学習通信071128
◎ロボット……

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千葉大が「憲章」
ロボット研究
平和目的に限定

 ロボットの研究は平和目的に限り、軍事などの非倫理的な利用は許しません──。千葉大学は二十六日、ロボット研究を行う同大の教育者、研究開発者すべてを対象にした「千葉大学ロボット憲章」を制定したと発表しました。自ら判断し行動する「知能ロボット」の研究が急速に進みつつあることから、倫理規定として設けました。大学のこのような憲章は珍しいといいます。

 米SF作家の故アイザック・アシモフが五十年以上前につくった「口ボットは人間に危害を加えてはならない」などの「ロボット工学三原則」も前提として盛り込まれました。

 憲章は、ロボット研究を平和目的の民生用に限定。さらに「非倫理的・非合法的な利用を防止する技術を組み込む」とし、人の殺傷などの悪用を積極的に止めることを目指しています。

 また、同大の教育・研究開発者らは「大学を離れてもこの精神を守ると誓う」としています。

 同大はロボット研究に力を入れ、宮崎清副学長によると、同大で開発された地雷探知・除去ロボットが既にアフガニスタンで使われているといいます。

 憲章は英語版も作成、海外の大学などと共同研究する際は賛同を求め、研究資金の出所が軍事産業でないことなども確認する方針です。
(「赤旗」20071127)

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「三人」にこめられたもの

 鉄腕アトムとレオとサファイヤ姫の三人には、明白な共通性がある。いや、「三人」というのはおかしいかも知れない。アトムはロボットであり、レオはライオンである。それならヒーローとよぶべきか。しかしサファイヤ姫はヒロインといわねばならない。

 けれど、ここではあえて「三人」とぼくはいおう。ロボットであれ獣であれ、手塚治虫によって生命を与えられたものは同等の資格を持っているからだ。ロボットだから、獣だからといわれない差別で境界線を引くことの愚かさを、手塚治虫はくり返し批判しつづけたのである。

 共通性というのも、まさにその点に関係がある。この三人は、みな自己の内部に対立を、つまり「境界線」を宿命的にかかえこんでいるのである。

 アトムは、二〇〇三年に生まれた、ということになっている。それまでのロボット開発の進展は、次のようなものであった、と手塚治虫は書いている。

 一九七四年、原子力による超小型電子計算器が発明され、七八年に電子脳を開発、八二年、電子眼をそなえた人間の形をしたロボットが生まれる。この頃のロボットはまだ金属製であるが、プラスチックによる人造皮膚の開発がすすみ、一九八七年にやっと人なみの身体を獲得する。各国では秘密裏にロボットの技術開発を競い合い、二一世紀に入るとロボットは日に日に人間に近づき、感情や意志をそなえるに至り、会話も可能になる。そして二〇〇三年、「ロボットは人をしあわせにするために、生まれたものである」という第一条をもつ「ロボット法」が制定される。この水準に達してはじめて、ヒーローたり得るロボット「アトム」が誕生するのである。

 その水準とは、端的にいえば人間と機械との調和をなしとげたレベルを意味する。本来機械とは、どれほど力があり高性能であろうとも、人間によって操作されねばならず、それ自体意志はもたない。そして人間は、意志や感情をもち、欲望に苦しめられながらも、正義と平和を求めようとする。が、生身の存在だから、力の点では機械には劣る。

 アトムは、人間の良心と最高の機械力との完全な統一像として登場したのだ。「瞬時にして正義と悪を判別できる」電子脳をもち、一〇万馬力のジェット推進で空を飛ぶことができる。ダイヤルひとつではるか彼方で針一本落とす音をキャッチでき、闇を見通す光る眼をもつ。原子力エネルギーがつづく限り、アトムには不可能はない。

 けれども、人間性と機械との統一であるというのは、逆にいえば、自らの中に人間性対機械の対立、あるいは矛盾をかかえこむ、ということでもあるのだ。アトムに悲劇性、とはいわないまでもなんらかの危機をはらむ緊張感がつきまとうのは、そのためではないか。

「作られたもの」の悲しみと栄光

 アトムは、天馬博士という天才科学者の手で、事故で急死した息子の身代りとして作られた。その経緯は、見開き二ページで小さいコマを連ねながらこう語られる。

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 天馬博士にはトビちゃんという子どもがあったのですよ。目に入れてもいたくないほどかわいがっていました。ところがある日……自動車にひかれてしまった。それ以来博士は気が狂ったようになりました。博士は全工場を動員しました。ロボット科学のすいが集められ……からだは弾力性のあるプラスチックでつくられた。失ったトビちゃんの姿を科学のちからでもう一度つくりだそうとしたのです。こうしてトビちゃんは科学の芸術品として、ほとんど変わらずに生まれ変わったのでした。博士の心はなぐさめられました。でもやがて恐しい欠点に気がついたのでした。それはトビちゃんが成長しなかったことです。博士はかえってそのことをにくみました。
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 それでアトムはサーカスに売られてしまうのだ。

