学習通信080115
◎真の意味で有効策となるものではない……

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 国際的に長いとされてきたわが国の総実労働時間(製造業・生産労働者)は、米英とほぼ遜色のない水準にある。また、就業形態も変化しており、短時間従業員も増加している。そうした中、1980年代末から1990年代にかけて進められたようにフルタイム従業員を前提に、法により一律に労働時間の短縮をはかることは、ワーク・ライフ・バランスの実現にとって真の意味で有効策となるものではない。
(「2008年 労働政策委員会報告」日本経済団体連合会 p43)

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 機械設備が資本の手中で生み出す労働日の無際限な延長は、すでに見たように、のちにいたって、その生命の根源をおびやかされた社会の反作用を引き起こし、それとともに、法律によって制限された標準労働日をもたらす。

標準労働日を基礎として、われわれがすでに以前に出会った一現象が発展し、決定的に重要なものとなる──すなわち労働の強化がそれである。

絶対的剰余価値の分析にさいしては、まず第一に、労働の外延的大きさが問題になり、労働の強度の程度は与えられたものとして前提されていた。

いまや、われわれは、外延的大きさから内包的大きさまたは大きさの程度への転換を考察しなければならない。

 機械制度の進歩と、機械労働者という独自な一階級の経験の積み上げとにつれて、労働の速度、したがってまた労働の強度が、自然発生的に増大することは自明である。

こうして、イギリスでは、半世紀にわたり、労働日の延長が工場労働の強度の増大と相ならんで進行している。

とはいえ、一時的な発作でなく毎日繰り返される規則的な画一性が重要である労働にあっては、一つの結節点──すなわち、労働日の延長と労働の強度とが相互に排除し合い、その結果、労働日の延長が労働の強度の弱化とのみ両立し、また、その逆に、強度の増加が労働日の短縮とのみ両立する結節点が、確かに生じるに違いない。

労働者階級のしだいに増大する反抗が、国家に強制して、労働時間を強権によって短縮させ、まず第一に本来的工場に標準労働日を命令させるやいなや、したがって、労働日の延長による剰余価値の生産の増大がきっぱりと断ち切られたこの瞬間から、資本は、あらゆる力と意識とをもって、機械体系の加速的発展による相対的剰余価値の生産に没頭した。

それと同時に、相対的剰余価値の性格に一つの変化が現われる。

一般的に言えば、相対的剰余価値の生産方法とは、労働の生産力の増大によって、労働者が同じ労働支出で同じ時間内により多く生産することができるようにすることである。

同じ労働時間は、相変わらず、総生産物に同じ価値をつけ加える──ただし、この不変な交換価値は、いまではより多くの使用価値で表現され、それゆえ個々の商品の価値が低下するのであるが。

とはいえ、労働日の強制的短縮が、生産力の発展と生産諸条件の節約に巨大な刺激を与えるとともに、同時に、労働者にたいして、同じ時間内における労働支出の増加、労働力の緊張の増大、労働時間の気孔充填のいっそうの濃密化すなわち労働の凝縮を、短縮された労働日の以内でのみ達成されうる程度にまで強制するにいたるやいなや、事情は一変する。

与えられた時間内へのより大量の労働のこの圧縮は、いまや、それがあるがままのものとして、すなわちより大きい労働分量として、計算される。

「外延的大きさ」としての労働時間の尺度とならんで、いまや、労働時間の密度の尺度が現われる。

一〇時間労働日中のより集約的な一時間は、いまや、一二時間労働日中のいっそう粗放な一時間に比べて、同じか、またはより多くの労働すなわち支出された労働力を、含んでいる。

それゆえ、その一時間の生産物は、粗放な一1/4時間の生産物に比べて、同じかまたはより多くの価値をもっている。

労働の生産力の増大による相対的剰余価値の増加を別とすれば、いまや、たとえば、六2/3時間の必要労働にたいする三1/3時間の剰余労働は、以前には八時間の必要労働にたいする四時間の剰余労働が与えたと同じ価値量を、資本家に与えるのである。
(マルクス「資本論」新日本新書B p707-709)

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◎「労働者階級のしだいに増大する反抗が、国家に強制して、労働時間を強権によって短縮させ」と。