学習通信071121
◎会社はいったいだれのもの……

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明日への話題
人生の持続する時間
 作家 柴田翔

 会社は株主のものだと言うが、ほんとうにそうだろうか。最初の株主が金を出資して会社は存在し始める。しかし資本だけでは会社は動かない。働く人々がいて、自分たちの時間を、つまり人生の一部をそこヘ提供して、初めて会社は動き出す。

 その際、社員の提供する人生の時間より資本、つまり金のほうが決定的要素だというのが資本主義の原理だろうが、それは必ずしも普遍的な答えではない。どの時代でも時代特有の答えの背後で、人間の自然に即した普遍的論理がひそかに働き続ける。

 主君の命令は絶対、が封建制の原理だったが、限界を越えて人倫に反すれば殿ご乱心となって、主君でも押し込められる。

 人間は本来、群生動物で孤独では生きられない。また時間の持続の中に生まれ、生き、そして死んで行き、しかもそれを意識している。それが人間の自然であり本質である。自分の個性も人々との繋がりも、その中でできて行く。

 だが金は困ったことに、変わり身が早くて孤独だ。金には履歴も名札もない。抽象性こそ金の誇りだ。今日買った株も容赦なく明日には売られる。株主は金の本質に従って、明日の株価上昇を企業に求める。

 しかしそこに働く人間は今日明日のためではなく、一年後十年後を考え、自分の人生の持続する時間を考えて暮らしている。

 今日か明日かの株価上昇のために明後日には企業が倒産しても、売り抜けた株主には関係ない。だがそこで働いていた人々は、その問の人生の意味の半ばを失う。

 資本主義下では会社は株主の所有物だろう。だがいつの時代のどんな制度でも人間の幸せに寄与しなくなれば、殿ご乱心として、無理にも隠居させられることになる。
(「日経 夕刊」20071120)

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会社はいったいだれのもの?
株主のものだったら「トップがバカ」じゃ務まらない

 トップがバカだからうちの会社はダメなんだ──。
 私にも経験がありますが、サラリーマンのお父さんがそうつぶやきたくなることはけっこう多いと思います。世の中には優れた経営者はけっして少なくありませんが、多くのサラリーマンにとっては、人事にしろ社内システムにしろ不満は山積みでしょう。

 しかし考えてみてください。なぜ、「バカなやつ」がトップになっているのでしょうか。

 この大問題を考える前に、会社とは何か、という点についてまず確認しておきましょう。

 これにはさまざまな考え方がありますが、一つには会社は投資家のお金を運用する資産運用代理人である、ととらえることができます。投資家が株式を買うという形で自分の資産をある会社に託すると、会社はその資金をもとに事業を行って収益を上げ、上げた収益を投資家に還元します。この仕組みが、会社が株主の資産運用代理人であるという根拠です。会社をこのようなものととらえる傾向が、最近は非常に強くなっています。

 大事な資産を託している株主は、運用責任者≠ナある企業トップに能力のない人間がおさまっていれば、そんな人に運用代理人は任せられない、と普通は考えます。「トップがバカだ」とすれば、従業員であるお父さんだけでなく株主からも文句が出てくるはずです。
(竹中平蔵著「みんなの経済学」幻冬舎 p15)

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 会社は株主のものか

 「株式会社は株主のものだ」というようなことがごく普通にいわれています。しかし本当にそうでしょうか。

 たとえば、皆さんがもしJR東日本の株主だとして、「この会社は私のものだから列車に乗せろ」といって、勝手に改札口を出ようとしたらどうなるでしょうか。あるいは東京三菱銀行の株主だから、というので銀行の社宅や運動場を勝手に使ったらどうなるでしょうか。法律の上からいっても、会社の建物や財産はすべて会社のものであって、株主のものではありません。

 では、その会社は誰のものか、ということになるのですが、もしあなたが一人でその会社の株式を一〇〇%持っているのであれば、答えは簡単です。会社の資産は会社のものだが、その会社は株主のものだ、といえるでしょう。しかし株主の数が増え、そしてたくさんの株を持っている大株主と、わずかな株しか持っていない零細株主にわかれると、問題は簡単ではありません。現に株主が何十万人もいる会社もあるのです。

