学習通信080111
◎「春闘」から春の討論としての「春討」へ……

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今、近年まれにみるほど「労働組合」が注目を浴びています。新聞をみれば、毎日のように「格差と貧困」「ワーキングプア」などの言葉がおどり、労働組合の存在に光があてられています。テレビ・マスコミ各社や雑誌でも、3300人集まった5月20日の全国青年大集会を大きくとりあげ、人間らしく働くことを奪われた「非正規」「派遣」「偽装請負」などの存在に警鐘をならしました。夏の参院選で自公与党が大敗して以来、日本経済の矛盾と「構造改革路線」の破綻を誰も疑うことはありません。

 今の日本は岐路に立たされています。「格差と貧困」が蔓延し大企業と一握りの投資家だけがぼろ儲けする日本か、それとも「もうひとつの日本」を実現する道か、選択が迫られています。この日本を変える「舵」を握っているは、主権在民が憲法に謳われているように国民自身にあります。政治の舵をまともな方向に切るためには、国民世論を動かしていくことがなにより重要です。特に注目すべきは、日本国民の人口比で、働く人の8割以上が労働者層だということです(自営業種11%、農林漁業4%、資本家3%弱)。更に働く若者の2人に1人が非正規です。私たち、たたかう労働組合の存在意義が特別重要なのは、まさにここにあります。

 春闘とは、「日本で労働組合が毎年春に合わせ、賃金要求を中心に可能な限り、交渉時期、戦術を統一し、全国的に取り組む統一闘争のこと。1955年、当時のナショナルセンター・日本労働組合総評議会(総評)のもとで始まった。(全労連青年部HPより)」とあるように、働くものの願いをいっきに引き寄せる大切なたたかいです。私たち青年も、このチャンスに立ち上がり、要求実現に踏み出しましょう。
(全国労働組合総連合青年部 08年春闘方針から 2007年12月15日)

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労使交渉・協議に向けた経営側の基本姿勢

 5年前、日本経団連は、春の闘いとしての「春闘」から春の討論としての「春討」への変化を指摘したが、この流れは近年、とみに強まっている。

 春討においては、賃金のみならず、人事・賃金制度や労働条件に関するさまざまなテーマが労使間で話し合われている。今次の春季労使交渉・協議においては、日本型雇用システムの変化の現状を踏まえ、生産性に見合った人件費決定と、ワーク・ライフ・バランスの実現が課題となろう。

 なお、企業経営の基盤は労使の信頼関係にある。特に、企業成果の分配交渉でもある春討において、このことは重要な意味をもつ。企業内組合や企業内の従業員代表組織などを中心として、各企業の実情を踏まえた十分な話し合いが望まれる。
(「2008年版 経営労働政策委員会報告」(社)日本経済団体連合会 p29-30)

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 春闘のはじまりと歴史的経過

 次は、春闘のはじまりと歴史的経過ですが、春闘をはじめた総評は一九五〇年に生まれたものです。若い方もおられますからちょっとその問の経過をいっておきます。戦後、日本の労働組合運動は総評からはじまったのではありません。戦後の一時期、産別会議といいまして、階級的ナシナルセンターといまの同盟の前身である総同盟というナショナルセンターと二つありました。

 その総同盟と階級的ナショナルセンターであった産別会議とが一緒になって全労連というのがあったのです。

 戦後の一時期、日本の労働組合の組織労働者はゆるやかではありましたが、統一していました。一九五〇年に朝鮮戦争が起きましたが、その前後にアメリカ占領軍と日本の反動勢力は日本共産党にたいして大弾圧を加え、党の中央委員を追放したり、「赤旗」の発行停止、さらには企業のなかの共産党員をいわゆるレッドパージしました。また全労連を解散させ、産別会議を弾圧して、分裂させるという戦後、類のない大弾圧をおこなったのです。

総評の結成、ニワトリからアヒルヘ

 そして一九五〇年の暮れにアメリカ占領軍の直接の援護のもとにいまの総評がつくられたのです。だから生まれた時の総評は朝鮮戦争でアメリカ軍──これは国連軍といっていたんですけれども──を支持するということを正面に掲げた組織でした。アメリカ占領軍の援護のもとに、共産党を弾圧し階級的労働組合を分裂させて生まれたのが総評だったのですが、これがだんだん変わってきて、ニワトリからアヒルに変わったというふうにいわれてきます。

ニワトリからアヒルに変わったという意味は、外国ではアヒルというのは醜い動物になっているのです。ですから「ニワトリだと思ってつくったのが、いつの間にやらアヒルになってしまった」と占領軍のある報道官が言ったということから──語源はたしかではありませんが──この表現が生まれたのだとある歴史学者が言っていました。

 結成の明くる年、第二回の総評大会の時に、総評の執行部が国際自由労連──これはアメリカ帝国主義の政策に追随し、協カしていた国際労働組合組織ですけれども──に一括加盟を提案して、これが大会で否決され、またこの大会では平和四原則というものを打ち出しました。つまり、ちょうど戦後の占領が終わりかけ、講和問題がおきた時期、つまり全面講和をやるのか、アメリカと日本の単独講和なのかという講和問題をめぐって大きな議論になっていた時に、総評はアメリカとの単独講和には反対だ、全面講和をやらなければいけない、中立の堅持、軍事基地には反対だ、再軍備には反対だという平和四原則というのを打ち出したわけです。そういうふうにだんだんニワトリからアヒルに変わってゆきました。

