学習通信071217
◎匂いも味もわからない……

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 われわれは、工場労働が行なわれている物質的諸条件を指摘するにとどめておこう。

四季の説明正しさで産業上の殺戮報告を生み出す密集機械設備のもとでの生命の危険は別としても、人工的に高められた温度、原料の屑の充満した空気、耳をろうする騒音などによって、すべての感覚器官は等しく傷めつけられる。

工場制度のなかではじめて温室的に成熟した社会的生産手段の節約は、資本の手のなかでは、

同時に、労働中の労働者の生存諸条件、すなわち空間、空気、光の組織的強奪、

また労働者の慰安設備については論外としても、生産過程での人命に危険な、または健康に有害な諸事情にたいする人的保護手段の組織的強奪となる。

フリエが工場を「緩和された徒刑場」と呼んでいるのは、不当であろうか?
(マルクス著「資本論」新日本新書B p373)

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派遣社員の過労自殺
上段勇士さん 享年二三歳

 裁判は五分で終わった。〇六年六月一五日午後二時三〇分、東京高裁八〇八号法廷。

 この日おこなわれた裁判は、二三歳で自殺した上段勇士さんの過労自殺をめぐる裁判である。

 勇士さんは、七五年、三人兄弟の次男として東京で生まれた。中学時代は陸上部に所属し、生徒会長もつとめていた。中学校の卒業式では女子生徒にねだられ、ボタンがひとつもない制服で帰宅している。実際、写真を見てもその人気ぶりがうかがえるイケメンだ。

 中学卒業後は、理数系が好きだったことから工業高等専門学校(都立航空高専)の電子工学科に人学。優秀な成績で卒業後、東京都立大学工学部に編入学した。が、授業内容に満足できなかった勇士さんは、将来アメリカに留学したいと都立大を四年で退学。留学費用を貯めるため、就職雑誌でいまは「被告」である業務請負会社「ネクスター」(現アテスト)を見つけ、九七年一〇月、採用された。ちなみにこの会社はクリスタル系だ。

 勇士さんは、ネクスターから埼玉県のニコンの熊谷製作所に派遣される。初めて親元を離れ、ネクスターの借り上げアパートの寮での生活が始まった。当時の熊谷製作所は、半導体製造のための装置を作る、ニコンにとっては稼ぎ頭の工場だった。勇士さんはそこで半導体製造装置「ステッパー」の最終検査を担当することになる。最終検査はそれまでの工程の進み具合による納期のずれの皺寄せをモロに受けるうえ、責任も重い仕事だ。

 仕事場は「クリーンルーム」と呼ばれる塵埃を最小限にした閉鎖空間だった。全身を包む防塵服を着用し、立ちっぱなしで作業にあたる。クリーンルームのなかには休憩室やトイレはなく、外に行くにはいちいち数分かけて防塵服を脱ぎ着し、再度入室するときにはエアーシャワーを浴びなくてはいけない。また、クリーンルーム内は感光剤が感光しないよう、黄色の単色光にされていて、視界全体が黄色に染まる。厳しい納期が課せられ、残業も多いという精神的にも肉体的にもきつい仕事だった。

 この裁判を担当する川人博弁護土の著書『過労自殺と企業の責任』(旬報社)には、クリーンルームについての知見が書かれている。引用しよう。

 「中央労働災害防止協会が一九九〇年(平成二年)九月に作成した報告書『クリーンルームの安全衛生管理』では、クリーンルーム作業により、『精神活動面への複雑な影響が顕在化する可能性』と『特異な精神・心理状態を余儀なくされやすい』ことが指摘されている。(中略)なお、クリーンルームで働く労働者の健康被害が、一九九〇年代以降、世界各地で報告されており、化学物質による喘息、流産、がん、出生異常、白血球減少、神経疾患などさまざまな実態が浮かび上がっている」

 しかし、会社による情報開示はまったくなく、勇士さんは「お金を貯めるにはもってこいの環瀬だね。がんばるぞ」と張り切っていた。身体を鍛えるのが好きな勇士さんは健康に気を使って食事も自炊していた。