 会社の規模が大きくなると、株主の数が増えるのは当然のことです。最初、株式会社を設立した時に出資して株主になった人は少ないとしても、その後会社が資本金を増やす、すなわち増資をしていきますと、それに払い込んで株主になる人が増えていきます。そして株式を公開して、証券取引所に上場したり、あるいは店頭取引で売買されるようになると株主はさらに増えていきます。

 こうして株主の数が増え、大株主と中小株主、あるいは零細株主にわかれていくと、「会社は株主のものだ」といっても、その株主とは誰のことか、わからなくなります。少なくとも会社が中小株主や零細株主のものでないことはいうまでもありません。

 さらに、もっと困った問題があるのです。というのは株主になっているのは個人だけではないからです。たとえば、新日本製鐵とか日立製作所、あるいは東京三菱銀行とか三菱商事などの株主をみると、大株主になっているのは銀行や生命保険会社、あるいは事業会社などです。

 全国の証券取引所に株式が上場されている会社の株式を誰が所有しているのか、ということを示したのが第2表です。

 最も持株比率が高いのが金融機関ですが、この中には銀行が自分の資産として株式を所有しているものと、投資信託や年金基金が持っている株式で銀行名義になっているものがあります。前者は法人としての銀行所有ですが、後者は機関投資家としての所有で、両者ははっきり区別して考えなければなりません。

 生命保険会社の株式所有も、保険加入者のおかねを株式で運用しているので機関投資家としての所有なのですが、日本では生命保険会社は銀行や事業会社と同じような態度で株式を所有しています。事業法人等というのは、金融機関以外の事業会社が株式を所有しているもので、これと銀行の所有株とをあわせて法人所有ということができます。

 第2表をみるとわかるように、日本では法人の持株比率が非常に高く、逆に個人の持株比率が低くなっています。戦後すぐのころは個人の持株比率が七〇%近くありましたが、それが二〇%台にまで下がっていったのです。

 それに反して法人の持株比率が大幅に上がったのですが、日本が法人資本主義といわれるひとつの大きな理由はこのような株式所有の法人化ということにあります。そして個々の大企業の株主を調べてみても、上位の大株主になっているのはほとんどが法人です。その法人はお互いに大株主になり合っており、これを「株式の相互持合い」といいます。

 たとえば東京三菱銀行の大株主は三菱重工業、三菱商事、三菱化学などで、三菱重工業の大株主は東京三菱銀行、三菱商事、三菱化学などであり、さらに三菱商事の大株式も東京三菱銀行、三菱重工業、三菱化学などというように、お互いに株式を持ち合って大株主になっています。

 そこで「会社は株主のもの」というので、東京三菱銀行は三菱重工業などのもの、三菱重工業は東京三菱銀行などのもの、ということになればどういうことになるでしょうか。AはBのもので、BはAのもの、というのでは、ぐるぐる回りになってどこまで行っても究極の所有者に突き当りません。

 日本の大企業における大株主の状況はこのような形になっているのです。こうなると、ますます「会社は株主のもの」ということがあやしくなってきます。会社が相互に株式を持ち合っているのですから、そこでは「会社は会社のもの」ということになってしまいます。しかもその会社は相手の会社のものというのですから、ぐるぐる回りになって、行きつくところがないのです。

 そういう状況にある日木の株式会社で「会社は株主のもの」ということがいかに意味がないか、おわかりになるでしょう。そのように主張する人には「あなたのいっている株主とは誰のことか」と聞いてみたいものです。

 資本家とは

 資本主義というのは資本家が労働者を雇って働かせ、それによって利潤を得るものだというのがごく普通の考え方です。資本家は資本を持っているのに対して、労働者は資本を持っていないので労働力を売るしかないというわけです。

 それが株式会社になると、資本家が大株主になって会社を支配し、そして会社が労働者を雇って働かせるということになります。

 戦前の日本経済を支配していたのは三井、三菱、住友をはじめとする財閥でした。三井家はもともと伊勢の松阪で呉服商をしていましたが、三〇〇年ほど前、江戸と京都に進出し、越後屋という呉服店を開きます。現在の三越の前身ですが、それが明治時代になっていろんな産業分野に進出して財閥になったのです。

