学習通信080109
◎対話が成り立つかどうか、それが説得力をきめます……

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 どうもウダツがあがらない。伸間からの受けがよくない。それは自分の話がつまらないからではないか。自分の話が説得的でないからではないか。そんなふうに思い悩むことはないでしょうか。

 確かに説得力に欠けると、そんな目に遭うようになりました。これからますますそうなっていくでしょう。

 逆に「話術だけはまかしてくれ」と、慢心していると取り返しがつかなくなります。というのは、説得は口先ですむことでなく、ますます話の中身のあり方が問われるようになってきたからです。

 サラリーマンは、説得力に欠けるようでは、昇進を期待することができなくなっています。別にこれはオドカシではありません。ホントウにそうなりました。

 いまや世の中は忙しくなりました。つまらない話など聞いていられません。話の始まりの一五秒で聴衆の心をつかまなければ、席を立たれてしまいます。そのあとどんな有り難い話を用意していたとしても、聴衆がいなくなれば、話し手は手も足も出ません。

 その点は、若い人ほど、はっきりしています。大学の大教室での講義などでは、学生は、この教授の話はおもしろくなさそうだと判断すると、教授がどう思うかはお構いなしにさっさと出て行ってしまいます。

 教師を選ぶ自由がない小中学生は、教室から逃げ出さないかわりに、話がつまらなければ私語をし、騒ぎだし、ついには学級崩壊となります。それは生徒のほうのタチが悪くなったというよりも、生徒をひきつけるだけの説得力をもたない教師のほうに責任があります。かつては生徒が我慢していましたが、いまでは気持ちのままに反応するようになっただけのことです。

 企業のミーティングなどでは、上司の話がつまらないからといって部下の社員が席を立つことはないでしょう。しかし、彼らの心のうちは、つまらないと感ずる講義にたいする学生の反応とまったく同じです。

 彼らは耳を傾けているふりをしているだけです。それに気づかないとすれば、上司として失格です。部下はやる気をなくし、業績もあがらず、いずれ社長の、その上司にたいする評価もさがること請け合いです。

 なぜ説得の成否が初めの一五秒できまるのでしょうか。そのわけは、早い話が、テレビのコマーシャル(CM)が教えてくれます。

 いやCMは特別だと反論されるかもしれません。しかし、実はテレビが登場するはるか昔からそうなのです。

 たとえば音楽がそうです。日本民謡の江差追分だろうが、モーツァルトのピアノ・コンチェルトだろうが、初めの一五秒ぐらいの間に、何となくひきこまれて、そのあともつい聴いてしまうわけです。そのために音楽は、初めに魅力的なメロディーで聴き手をひきつけ、あとはそれを聴き手が予想もしなかったように変奏していく構成に昔からなっていました。

 急いでここで付け加えておくべきですが、曲の終わり方も音楽の説得力を左右します。いや、終わり方のほうが初めよりもさらに説得力のためには大切です。普通の人は、聴き終わったとき、曲の初めから、途中の展開、そして終わり方までのすべてを憶えているわけではないでしょう。印象に残るのは、曲の出だしと曲の終わり方、とくに聴き終わったときの余韻です。最後に耳に残っている響きがよいと、機会があればまた聴いてみたい、となるわけです。つまり、話でいえば、最後のしめくくりで何をどんなふうに言うかで、話が説得的かどうかがきまります。

 絵でも同じことが言えます。美術館などでたくさん絵がかかっている場合、お客さんの動きで、それぞれの絵にたいする感じ方の差異、つまり、お客さんにたいする絵の説得力の違いの度合いがわかります。

 ひと目でひかれない絵の前は、一五秒経つどころか、二、三秒でさっと通り過ぎてしまいます。一五秒以上お客さんがたちどまるようであれば、その絵はお客さんには何かピンときたのです。そのあとしばらく絵を見つめています。そのときの表情は、絵と対話しているような、また、何か自問自答しているかのようです。そして、その絵がお客さんにとって説得的であればあるほど、うしろ髪をひかれる思いで立ち去りかねて、事実その絵をふりかえって見たり、どうかするともどってきたりします。

