学習通信071207
◎日本は「化石賞」……

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温暖化対策に「消極的」
日本は「化石賞」

 地球温暖化対策に、日本は最も後ろ向き──。インドネシア・バリ島で開催中の地球温暖化対策の世界会議で四日、国際環境NGO(非政府組織)が対策に消極的な国を選ぶ不名誉な賞「化石賞」の一〜三位すべてに日本が選ばれました。

 化石賞は、会期中の毎日、各国のNGOメンバーが投票で決める賞で、名称は、二酸化炭素排出の原因である化石燃料や古い考え方という意味にちなんでいます。

 現地にいる日本のNGOメンバーの情報によると、日本が一〜三位に該当するとして選ばれた理由はそれぞれ▽先進国の温暖化ガス排出削減目標の絶対量について発言しなかった▽京都議定書十周年を自ら冒とくしようとしている▽途上国への「技術移転」についての議題の採択に、米国、カナダと一緒に反対した(共同受賞)──というもの。

 過去に一〜三位をすべて同時受賞した国は、サウジアラビアと米国だけだといいます。
(「赤旗」20071206)

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資本主義の耐用年数が尽き始めた
──現代世界の共通間題

 では、そういう問題を解決して、日本がせめてヨーロッパ並みと言える資本主義になったら、すべてが解決して、万事めでたしめでたしとなるのでしょうか。

 実は、そうはいかないのです。というのは、初めに二重の矛盾と言いましたように、日本社会がその一翼をになっている世界の資本主義そのものが、耐用年数あるいは賞味期限が切れ始めており、二一世紀を資本主義の体制のまま過ごしていいのかどうかが問われる時代に入っているか
らです。

 ですから、社会の将来を考えるには、この第二の矛盾に大きく目を向ける必要があります。

 私は、資本主義そのものを見るとき、昔から資本主義社会につきものだった矛盾と、最近際立ってきた矛盾と、二つの面から考えることが大事だと考えています。

恐慌・不況の周期的な襲来

 一つは、資本主義がいつまで経っても、恐慌・不況の周期的な繰り返しから抜け出せないということです。

 イギリスに資本主義が始まって最初に恐慌をむかえたのが、一八二五年でした。二度目の恐慌が一八三七年、三度目の恐慌が一八四七年でしたが、四七年の恐慌が最初の世界恐慌で、それ以来、恐慌は世界的な規模をもつのが普通のことになりました。当時の経済学者たちは、恐慌がなぜ起きるのか、どうしても理解できず、有力な経済学者のなかでも、目の前の現実から目をそむけて、恐慌など起こるはずはない。モノを生産している以上、モノを購買する力も、生産したモノと同じ規模で生まれているはずだ≠ニ主張する流派も現われたほどでした。
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(注)リカードウ経済学と恐慌。マルクス以前の正統派の経済学(古典派経済学)の最高峰と言われたリカードウは、最初の恐慌以前に生涯を終えたが、資本主義経済のもとでは、恐慌は起こりえないということを、原理的に論証≠オていた。だから、リカードウの後継者たちは、周期的な恐慌という現実に直面して、混迷におちいらざるをえなかった。
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 最初の恐慌から数えて、今年はちょうど、百八十年目ですが、資本主義は、いまだにそれから抜け出す処方箋を見つけることができないでいます。

 資本主義擁護の立場に立つ経済学者のあいだでも、恐慌から抜け出す方策を考えだすことは、経済学最大の課題とされてきました。そして、ケインズという学者が、戦前の一九三六年、恐慌を防止する「完全雇用」の学説というものをつくりあげました。第二次世界大戦後は、これが多くの資本主義諸国で経済政策の指導理論として採用されるようになりました。

経済は市場の自由にまかせる≠ェ原理だった昔とはちがって、今度は国家の介入を原理とする、市場の風向きが危なくなったら国の力でテコ入れをして、恐慌的な破局をくいとめる、こういう理屈でした。このやり方で、恐慌の度合いを緩和するなど、ある程度の成果はありましたが、それも長続きはしません。一九七〇年代に入ると、ケインズ流経済政策もその力が尽きてしまい、「経済学の危機」が叫ばれる時代がやってきます。いまでは、「ケインズは古い」というのが、資本主義派の経済学の常識になっているでしょう。
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(注)この理論を体系的に述べたケインズの主著は、『雇用、利子及び貨幣の一般理論』(一九三六年)。
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 ケインズが「古く」なっても、国家の経済への介入はやまず、景気が悪くなると、いろいろな流儀で手当はしますが、結局は、病状が複雑になるだけで、恐慌・不況そのものはさっぱり片づきません。ただ、政府がテコ入れしますから、過去の時期の大恐慌のような爆発的な形態はとらないので、「不況」という言葉を使うことが多いのですが、いったん不況に落ち込むと、じわじわと不況が長引いたり、上向きに転じた場合でも、いつも暗い影に覆われた状態から抜け出せない。このことは、日本でも、世界でも同じです。