 住友もほぼ同じころ銅細工から出発して別子銅山を幕府から借りて経営し、銅の製錬事業に乗り出しました。それが今日の住友金属鉱山ですが、明治時代になって、これもいろんな産業に進出しました。

 三菱は一三〇年ほど前に岩崎弥太郎が土佐藩の船を借りて海運業を始めたのが出発点です。そしてこれも明治以後、多角化して財閥になりました。

 これら三大財閥以外にも二、三流財閥、地方財閥、新興コンツェルンといわれた財閥がありましたが、これらはいずれも財閥家族が大株主として会社を支配していました。三井、三菱、住友の三大財閥の場合は三井、岩崎、住友家がそれぞれ財閥本社=持株会社の株式を所有し、これらの財閥本社が傘下のたくさんの会社の株式を所有していたのです。

 そこで傘下の会社を支配しているのは財閥本社であり、その財閥本社を支配していたのは財閥家族であったというわけです。そして財閥家族が所有していた株式はその子孫に相続されますから、財閥家族が傘下の会社を支配するという状態が続きます。このような財閥家族が資本家であることは誰の目にも明らかです。

 第二次大戦後、日本を占領したアメリカはこの財閥を解体し、財閥本社を解散させるとともに、それが持っていた株式を強制的に取り上げました。また財閥家族が持っていた株式も強制的に取り上げるとともに、財閥家族が企業の経営にたずさわることを禁止しました。

 このように財産の所有関係を権力によって廃絶したという点で、財閥解体は「革命」だといってもよいかもしれません。ただし、これは上からの、しかも占領軍の命令による「革命」だったのです。

 戦前の日本経済を支配していた財閥がこうして解体されるとともに、古いタイプの資本家がいなくなりました。もっとも、日本にある中小企業のほとんどは同族会社で、資本家が会社を支配しています。そして大企業のうちでも同族会社といわれるような会社があり、それらは同族の人が大株主になっています。

 しかし全体としてみると、株式を証券取引所に上場しているような大企業では同族会社の数は少なく、そして同族の人が所有している株式の持株比率も低いのが一般的です。

 たとえば松下電器産業の創業者である松下幸之助は、亡くなる前には松下電器産業の株式の三%程度しか持っていませんでした。

 こうして日本の大企業では、もはや個人、あるいはその家族が資木家として会社を所有しているということはいえなくなっています。個人が大株主として会社を支配しているケースがないとはいえませんが、大企業ではほとんどそんな姿はみられなくなっています。

 では、多数の零細株主が会社を所有しているのかといえば、決してそんなことはありません。なにより大株主になっているのは銀行や事業会社などの法人ですから、それを除いて零細株主が会社を所有しているなどということはありえないことです。
(奥村宏著「会社とはなにか」岩波ジュニア新書 p74-81)

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 賃金労働者として生きながら「人間」になる、これは、はっきりと自覚されているかどうかは別ですが、すべての労働者に共通する心底からの願いでしょう。その中味はさまざまでしょうが。しかし次のようなことに妥当な理解を持てないと、人間らしく働けないと納得できるでしょう。まだ他にもたくさんありますが、ごく基本的なことにしぼりました。「資本論」学習の問題意識になればと思って出しています。

 資本とはなにか、あるいは会社とはなにか
 会社はなぜ労働者を雇うのか
 労働者はなぜ就職するのか
 労働者は会社のおかげで生きているとよく言われるが、では会社は労働者が生きていけるように雇うのか
 会社の目的は儲けなら、なぜ労働者を雇うのか、労働者を雇うとなぜ儲かるのか

 労働力の価値とはなにか それはどのような要素から成るのか
 賃金とはなにか その妥当な金額はいくらぐらいなのか
 会社は儲けるために労働者を雇うなら、なぜその労働者が生活出来ないようなレベルの賃金へ下げるのか
 会社あっての労働者だから、労働者は会社を儲けさせるために協力しなくてはならない、それが従業員のつとめと言われるが、本当か