 このように絵でも、最初の一見で観る者をひきつけるかどうか、そして絵と観る人の心のなかでの対話が成り立つかどうか、それが説得力をきめます。絵との対話にひとまず切りがついて、つまり、最後に何か絵から与えられるものがあって、それでお客さんは満足して去っていくわけです。
(赤木昭夫著「説得力」生活人新書 p8-11)

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 観客を口説くのに一番大事なのは、私の経験では「間」です。マとよみます。マが良いとか、マが抜ける、とかの間です。観客口説きの成功の可否には、間の良し悪しがそのすべてではないにしても、間の悪い芸能人はとても口説き上手にはなりえません。

 間は普通、役者同土の間、あるいは演奏者と歌い手の間、というふうに使います。つまり一人または複数の演者のセリフ・シグサ・演奏などの間に生まれる時間的な空白と理解して使われているようです。たとえば、役者Aがセリフを言い終わったあと、役者Bがどれだけの時間をおいて次のセリフを言い出すか。音楽の演奏で、フェルマータをどれだけとるか。具体的にいえばそんな場合に間という言葉が登場するようです。

こんなふうに、間は舞台の上の演者同士の時間的な空間を指して使われることが多いようですが、私は実はもっと大事な間が存在するのだと思います。それは、演者と観客との間、舞台と客席との間です。

 どだい芸能、とくに芝居や落語などの話芸では、その芝居や落語は舞台の上だけで作られていくものではありません。客席と舞台とが一つの世界になってはじめて作り上げられます。「イキが合う」といいます。演者と観客のイキが合って、芸能・演劇という不可思議な空間が生み出されるのです。そのイキを差配する一番重要なもの、それは間違いなく「間」です。演者と観客との微妙な「間」です。

 話を簡単にするために、この後しばらく演劇の場合に限って考えていきます。私は演劇は、とくに東西を含めて古典と呼ばれる演劇は、何人かの人たち、複数の役者・演奏家・歌い手などが、それぞれのパートを分担して、一つの物語を共同で語っているのだと思います。つまり「語りもの」です。そして語りかけられるのは、もちろん観客です。

舞台上の人たちは、常にお客に対して語りかけているのです。それが、たとえば役者AとBとの会話であっても、Aは直接Bに話しかけているのではなく、Aの発するセリフはまずお客のところへ届きます。するとお客はそれに反応して、その結果を舞台の上のBへ返送します。と、Bはそれに応えて、つぎなるAに応えるセリフを、やはり直接Aにではなく、お客に向かって送る……。その繰り返しによってAとBとの会話が成り立っていくのです。これを舞台と観客とのキャッチボールと名づける人もあります。巧い命名です。キャッチボールですから、セリフはもちろん、シグサだって観客に向かって演じるのが本当でしょう。

歌舞伎にしろ能にしろ狂言にしろ、そしてオペラにしろ、ポイントとなるべきセリフ・歌・シグサは、すべて客席に正対して演じられるのはその証(あかし)ではないでしょうか。日常性を追求するいわゆる新劇の舞台でも、クライマックスに達すると、舞台上の本当の相手ではなく、筋とは無関係の客席に向かって絶叫する俳優たちの姿をご覧になったお客は多いことだと思います。

 これを反対の側から考えてみましょう。観客の方です。良い芝居、優れた舞台にするためには、彼らはキャッチボールの良きパートナーでなければなりません。私はしばしばお客さまに「今日の舞台を素晴らしくするのもしないのも、半分は皆様の責任ですよ」と、半ば冗談ぽく、しかしほとんど本気で申し上げます。お客の正しい反応が良い舞台を作り上げる必須の条件なのです。正しい反応というのは、その芝居の制作意図や演出意図を正確にキャッチして、役者たちが捕球しやすい球を舞台へ投げ返すことです。

