利を守る草の根からの壮大な運動と、憲法九条の改悪に反対し、米軍再編を許さぬ平和と民主主義を守る、粘り強い草の根運動との、相呼応した前進が期待される状況にある。それは世界の労働運動・民主運動への最大の連帯であり、アメリカ覇権主義の孤立化と、それに追随する政府・財界を追いつめる道である。いまや運動は停滞から飛躍へ、上げ潮への展開が期待される状況にあるといえよう。
(戸木田嘉久「人間らしく働き生きる権利と「ルールなき日本資本主義」月刊「経済」07年11月号 p174-175)

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労働組合による労働者階級の組織化の現状

 すでに明らかであるように、われわれの課題は、社会発展の政治的転機をはらみながら進行している現在の情勢のなかで、労働組合は、それが果たさなければならない重大な歴史的役割(※)を果たすことができるかどうか。そのことを、戦後の労働組合運動の現実の状態を基礎にして判断し、その判断を労働組合運動についての確信を強めるために役だてることである。

※ここで重大というのは、なによりもまず、労働者階級の歴史的役割を、労働運動の主要な構成部分としての労働組合もになわなければならない、という意味である。

日本共産党第一〇回大会第六回中央委員会総会で決定された「労働戦線の階級的統一をめざす、労働組合運動のあらたな前進と発展のために」(一九六八年三月四日)のなかに、「民族民主統一戦線の中心勢力としての歴史的使命をになう労働者階級の組織された部隊である労働組合」という言葉があるのも同じ意味である。

しかし、それと同時に、ここではまた、緊迫した情勢からの出口を社会的変革、社会的前進の方向で見出すことができるかどうかは、すくなくともその重要な一部は労働組合の行動にかかっている、という意味でも言っている。

歴史的経験は、革命的情勢の到来は、──もしそれが到来したとしても──必ずしも革命的勢力の勝利をもって終わるとは限っていないこと、逆に数十年の社会的退歩として帰決することも、可能性としてはありうることを教えている。

 では労働組合運動は、どのような力に依存して、その歴史的使命を果たすことができるのだろうか。

 それについては、「資本は集積された社会的な力であるのに、他方、労働者のもちあわせているのは自分の個人的な労働力だけである。」「労働者側のもちあわせる唯一の社会的な力は彼らが多数なことである」(※)という周知のマルクスの言葉がある。

※『《国際労働者協会ジュネーヴ大会への指令》から」
 念のためにつけくわえておけば、ここで指摘されている「多数」という社会的な力が、たんにあるがままの数の力としてではなく(そのことが基礎になることはいうまでもないが)、組織された自覚的な団結になるのでなくては、充分に有効ではありえないということは、いまの言葉のあとにマルクスがつぎのようにつづけていることからも明らかである。

 「しかし、多数のカは不一致によって分散させられる。労働者の分散状態は、まぬかれられない労働者の仲間同士の競争によってつくりだされ、維持される。労働組合は、はじめは、資本の専制的命令とたたかい、この仲間同士の競争を阻止するかせめて抑制し、そうすることにより、せめてたんなる奴隷の地位よりましなものに労働者をひきあげるような契約条件をかちとろうとする労働者の自然的な企てから発生した。」

 マルクスがいうように、労働組合は、主として、私的で、あまり社会的力の集積が大きくない資本にたいして、たんに経済的にたたかおうとした初期の自然発生的な「企て」においてさえ、団結の力に依存しなければならなかった。だがそうだとすれば、このことは現代の労働組合にも、当然のこととしてあてはまる。

労働者がもちあわせているのは、いまではいよいよもって、自分の個人的な労働力だけになっているし、「資本の蓄積はプロレタリアートの増殖」(『資本論』第一巻)だからである。そしてまた、現代の労働組合は、その目的を私的な資本との経済闘争だけに限るわけにはいかないからである。

 現代の労働組合運動が敵手としてむかえなければならない現代資本主義は、巨大な独占体の支配する資本主義であり、資本主義の巨大な力と国家の巨大な力とを単一の機構に結合する原理をもちこむことを学んだ資本主義であり、その国家独占資本主義の機構を国際的にドルの網の目に結びつけてもいる資本主義である。

つまり、現代資本主義が集積している社会的な力は、個別資本としても、社会的総資本としても、国際的に結合した資本としても、昔日の比ではないといわなければならない。

そして、そこから、労働組合に組織される数の力についても、その力を発動させる運動の諸形態についても、このように集積された資本の社会的力に対抗できるような具体的な規定が必要になってくる。

その点が明らかになれば、歴史にはたらきかける能動的要因としての、労働組合の組織目標や戦術的諸形態はどうでなければならないか、労働組合運動の現状を評価する基準はなにか、という間題にこたえるための前提があたえられるはずである。

@、集積された資本の社会的力が、個別的に巨大化しているというだけではなく、金融的な結合、国家機構との融合によって一個の結合された力になっているとすれば、労働組合に結集された労働者側の社会的力を、その規模の点でも、指導部と組合員の階級意識の点でも、相手の組織化に応じて、それに対抗できるものに引上げる必要が生じることは明白である。(※)