 これは、資本主義が、恐慌・不況という矛盾を、いまだに解決できないでいる、ということです。

社会的な貧富の格差の拡大

 昔からの矛盾は、貧富の格差の拡大という問題です。これも、利潤第一主義の資本主義が、そのおおもとからのもう一つ生み出している矛盾です。よく、いまの資本主義は、昔の資本主義とは違う、貧富の格差がちぢまって、社会全体が「中産階級」化してきた、などの議論をする人がいますが、これは、資本主義経済の現実を見ない議論です。

 資本主義のもとでも、生活様式の変化を含む社会的な発展がありますし、労働者や国民の運動もありますから、歴史の進行とともに、国民生活の水準が全体として発展してゆくのは、当然です。しかし、問題は、そのなかでの社会的格差、富める部分と貧しい部分との格差が広がってゆくことです。

 この社会的格差が、現実の資本主義社会で、実際にどうなっているか。この問題については、広く使われている客観的な統計があります。それは、社会の構成員を、所得の多い順に五段階に区分して、各階層(分位)、とくに所得のもっとも高い階層(第T分位)ともっとも低い階層(第X分位)のそれぞれの平均所得を比較する、という方法です。これで、ごく大ざっぱにではありますが、その社会の貧富の格差の程度を見ることができます。

 この方法で、最近二十年間の格差の変動を調べると、次のようになるのです。

 まず、アメリカですが、富裕層(第T分位)と低所得層(第V分位)の格差は、一九八〇年には、七・八倍でした。それが、一九九〇年には、九・六倍、二〇〇一年には一一・四倍になりました。この二十年間に、社会的な格差は、これだけ大きく拡大したのです。

 日本はどうか。一九八一年の調査では、富裕層(第1分位)と低所得層(第V分位)の平均所得の格差は、五・六倍でした。それが、一九九〇年にはハ・二倍に拡大し、一九九九年には、さらに九・二倍に拡大しました。アメリカにくらべると、格差の幅は一歩遅れた形ですが、年を追ってのその広がり方はよく似ており、広がりのテンポは日本の方がむしろ速いぐらいです。
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(注)厚生省(現厚生労働省)の『所得再分配調査』から計算した数字。
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 こういう調子で、利潤第一主義にまかせておいて、社会保障などの手立てをきちんと講じないと、社会的格差がどんどん広がる、このことは、客観的な数字で証明されています。これらの矛盾──恐慌・不況の周期的襲来も、社会的格差の拡大も、資本主義につきものの昔ながらのもので、それが現代においても、強く働きつづけているのです。

資本主義の地球管理能力が問われる

 最近は、もっと巨大で深刻な矛盾がでてきました。「京都議定書」をご存知でしょう。この京都で一九九七年に開かれた国際会議で確認された、排気ガスを計画的に減らして地球温暖化を防止する措置を定めた最初の国際的な協定です。

 これは、どういう問題か。かいつまんで話しますと、地球の大気というのは、私たち人類がこの地球で生きてゆくうえでなくてはならないもので、いわば「生命維持装置」というべき役割を果たしています。実は、この大気は地球にもともとあったものではありません。地球は四十六億年前に生まれましたが、生まれたばかりの地球がもっていた大気は、ほとんどが二酸化炭素からなっていました。二酸化炭素というのは、現在では大気のなかでわずか〇・〇三%ほどの体積しか占めていません。その割合が少し高まっても、地表の温度があがり、気候の大変動を起こすということから、大問題になっているのですが、原始の地球では、その二酸化炭素が大気の大部分だったのです。とても地上で生命活動ができる状態ではありませんでした。

 だから、地球上の最初の生命は、陸地の上でなく、海のなかで生まれました。それが三十五億年前でした。実は、海のなかに生まれた生命体が、地球大気の大改造に乗り出したのです。高校などで、「光合成(こうごうせ)」という現象について勉強したことを思い出して下さい。植物が、大気のなかの二酸化炭素を吸って有機物を合成し、酸素を吐き出す。そのさい、光のエネルギーを活用するので「光合成」と呼ばれるのですが、海のなかに誕生した生命体が「光合成」をやりだすと、大気中の二酸化炭素は減り、大気中にもともとは存在しなかった酸素が増えてきます。これを、全地球規模で、三十億年以上にもわたってつづけた結果、地球大気の大改造がなしとげられました。最初は二酸化炭素ばかりだった大気が、酸素が五分の一で残りは窒素、そのなかにわずかに二酸化炭素が残るという大気に、構成がすっかり変わったのです。

 これなら、海を出ても生命を維持できる環境がつくられたわけで、そのとき初めて、生命は故郷の海を出て地上に上陸してきました。それが四億年前のことです。こうして上陸してきた生命体が、地上での長い進化の歴史を経て、二百万年ほど前に、人類の祖先を生み出すところまで発展し、それを受け継いで、現在の私たちがあるのです。

 地球環境の危機というのは、その大事な「生命維持装置」が、利潤第一主義の経済活動によって、あぶなくなった、という問題です。地球大気というのは、三十億年以上もかかってつくり上げられた「生命維持装置」です。その「装置」が、最近の、一世紀にも満たない期間の経済活動で、破壊され始めた。