 労働時間とはなにか
 労働時間はなぜ長くなるのか
 妥当な労働時間はどれくらいの長さなのか なぜそれは動くのか
 どうすれば毎日早く帰れるようになるのか
 残業手当とはなにか

 機械とはなにか 会社はなぜ機械化するのか
 機械化でなぜ仕事が楽にならないのか なぜ労働時間が短くならないのか 機械化と労働時間はどう関係しているのか
 労働強化とはなにか
 機械化で労働者はなぜ失業するのか 生きていけないではないか なぜワーク・シェアリングにならないのか
 生産性と賃金はどう関係しているのか 生産性が上がると賃金が上がるのか

 競争とはなにか、競争は人間の本質か 人間は競争で発達するのか 労働者にとって競争とはなにか
 職場に仕事をサボル労働者がいるが、どう考えればよいか

 賃金の形がいろいろあるのはどういうことか
 「資本論」には、成果賃金の問題で、参考になることがあるのか

 不況とはなにか 景気とはなにか 景気循環とはなにか 労働者はどうなる
 失業、就職先がない、仕事ができないなどは自分のせいと思われているが

 経済成長とはなにか
 労働者の貧困化とはなにか 富と貧困の開きとはなにか
 剰余価値生産と安全・衛生問題はどう関連しているか
 資本家は利潤競争では互いに対立しあうのに、労働者には、企業、産業を超えて、階級として結束して向かってくるのはなぜか
 生産部門以外の労働者の地位や搾取はどうなるのか

 わたしは労働学校で、こういう問題のあらかたに、多少とも答えられないと、労働者としての生き方に確信がもてないのでは、と話したところ、「自分の学習は始まったばかりということがよくわかった」との答えに出会いました。

 「資本論」はこういう間題に、どこまで、どのように答えているでしょうか。自己質問、自己回答にまで進めれば、そこから先は、日本の職場と運動の問題での悩みに発展するのでしょうが。

 以下はわたしの仕事で労働者から提起されてきた問題点のいくつかです。わたしが持った問題もあります。こういうことに「資本論」はどこまで答えたり、ヒントをだしてくれているのだろうかと思って、さぐっています。労働者の「資本論」学習の問題として、参考までに書いてみます。

 世の中・人間ほど大事なものはないのに、なぜ人々は「カネ」がすべてと言うのだろうか。「カネ」で社会も人生も狂わされるのはなぜか しかし「カネ」の力で社会が発展するということもある どう考えればよいのか

 人間はなんのために生まれてきたのか なんのために生きているのか

 労働者が「人間」になるとはどういうことか

 労働者が発達するとはどういうことか、人間発達論と労働者の発達とはどう関係するのだろうか

 「競争教育」で自立を阻止された存在が、自立を獲得する法則性にとって、「資本論」はなにを教えるだろうか

 「公正な賃金」とはどういうものか

 労働力の価値は、「資本論」によれば、人間性に適するものでなくてはならないと評価する事を求める文言が存在しているのだが、現今の労働力の価格の低下を価値と評価する発想とのかかわりは、どう考えればよいか

 現在のIT化社会で パソコンも操作できない年輩者が高い賃金で できる若者が低いのは どう考えればよいかといわれるが 労働者の熟練とはなにか

 労働者にとってIT革命とはなにか

 能力のないものは貧しくても仕方がないのか

 労働運動や民主主義運動をやっていると、日本の労働者の意識の「おくれ」が気になって仕方がないことが多い。日本の労働者をなかなか信用できない思いがするのだが、そういう問題はどう考えればよいのか

 資本主義との対決で、生産や流通の部面で、労働者が自主的に経営する協同組合が生まれるが、「資本論」はどう分析しているか

 「資本論」での社会主義論とはどういうものか

 「資本論」では労働運動の問題はどのように述べられているのか、「資本論」はどういうときに、労働者階級をたたえたり、偉大と見るのだろうか その理由はどこにあるのだろうか

(吉井清文著「一生に一度は「資本論」を読んでみたい」学習の友社 p48-53)

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◎「自分の学習は始まったばかりということがよくわかった」と