 親に憎まれ、サーカスに売りとばされた少年という悲しい設定が、アトムにはいつまでもつきまとう。やがてお茶の水博士に引きとられ、小学校に通うようになり、両親のロボットまで作ってもらうことになるのだが、にもかかわらず、「作られたもの」の悲しみを、ことごとに思い知らねばならない。ロボットは人間を攻撃することはできず、しかも人間を守るためには危険を恐れてはならないのだ。人間性を獲得するとは、ロボットにとって悲しみを知ることにほかならない。なぜ、手塚治虫はわざわざこの代表作のヒーローをこんなふうに設定したのだろうか。

 『鉄腕アトム』に遅れること五年、同じ『少年』誌に登場したロボット漫画、横山光輝の『鉄人28号』は、テレビ・アニメの時代までアトムと人気を二分するヒットとなったが鉄人は人造皮膚さえもたない純然たる機械である。リモコンで操作されるメカニズムは、手塚治虫の「ロボット開発史」でいえばもっとも初期の段階の成果であるにすぎないのだが、それに加えて両者の際立つ対照は、アトムが身代りとはいえ愛の対象として作られたのに対し、鉄人28号が戦争の道具として設計された点である。

 ついでにいえば、ずっとあとに、ロボットよりいっそう人間に近い科学の成果として登場するサイボーグでも、例えば、石森章太郎の『サイボーグ009』のように、鉄人と同様に未来の成層圏戦争の兵士として、たたかうために改造されたものもある。ロボットは「たたかう」ことを本質的に宿命づけられた存在として単純化される。それは『鉄腕アトム』のストーリーの一面からはじまった、ともいえる。

 人々の平和と安全をおびやかすものがあらわれたとき、敢然としてそれに挑み、生命と平和を守ることを、アトムは自ら使命として選ぶ。しかし、捨てられたとはいえ、彼は「愛される」ために生まれたのであり、もともとたたかいを自己目的化するロボットではない。のちのロボット漫画は、この「出生の秘密」を切り捨て、戦士の側面を強調することになるのだけれども、むしろ、この生まれ方のほうに、手塚治虫の思想のエッセンスがこめられている、とぼくは思う。ヒロイズムは、つねにその背後に悲しみを背負っているものだ。栄光は孤独と紙一重なのである。

「手塚ヒューマニズム」

 戦争が終って五年目に、医学生漫画家は子どもたちに向かって、のちに数多くの傑作でくり返し強調する、このどうすることもできない矛盾を、問題提起していたのだ。愛し愛される関係から出発するひとりひとりの人間が、なぜ憎み合い、殺し合わねばならないのか。真に守るに値するものはなにであり、断固として退けねばならないものはなんであるかを、未来のロボットの物語を借りて、手塚治虫は描きつづけたのだった。それは、「手塚ヒューマニズム」などとよばれた。その言い方の中にはからかいのニュアンスも混っていたと思うのだが、果してからかってすむようなことなのかどうか、ぼくは改めて考え直すべきではないか、と思うのだ。

 未来社会においても、人間の弱さは少しも変わらないらしい。物欲や名誉欲、復讐などのために人は迷い、多くの犠牲を強いる暴挙をくり返す。アトムは、こうした科学に増幅される狂気から、地球を、生命を守らねばならない。子どもたちの正義感は、アトムに自己同一化する。アセチレン・ランプや金三角が扮する悪は、悪に走る理由は理由としてわからないではないが、絶対に許せない。正義感にみちあふれながらも、力なきがゆえにおとなたちの悪を見過ごさねばならぬ子どたちにとって、少年アトムはまさに英雄だったのだ。その英雄性を保証するものとして科学技術があった。科学の力で彼は、不死身の高性能と超能力を与えられたのである。

 ロボットゆえに、ロボットに対する差別や抑圧を許さず、同時に人間への信頼と愛を最後まで失わないアトムは、人間の機械支配も機械の人間支配も許さない、そういう意味での統一体として、設定されている。科学技術の向上が人類の幸福を約束するという願望は、実はアトムに与えられたような奇跡的な良心によってのみ、辛うじて実現されるのである。