もちろんそれにはまず演者達の正しい演技が先決であることは言うをまちません。送り出す球がフラフラッとどこへ転がっていくかわからないようでは話にもなりませんから。

しかしそれだけでは実は不十分なのです。その球を確実に捕球し正確に舞台へ返球できる、そんな間を観客がもてるようにしなければキャッチボールは成り立ちません。そして、その間の提供者はこれもまた演者その人です。

 ではその「間」をつくりだすにはどうすれば良いか。私の体験からは、お客の生理状態を演者と同じ状態に置くことだというのが結論です。

 突然、生理状態という言葉が出てきましたが、演劇にとって知性・理性・感性などと同等に、ときにはそれ以上に肉体的生理状態が、その芝居の成否を決定づける重要な要素になります。古典演劇では、昔の役者たちの経験と観客の反応のなかで、圧縮され様式化された表現のスタイルが伝承されていて、それを「型」と呼んでいます。たとえば能で悲しみを表す際に手のひらを顔の前面にもってくる「シホル」と称する「型」などがその典型です。

狂言を含む古典演劇は、その戯曲の解釈や表現意図などより、それぞれの演目ごとに細かく伝承されてきた型を正確に表出することから芝居作りが始まります。そこでは心の状態よりも、そのとき、その瞬間の人間本来の生理状態を、たとえば前記の「シホル」型をするときには、悲しみに沈むときの普遍的な生理状態を、意識的に自分の肉体で作り上げる(これができなければ役者とは言えません)ことの方がまことにまことに大切です。

古典演劇では、外形的な形さえ正確に表現できれば、自ずと内的な精神状態が生まれると思われがちですが、それに内的な生理状態が伴わなければ、そうやすやすと喜怒哀楽が表現できるものではありません。生理状態さえ正しく作り出せれば、前の例についていうと、悲しいときの生理状態が随意に作り出せれば、心理的に自ずと悲しい気持ちになっていくものです。

 そして、演者と観客のキャッチボールを成功させるためには、観客を演者と同じ生理状態におくことが必須です。演者が悲しみの球を客席へ投げた時の演者自身の生理状態と、できるだけ同じ生理状態に観客を導いておくことです。そのためには唯一無二の方法があります。それは「呼吸を詰める」という技術です。

簡単にいうと呼吸を止めることです。呼吸をしないことではありません。自意識で呼吸を止める、そのためには横隔膜を緊張させて、言い古された言葉で言えば「お腹に力を入れて」グッと呼吸を吸って、その瞬間に止めることです。そうです。「手に汗を握る」「固唾を飲む」あの状態です。その呼吸を詰めた状態のままで、セリフを言い、シグサをする。こういう状態で芝居を続けていくと、不思議なものでお客をして演者と同じように呼吸を詰めた状態にすることができるのです。

これが巧く成功しますと、お客は悲しみの球を受けたとき、すでに涙ポロポロの寸前にあります。問題はこれからです。その詰めた呼吸をいつ吐くかです。吐くまでの「間」です。

 と思わせぶりに言いましたが、これからあとはいわゆる「曰く言い難し」です。ヒントだけ言えば、すぐに吐いてはいけないということです。すぐに次の演技に入ってはいけないということです。もう少し具体的に言えば、お客が悲しみに耐え難くなる、涙を抑え切れなくなる、その瞬間をまつのです。

しかし、その間は数字的に何分の何秒などと割り切れるものではありません。その日、その場によって変わってきます。それはもう、役者の経験と感性にまつより他はありません。つまり今度は役者がお客の投げ返す球を捕球する番なのです。その球の種類を瞬時に正確な感性をもって受け止めて、次なる球を客席へ投げ返すのが役者のつとめなのです。これをやらないと、この間をもたないと、せっかく作った劇場に充ち充ちた悲しみの雰囲気を、瞬く間に泡のごとくに消滅させてしまうでしょう。