 ニカ月後、それまで昼の勤務だった勇士さんは昼夜交替勤務をすることになる。昼勤は午前八時三〇分から午後七時三〇分まで、夜動は午後八時三〇分から朝の七時三〇分まで。昼夜がコロコロ変わる不規則な生活を余儀なくされ、昼間はあまり眠れず、胃腸の調子も悪くなり、下痢や吐き気を母親に訴えるようになる。

 翌年三月には台湾への出張を命じられ、二週間、台湾へ。このことからも、正社員にひけをとらない働きぶりだったことがうかがえる。初めての海外だったが出張中は多忙を極め、「菓子パンー個だけの日とかも結構あったよ」と帰国後母親に告げている。

 出張後も長時間労働が統く。五時間半の残業、一五時間を超す休日出勤、たび重なる夜動、昼勤のシフトの変更。この頃から勇士さんは「食べ物の昧の違いがわからない」と母親にいうようになる。が、そんななか、再び過酷な出張もこなしている。「今回の出張もすごいよ。ほとんど寝れないよ。夜二時頃帰ってきて四時間くらいしか寝れない。体の調子最悪」。勇士さんが母親に電話で告げた言葉だ。

 その年の夏、勇士さんのストレスをさらに増大させる事件が起こった。同期入社の派遣・請負社員の大半がリストラされたのだ。ネクスターから派遣されたなかで、残ったのは勇士さんだけだった。勇士さんは、母親に怒りとショックを打ち明けている。「ニコンは見通しも立てずに派遣社員をたくさん採用しては、勝手にクビを切っていく。派遣社員って使い捨ての便利な社員ってことなんだ。最初の就職なのに大変なところへ来たようだ」

 勇士さんと寮で相部屋だった同僚も解雇となった。残された勇土さんには相当のプレッシャーがかかったはずだ。人が減り、勇土さんにはいっそう仕事がのしかかる。体調が悪くても「いま、休むとクビにされるかもしれないからがんばるしかない」と出勤し、ニコンに派遣されて一年も経つ頃には、好きだった料理も疲れてほとんどできなくなっていた。

 この頃から母親との電話で、集中力の低下や息苦しさ、激しい頭痛を訴えるようになり、「がんばっても残業がなくならない」「完全にばてた。この頃は九時間四五分のいつもの労働でも疲れる」と疲れ果てたようすを見せる。しかし、そんななかでも電気主任技術者(二種)の資格試験の勉強をしている。たまに東京で会う母親は、勇士さんが見るたびにげっそりと痩せ、顔色が悪くなっていることを心配していた。

 日常の仕事だけでなく、ほかにもストレスの種は尽きない。直前まで日程がはっきりしない出張。立場上、何をするにもネクスターを通していわなければいけないのに要領を得ない対応。そこにまた過酷な台湾出張が重なり、九八年の一二月、今度はネクスターが「寮を移ってほしい」と引っ越しの話を持ち出してきた。いつ引っ越すかわからないまま待機を余儀なくされた勇土さんは休みの日も予定を入れずに待つが、そのまま年末を迎える。

 九八年の年末から九九年の正月にかけて、勇土さんは家族と東京で過ごしている。大晦日の日、母親を驚かせる事件が起きた。母親が買い物に行っている間、勇土さんは風呂掃除をしていたのだが、母親が帰宅すると閉め切ってある部屋はカビキラーの刺激臭に満ちていたのだ。しかし、勇士さんは匂いをまったく感じないという。驚いた母親が、アイマスクをさせて酢や醤油、味噌、ソースなどを嗅がせてみたが勇士さんはまったく区別できず、今度は味覚で試してみたがそれもわからなかった。

 お正月を家族と過ごした勇士さんは、ぼんやりして無表情でいることが多かったという。「最近簡単な単語もよく打ち間違えるんだよね。頭がぼうってしてるっていうか。悲しいよ。昼とか夜とかっていう感じじゃないんだよね。時差ぼけってこんな感じかなあ」といっている。二交替制勤務は明らかに勇士さんの身体を蝕んでいた。同時に手や腕のしびれも訴えている。