 これは、科学をこえたロマン、つまり祈りにほかならない。祈りに充ちた若い漫画家の予言は、その後次々と冷酷な現実によって裏切られていく。アトムにこめられていた作者の祈りは無力だったのだろうか。戦争、原発問題、公害、とりかえしのつかない大気汚染、大陸の砂漠化は、アトムに内在した緊張を人々が忘れたから起ったものではないだろうか。
(斉藤次郎著「手塚治虫がねがったこと」岩波ジュニア新書 p9-17)

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教育評論家ら3人を大麻所持で逮捕

 埼玉県警朝霞署は21日、同県入間市東町、教育評論家斎藤次郎(本名・水谷次郎)容疑者(68)ら3人を大麻取締法違反(所持)の現行犯で逮捕した。

 調べによると、斎藤容疑者は同日、自宅の机の引き出しにビニール袋に入れた乾燥大麻約10グラムを持っていた。一緒に逮捕された長男の工芸家水谷核(39)(埼玉県皆野町三沢)、無職辻美和(32)(同)の両容疑者も、自宅居間で若干量の乾燥大麻をセカンドバッグに入れて所持していた。

 斎藤容疑者は子どもの悩みなどについて評論活動を行い、「気分は小学生」「子どもと暮らすということ」など多くの著書がある。調べに対し「普段から(大麻を)吸っていた」と供述している。
(「電子版 読売」20070921)

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ロボットという言葉はどのように生れたか
 カレル・チャペック

1----------
 この「ロボット」という語を考え出したのは戯曲『R・U・R』の著者ではなく、著者はこの語を世の中に送り出したにすぎない。そのいきさつはこうである。とあるひょっとした瞬間にくだんの著者は芝居の素材を思いついた。そして、この考えがさめないうち、ちょうどその時、イーゼルの前で、刷毛の音がきこえるほどキャンバスに向かって筆をふるっていた兄の画家ヨゼフのところへかけていった。

 「ねえ、ヨゼフ」と、著者は語りかけた。「芝居のためのいい考えが思い浮かんだんだけど」「どんな」と画家はモグモグといった(本当にモグモグとであった。なぜならこういった時、口に刷毛をくわえていたからである)。

 著者はどういう筋か手短かに話した。

 「じゃあ書いたら」と、画家は刷毛を口からとりもせず、キャンバスに塗る手も休めずにい
った。

 「でもねえ、その人工の労働者をどう呼んだらいいのか分からないんだ」と、著者はいった。

 「もしラボルとでもいうと、どうも自分には本物らしくなく思えてね」

 「じゃあロボットにしたら」と、画家は口に刷毛をくわえて、絵を描きながらいった。それが採用された。そういう経緯でロボットという語が生まれたのである。これで本当の作り手に帰されるわけである。
 ──「リドベー・ノビニ」(人民新聞)一九三三年一二月二四日

2----------
 ロボットは電車に乗ったから出来たものである。ある日のこと私は郊外を走る電車でプラハに行かねばならなかった。そしてその電車ときたら不愉快なほど混んでいた。近代的な条件というものは、本来人間が慣れ親しんでいる気持ちのいい生活状況を意識させなくするということに気がついて、私はびっくりさせられた。電車の中も、立席も、羊が並ぶようにではなく、機械が並ぶようにぎっしりとつまっていた。そこで人間について、個人としてではなく、機械として考えることを姶めた。家に帰ってから働く能力はあるが、考えることのできないものをどう表現したらいいのか考えてみた。このアイディアがチエコの言葉──ロボット──で表現されたのである。
 ──「イブニング・スタンダード」一九二四年六月二日

3----------
 これを書いていた時いいようのない恐ろしさに襲われて、私はあの連中に対して大量生産や非人間的モットーを作り出すことに警告でもしたいと思ったが、はっと気がつくと、いつかもしかしたらそう遠くない時期に、私が著者としてこれらの鈍感なメカニズムの力を、私の望む方向に導いたように、誰かが馬鹿な人間大衆を世界や神に反対するように導くのではないかという恐れにとらえられた。オルガよ、私はとっても気分がすぐれなかったので、終りに近づくと執拗にといっていいほど何らかの話し合いと愛の解決を採し求めたが、ねえ、このようになると信じられるかい?
 ──オルガ・シャインフルゴバーヘの手紙の一部
(チャペック著「ロボット(R.U.R)」岩波文庫 p197-199)

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◎「憲章は、ロボット研究を平和目的の民生用に限定……「非倫理的・非合法的な利用を防止する技術を組み込む」とし、人の殺傷などの悪用を積極的に止めることを目指し……同大の教育・研究開発者らは「大学を離れてもこの精神を守ると誓う」」と。