 それから一九五三年には、古い方はご存じだと思いますけれども、三井鉱山の労組が英雄なき一一三日のストライキ≠おこないました。これは一八〇〇人の指名解雇が出たのですが──当時、日本の首切りは全部指名解雇でありましたから──その指名解雇に反対して一一三日間のストライキを打って指名解雇を撤回させたという争議です。

 こういう状況のなかで、いま同盟の中心組合になっている海員組合だとか、ゼンセン同盟などの四つの組合が、総評は結成時の労資協調路線の精神を忘れている、そんな総評といつまでも運動はできないといって、総評を脱退し、全労会議なるものを旧総同盟と一緒になってつくりました。これがいまの同盟の土台です。

 そういうふうに総評はガタガタしながらも、しだいに左へ左へ変わらざるをえないという状況になってきました。しかし、そうなっていても絶対に社会党系指導部が固執したのは「特定政党支持」の義務づけ問題です。「特定政党支持」の義務づけは反共主義と結びついているものですが、これが今日の総評の右転落の原因となっています。総評が一定の進歩的な方針を打ち出したときでさえ、反共主義を明記した結成時の綱領は変えませんでした。

 ところで、総評は一九五五年になってはじめて春闘というのをはじめました。一九五五年といいますと、日本経済が戦後の荒廃からだんだん立ち直って復興過程にあって、「高度成長」期のはじめの段階に突入する時期です。この時の総評の事務局長は高野実という人でした。

路線論争と春闘のはじまり

 当時の高野事務局長は、独占が復活強化する過程では、個別企業のたたかいだけでは労働者の労働条件は改善できない、だから地域的に国民と一緒になって運動をすすめる必要があるという、いわゆるグルミ闘争≠打ち出しました。これにたいして太田薫さんは、独占資本とのたたかいは、そうじゃなしに産業別統一闘争を軸にして、労働者が団結して賃金闘争をおこなうべきであるという主張をとなえ、有名な高野・太田論争があり、決着がつかないものだから、この年の総評大会では太田さんが総評事務局長に立候補したのです。大会では高野さんが一四〇、太田さんが一〇七票だったそうですが、わずかの差で太田さんは負けたわけです。

 その明くる年に、今度は岩井章さんが立候補して高野さんと争い岩井さんが勝ったのです。それで太田・岩井ラインというのが生まれて春闘がはじまった。もちろん太田さんが言うのも一理あるし、一面、当時は経済主義じゃないかという批判もありましたし、高野さんのほうは少し政治主義じゃないかという批判もありましたけども、いずれにせよ、そういうはげしい路線論争があって、一九五五年に八つの組合が共闘をくんで春闘がはじまるわけです。

 この春闘の最初の年には、合化労連などは賃上げストップの攻撃のなかで、一三〇〇円から二〇〇〇円ぐらいの賃上げ──パーセンテージでいいますと当時一〇パーセントを獲得して、しだいに総評の春闘は盛り上がってゆきました。いまの鉄鋼労連しか知らない若いみなさんは驚かれるかと思いますけれども、一九五七年には鉄鋼労連が一〇月八日から一〇月三〇日までなんと一一波のストライキをおこなったのです。いまでは考えられないような闘争でした。これだけストライキをやってもゼロ回答を粉砕することはできませんでしたが、当時の鉄鋼労連といまの鉄鋼労連とは格段の違いがありました。

 ストライキは、労働者が団結を誇示し生産を止めることによって資本に打撃を与える戦術ですが、同時にレーニンは、労働者がストライキをおこなうことによって、生産の主人公は資本家ではなく労働者であるということを知るのだというストライキの意義を強調しています。

 労働者が団結をしてストライキをおこなうと、生産は止まります。労働者なしに生産はできない、生産の主人公は資本家ではなく、労働者である、次の世代を担う階級は労働者階級なんだということを、このストライキ闘争を通じて労働者は身につけることができるのだと強調しているわけです。いまはそのストライキ闘争が鉄鋼をはじめ大手の民間企業には全然ありません。だから民間大企業の多くの労働者はストライキを経験したことがない、このことも労働者の階級的、政治的自覚を阻害している一つの要因だと思います。

国民春闘への発展とその背景

 ところで、一九六二年には鉄鋼労連がストライキ闘争をおこない、当時の額で一八〇〇円の一発回答を押しつけられ、それ以後、鉄鋼労連はだんだん右傾化し、IMF・JC(金属労協)を結成して、独占資本の「管理春闘」=賃金抑制政策に協力し、次第に春闘全体に否定的影響を与えてきます。一方、総評は鉄鋼労連を中心とした右寄り路線を抱えながらも、次第に春闘については戦闘的な方向をしめしてきた。それが七四年の国民春闘です。それまでの春闘と国民春闘との違いはどこにあるかといいますと、総評は国民春闘というのは反独占国民生活擁護闘争だと強調しました。