 悲しみの場を例にあげてきましたが、笑いの場でも、いや、悲しみの場よりも、もっともっと笑いの場ではこのことは重要です。笑いの場合は、笑い出したお客に笑う時間をとってあげなければなりません。その間を計らずに次の演枝に入りますと肝心の次の演技が死んでしまいます。といって、お客の笑いが静まるのをまち過ぎるとシラッとした空気になってしまって、それまでの舞台までが空虚になってしまいます。

 男と女の口説きの話をしましたが、考えてみると芝居でお客を口説くのも、男が女を、女が男を口説くのも、本質的にチッとも変わらないようです。どちらも相手の様子を精一杯観察しながら、つまり適正な間をとりながら、虚々実々の駆け引きを演じているのです。口説きが成就したときの快感もまた同じです。男の口説きの場合なら、よくぞ男に生まれけるというところでしょうか。女の場合、私にはわかりませんが、あるいはそれ以上かも知れません。

しかし確かなことは、役者が、芸能人が、お客を口説きおおせたときのエクスタシーは、男女間の比ではとうていありません。何しろ相手が何十人、何百人、ときには何千人なのですから……。それこそ、よくぞ役者に生まれける、というところです。そんなとき、「三日やったら役者は止められない」という俚諺(りげん)を、ひしひしと実感することです。
(茂山千之丞著「狂言じゃ 狂言じゃ」文春文庫 p29-35)

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教えて おしえて
番外編

「人前で発言することが苦手です。上手に話すコツを教えて」(9月22日)に寄せられたアドバイスをまとめて紹介します。

あなたの生きた言葉で

 ○結論から枝葉ヘ
 先に言いたいことを端的に言います。そして時間に応じて、肉付けをしていけば、支離滅裂になることはありません。

 〇センテンス(文)は短く
 「〜です」「〜と思います」と、短く一文一文言い切ることです。「〜で〜して」と長々と続ける人がいますが、大変しゃべりにくく、聞いている方もしんどくなります。

 〇ゆっくりと大きな声で、
 公での発言になれていないと、言葉が先走ってしまったり、逆になかなか言葉が出てこなかったりします。その場合は、頭の回転のスピードとしゃべりのスピードを一致させることです。一語一語かみしめるよ
うな意識です。大きい声は、自信を持って聞こえます。

 〇下書きをする場合は個条書きで
 作文を作ってしまうと、必ず読んでしまいます。せっかくの意見も死んでしまいます。あなたの生きた言葉で伝えてください。
(京都・向日市 柴田 直37歳 アナウンサー)


 要点をメモにして

 自分が言いたいことの要点をメモして話すのがいいと思います。ふつうの会話と違い、人前で話すということは、緊張しますし、だれでもあがるものです。

 メモを手に話すと、言いたいことのみを話せるし、余分なことは言わないですむし、私は効果的だと思っています。おすすめです。

 メモが目立っていやなときは、下の方に隠して話せます。メモは厚紙に見やすく太いペンで。
(茨城・能ケ崎市 木村孝子 68歳)


うまく話そうと
思わないこと

 うまく話そうと思わないことです。絵手紙と一緒、下手でいい下手がいい、でいいじゃないでしょうか。

 うまく話したいと思うとあがります。ぼくとつに話される方には真剣に耳を傾けます。聞かそうって思わず、肩の力を抜いてね。
(石川・金沢市 松田 順子52歳)


 習うより慣れろ

ア、慌てない、あせらない(緊張しないために)
イ、いろいろな発言を整理する(聞き上手になる)

ウ、うまく話そうなどと思わない(ボソッとした一言だって金のことがある)

工、枝葉は言わない(話のプロではないことに徹すべし)

オ、落ちを一つ。これでしめる。共感した人の発言をお名前と一緒にいただく。自分で考えないから楽!

 現在、老人性難聴で補聴器使用中だが、集会には参加し、発言もしている。まず「習うより慎れろ」。マイク宣伝など、言いっぱなしだから、一番簡単。
(東京・足立区 平野千世子)
(「赤旗」2007)

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◎「自分が言いたいことの要点をメモして話す」と。