 大気の構成の問題のほかにも、オゾン層の間題があります。宇宙から降り注ぐ紫外線は、細胞を破壊するすごい破壊力をもっていて、これがそのまま地表に到着したら、とても人間は生きられません。この面で「生命維持装置」の役割をはたしているのがオゾン層で、これもいまお話した地球大気の改造過程でつくりだされたものですが、利潤第一主義の破壊作用はここにも及んでいて、地球のオゾン層は、あちこちに穴が開き始めています。これも大変な問題です。

 資本主義とは、経済活動が引き起こす結果に責任を負わない無責任さを、本来的にもっている体制ですが、その無責任さが、いまや、地球環境の危機という人類の存在そのものを脅かす形で、現われるようになった、ここにこの問題の特別に深刻な意味があります。

 資本主義という体制が、この問題にちやんと対応することができないとしたら、それは、資本主義にはもはや地球を管理する能力も資格もないということを、自ら告白することになるのです。現代の資本主義の総本山を自任しているアメリカは、クリントン大統領の時代に「京都議定書」に署名しましたが、ブッシュ政権に変わったら、こんな「議定書」はいやだと言って脱退してしまいました。明らかに、その背景には、ブッシュ大統領の基盤であるテキサスの財界──石油や化学など大気汚染の張本人が主カです──の意向が、働いています。

 私は、さっきから、資本主義の賞味期限が切れてきた、このまま存続していいかどうかその是非が問われる時代が来たということを繰り返し強調してきましたが、地球環境の問題が、そのことを実証する最大の舞台となっていることは、明白だと思います。

アジア・アフリカ・ラテンアメリカの活路が開けるか

 もう一つの大きな問題は、南北問題です。

 さきほど、世界の変化という角度から、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの問題を取り上げました。地球人口六十二億人のなかで五十億人を占める大きな地域です。そのうちの一億数千万人は、日本とイスラエルなど発達した資本主義の国に属します。また十四億人は、中国、ベトナム、キューバなど社会主義をめざしている国ぐにです。これらをのぞく三十五億人が、資本主義の体制のなかで何とか活路を見出そうとしている国ぐにですが、これらの国ぐには政治的独立をかちとって以後、四十年、五十年と生活してきて、資本主義の枠内で経済的発展の道がはたして開けるか、という問題を、切実に痛感し始めています。

実際、そのなかで、資本主義的な発展のレールに多少とも乗れたと言えるのは、ごく少数の国ぐにではないでしょうか。「失われた十年」とか「失われた二十年」とかいう言葉があるように、多くの国ぐにでは、経済面では停滞や後退の傾向が目立っています。

 その意味では、この地域から、資本主義を乗り越えようという体制的変革の動きが起こっても、なにも不思議ではないのです。現に、いまの世界で社会主義をめざしている国ぐにというのは、すべて、アジア・アフリカラテンアメリカの世界の一角をなす国ぐにで、そこには、資本
主義の道を通らないで社会主義への前進の道を探究する実例が提供されているのですから。

 私たちが、最近注目しているのは、ラテンアメリカの変動です。この大陸は、戦後の植民地体制の崩壊とは、直接のかかわりの薄かった地域でした。ここには、もともとは、形の上では政治的独立国がならんでいました。その独立国を政治・経済・外交の鎖でしばり、この大陸の全体を自分の支配のもとにおくというのが、アメリカの支配のやり方だったのです。ですから、植民地体制の崩壊がすすんでいった時にも、アメリカの支配体制はほとんどその影響を受けませんでした。従属の鎖を根もとから断ち切って、本当の独立をかちとったのは、キューバが唯一の例外という状態がつづいたのです。

 ところが、そこに今、民主的変革の大波が起きています。いま、アメリカの支配からの独立を旗印にした革新政権が次つぎと生まれ、いまや、中米も南米も、アメリカの思うようには動かなくなりました。

 南米を見ますと、ベネズエラを先頭に、ブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイなど、アメリカからの政治的、経済的な自立をめざす国が年ごとに増えています。その先頭に立っているのがベネズエラです。この国では、経済面でも、アメリカの支配も、それと組んだ大企業の支配も受けつけない、民主的な改革に本気で取り組み始めています。この取り組みのなかで、この改革の前途は何か、という問題が提起され、資本主義の道には前途はない、社会主義こそが未来を開く方向だ、ラテンアメリカ流の社会主義の確立をめざそうじやないか、こういう間題が真剣に議論され始めました。
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(注)二〇〇五年一二月の大統領選挙で、ボリビアがこの波にくわわった。----------
 いま、古くからの矛盾と新しい矛盾をあわせて、いま世界の資本主義がぶつかっている矛盾や危機について、いくつかの角度から説明しました。私は、世界的にいって、二一世紀の世界の動きのなかでは、体制的な変動が本格的な波となってゆく事態が必ずくるだろう、そういう見通しを非常に強く感じています。
(不破哲三著「日本の前途を考える」新日本出版社 p49-59)

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◎「日本社会がその一翼をになっている世界の資本主義そのものが、耐用年数あるいは賞味期限が切れ始めており、二一世紀を資本主義の体制のまま過ごしていいのかどうかが問われる時代に入っている」と。