 七四年というのは、石油ショックの問題と結びついてものすごいインフレになっていたわけです。トイレットペーパーがなくて大騒ぎした時代です。国民の生活破壊は深刻でした。こうした状況のもとで、賃上げ闘争だけでは、生活は守れない、国民との連帯が必要だとして国の政策や制度にたいして労働者、国民の要求を対置してたたかう方向に春闘を発展させてゆかなければならない、そういう方向を総評は打ち出したのです。たとえば年金の改善だとか、その他社会保障の要求もそうですが、そういう要求を掲げてたたかう。それを国民春闘というふうに総評は名づけたわけです。

 当時の一般新聞を読んでみましたら、つぎのようにいっています。「本格的なインフレ闘争となると、企業別労組の能力には限界があるし、賃上げ闘争の片手間に物価、住宅、年金などの運動をやっても大きく前進するわけがない。ナショナルセンターの指導のもとに、市民団体、消費者団体と連携して、総ぐるみの国民運動に発展させられるかどうかがカギとなるだろう」。

 このように国民的な世論は、労働者に企業ごとの賃上げだけをやるのではなしに、国民の生活がこれだけ圧迫されているのだから、もっと広い視野に立って春闘をとりくむべきじゃないか≠ニいう声があがっていました。

 この年には政党のほうも、共産党、社会党、公明党が加わり、総評、中立労連、新産別、その他婦人団体など、二六団体が集まって「インフレ阻止、物価値上げ反対、生活危機突破国民運動連絡会」というものをつくり、国民生活防衛のための闘争を展開しました。その結果、戦後最高の三二・九八パーセントの賃上げを獲得したのです。このように日本の春闘は八つの組合からはじまった賃上げ闘争が、しだいに発展して、一九七四年には国民生活を防衛してゆく国民春闘という方向にまで発展しました。

政府、独占の八○年代戦略に呼応した「春闘」路線

 しかし春闘は、八〇年前後からだんだん変わってきました。日本の経済が「高度成長」から「低成長」へ移行したといわれるように、諸矛盾が非常に激化してきたのです。国の財政も赤字公債の発行にしめされるようにきわめて困難な状況に直面しました。

 政府や独占資本は八〇年代戦略という構想を打ち出してきました。それは現在の経済情勢の困難さを打開するために、「高度成長」政策からきた諸矛盾を労働者と国民に全部シワ寄せをしてしまい、あたらしい搾取と収奪の体制を強めようとするものでした。そのためには何よりも賃上げを阻止し、減量経営という名によって人べらし「合理化」を強行する、それから、財政危機を救うためには「行革」をやらなければいけないといって、福祉の切り捨てを強行する。産業構造の再編成も先端技術産業は育成するけれども、構造的不況産業は整理してゆくというやり方で「合理化」をすすめてゆく。

 しかも、国家財政が悪化してゆくなかで、軍拡路線、軍事費を増大してゆく、それがいっそう国民収奪に拍車をかけ、同時に民主主義にたいする攻撃、政治反動を強めてゆくというやり方を八〇年代戦略ということですすめてきました。これにいち早く同盟が協力する方向をとり、日本は「西側の一員」として軍備も必要である、日米軍事同盟も堅持することが大切だ、賃上げは自粛しなければならないといったような方向を打ち出しました。

 社会党が社公政権構想に賛成し、右転落路線を歩みますが、これは、じつは総評の幹部の推進によるものでした。社公合意というのは、共産党とは縁を切ること、安保、自衛隊は容認するというものです。これは社会党が自民党との連合を政策的に準備したものといえます。だから、こんどの「新宣言」は八〇年の社公合意路線を完成させたものといってよいでしょう。

こうした社公政権合意路線を推進するということは、たんに政治戦線の問題だけではなしに、労働組合運動に直接影響してきます。なぜならば、安保条約を支持するということは、戦争と侵略の側に立つということですし、また資本主義を維持するための反動勢力の最大の武器は反共主義ですから、この反共主義の立場に立つということは、もっとも鋭い形で体制擁護の立場に立つということです。

 こうして、当然のことながら、もはや労働者の利益を守るための春闘ではなくなりました。日本の独占資本、反動勢力の政策を阻害しない範囲内での労働運動、阻害しないだけではなしに、反動政策に協力し、推進してゆく役割すら果たす春闘に転落してしまったということもいえると思います。

 たとえば七九年に、総評、同盟、中立労連、新産別の労働四団体で決まった賃上げ額が八パーセントでしたが、それ以来、総評は、同盟が許容する範囲内である労働四団体の賃上げ額を要求の基準にするようになりました。つまり、総評も同盟と同じように賃上げ自粛の立場に転落してしまったのです。
(荒堀広「春闘と日本の労働戦線」講義労働学校 新日本出版社 p169-177)

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◎「日本の春闘は八つの組合からはじまった賃上げ闘争が、しだいに発展……一九七四年には国民生活を防衛してゆく国民春闘という方向にまで発展」と。