 歴史的にみると、労働組合を産業別組織の方向で、すなわち「一工場一労働組合、一産業一単産、一国一センター」の方向で強化しようとする運動は、資本主義が独占段階に入ると、そのあとを追うようにすすみはじめるが、そこには、労働者階級が、客観的な条件の変化にたいして、いかに適切に反応する階級的本能にめぐまれているか、が示されているといってよい。

レーニンは、この産業別労働組合についても、「それは、技術と文化との現在の水準のもとでは避けられない(ロシアでも全世界でも)」といい、この組織形態もまた歴史の目からみれば過渡的であることを示唆したが、その後数十年を経た現在の水準では、さらに、産業別を軸にしながら全国的結集をめざす方向が強められている。

このような方向での組織化とその内容は実際どのような程度に達しているのか。そこに現代の労働組合運動の行動能力を評価するための尺度のひとつがあることはたしかである。

※このことは、むろん労働組合の闘争諸形態にも反映する。現在の労働組合運動にとって、産業別統一闘争、全国闘争ないし地球闘争がますます重要な意義をもつようになったことは、はなはだ合法則的だといえるであろう。しかし、そこから、産業別統一闘争あるいは全国闘争だけが唯一の闘争形態だと考えることは正しくない。

生産手段が資本家の手に握られているかぎり、労働組合の日常闘争というものは、たとえどんな統一闘争でも、「完全な解決」を期待することはできないからである。

闘争形態は、敵側の組織と展開にそって多面的、多段階的に組織されなければならぬ。他方、資本は、その生産の技術過程の一段階ごとに、資本を労働力と合体させることなしには生産することができない、という避けることのできない弱点をもっている。

しかも最近のように、資本の有機的構成か高まることによって、生産の技術過程が細分化し、あるいはそれが、企業外の二次、三次部門にまで延長されるようになると、個々の職場がそれぞれ連続した全体の過程のボトル・ネックに容易に転化される可能性をもつことになる。

そこから重点スト、指名ストなどのような、各段階の組織的なイニシアチヴを生かした闘争形態の有効性が増大する。現在、イギリスで、フォード・イン・イングランド、ヴィッカーズ造船所その他の巨大独占体に深刻な打撃をあたえている、ショップ・スチュワードに組織された「山猫スト」などもこの部類である。

ただし、これらの職場闘争が上から、あるいは下から組織されようと、たんなる職場闘争として終わるのではなく、職場をこえた「行動の統一」をめざす方向での展開を示すのが、明白な一般的傾向ではあるが。

A、現代資本主義が、国家独占資本主義にささえられた資本主義であり、それがまた、ドル帝国主義を頂点とする国際的独占体や国際機構に結びつけられているということは、互いにたたかう社会的力の発現形態にも大きな影響をおよぼしている。

現在の諸条件のもとでは、個別企業でのたんなる経済的条件の改善にかんする問題であっても、独占団体、銀行、政府、さらに時としては国際金融資本の干渉をうけて、政治問題化せざるをえない場合が少なくない。国家企業や巨大な独占体を舞台にしておこなわれる経済闘争は、それじたいが、ある意味での政治闘争である。

他方、現代の国家は、労働者に直接的な利害関係のある広範な社会経済的な諸問題をとりあげているのだから、労働者もまた、一九世紀の先行者たちのように、主として個別企業の資本とたたかうだけではなく、独占体や政府にたいして連合して(つまり政治的に)たたかう領域をひろげているし、それに必要な能力や経験を積みかさねてもいる。

しかも、現代の労働者階級が負わされている重大な社会的前進の推進力としての役割からいえば、労働組合が、それらとは別に、本来の政治闘争を前進させ、諸階級相互の「力関係の総体」を改善し、変革するために、しかも「終局目標」をめざして前進する方向でたたかわなければならないことは明らかである。

 これらのすべては、現代の労働組合の闘争は政治的性格を帯びざるをえないということであり、さらに現代という時代こそ、万国の労働者団結せよ、というマルクスの周知の命題を現実のものとすることが、いかにさしせまった必要になっているかを示すものだともいえる。この観点から、現代の労働組合の達成した現実の水準をはかってみること、これも現代労働組合運動の行動能力を評価するうえの主要な基準りひとつである。

B、現代の階級的民主的労働組合運動は、マルクスの時代と違って、「まぬかれられない労働者同士の競争」の結果としての社会的な力の分散状態にたいしてだけではなく、意識的に仕組まれた組織的分裂の結果としての社会的な力の分散状態にもたちむかわねばならない。

帝国主義同盟、政府、独占体が、右翼社会民主主義、その他の日和見主義的、協調主義的労働官僚と手をくんで、「労働組合を国家独占資本主義制度における一つの《秩序の要因》という低いものにしようという努力」(前掲『ドイツ共産党綱領』草案)をことごとに強めてきたことはよく知られている。社会的な力の分散は、その力を明らかに半減、あるいはそれ以下に低下させる。しかも組織分裂による社会的な力の分散は否定しがたい程度において現に存在する。
(堀江正則「現代資本主義と労働組合運動」労働組合運動の理論@ 大月書店 p34-39)

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◎「労働運動の発展は、漸進的な自然成長的な発展としてではなく、資本家階級の系統的・組織的な「あらゆる反労働者的な術策や奸策」に抗して、敗北と勝利、停滞と飛躍をともないながら「人類史の弁証法」、階級闘争の弁証法をとおして貫徹する」と。