 正月休み最後の日、熊谷に戻った勇士さんを待っていたのは突然の引っ越しだった。選ぶ余地もなく、いままでのアパートより狭い部屋に急きょ引っ越しさせられる。

 休み明けも長時間労働が続いた。母親には電話で「目が重苦しい」「頭痛がひどい」「匂いも味もわからない」「疲れてキーボードがかすむ」など訴えている。一月には弟が勇士さんのもとを訪れた。勇士さんは自分からはあまり行かないゲームセンターに弟を連れて行き、自分はゲームをせず、ゲームに熱中している弟をにこにこしながら見つめていたという。裁判に意見書を提出した精神科医は、この行動を「思い出づくり行動の可能性もある」と述べている。過労によってすでにうつ病を発症していたのだ。この頃から、「自殺」という言葉が勇士さんの頭をよぎっていたのかもしれない。

 そして九九年の一月二四日から二月七日まで、勇士さんは一五日連続で一日の休みもなく勤務している。一五日間の連続勤務は平均約一一時間、長い日は一四時間にも及んだ。しかも、指導してくれる社員がいなかった日も三日あり、指導員が勇士さんをたった一人残して退社していた日も三日もあった。母親はこの頃の勇士さんからの電話に「悲鳴に近い感じの印象」を受けたという。

 二月、東京の母親の家に戻った勇土さんが体重を計ると、ニコンで働く前は六五キロあった勇士さんの体重は五二キロになっていた。母親はショックで声も出なかったという。この日、勇士さんは母親に「もう辞めてくるから」と告げた。

 二月二三日、勇士さんはネクスターに退職を申し出る。その日、母親には明るい声で電話が入っている。退職の意志を告げたことでよほどの解放感があったのだろう。

 しかし、ネクスターはすんなり退職を認めなかった。勇士さんは不安に駆られながらも母親に「明日の夜勤でニコンから話があると思うから、そのとき、自分の気持ちをはっきり言うから。次の仕事は就職雑誌で、よく研究するから」と話した。

 次の日、夜勤に行く前の勇士さんはニコンから話があると思い、母親に今後の話──引っ越しにあたっての荷物の送り先や車の免許取得、雇用保険に関してなど──話している。

 しかし、その日、ニコンから話はなかった。ネクスターからは「ニコンには絶対直接いわないで」ときつくいわれているのでニコンにいうこともできない。

 二六日から、勇土さんは会社を無断欠勤し始める。ニコンは勇土さんのアパートに電話をかけたが繋がらない。しかし部屋に行くなどの対処はしない。母親が何度も電話を入れるものの連絡がとれないまま数日が過ぎる。そして三月三日、勇土さんから退職の申し出を受けたネクスターの社員が、ニコンの社員にそのことをやっと伝える。また、そこでネクスターの社員は、勇士さんがずっと無断欠勤していることを初めて知る。が、やはりなんの対処もしない。

 三月七日、母親は、昨日が自分の誕生日だったので「昨日五〇歳になったよ!」と勇士さんの留守電に入れた。しかし、相変わらず勇士さんからの連絡はない。心配になった母親は三月一〇日、ネクスターに連絡。その日、アパートを訪れたネクスターの社員によって、首を吊って亡くなっている勇士さんが発見された。

 首を吊ったのは、自殺前、「健康のため野菜をとる」と買ったホットプレートの電気コードだった。部屋のホワイトボードには「無駄な時間を過ごした」と書かれていた。

 死亡推定日時は、三月五日とされた。母親が誕生日を知らせる留守電を入れたときには、すでに勇士さんは息絶えていたことになる。

 そして勇士さんが亡くなってから約一年後の〇〇年三月一六日、同じくネクスターからニコンに送り込まれ、勇士さんと同じく二交替勤務をしていた二六歳の男性、K・Tさんが虚血性心疾患で死亡した。第二の犠牲者だ。
(雨宮処凜著「生きさせろ!」太田出版 p160-166)

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◎「工場制度のなかではじめて温室的に成熟した社会的生産手段の節約は、資本の手のなかでは……」と