学習通信080121
◎「自転車は歩道を走るという常識」……
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風ぐるま
警察庁と国土交通省は十七日、自転車や歩行者の事故防止に向け、駅前周辺や通勤・通学路など全国九十八地区(区間距離約百三十二`)をモデル地区に指定しました。
▽……自転車道は幅二b以上で、柵や縁石で車道と分離。専用通行帯は幅一・五b以上で、青色系にカラー舗装し、道路標識などでも分かりやすくします。
▽……自転車専用の道路を全国で計画的に整備するのは今回が初めて。モデル地区での事故発生状況などを検証し、整備地区を順次拡大したいとしています。
(「赤旗」20080118)
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道路は誰のものか?
この章は多少大袈裟に言うならば、二〇〇五年の四月に始まった、私の孤独な戦いのプロローグにあたる部分である。私はこの年の春のまだ肌寒い頃に、ある信頼すべき筋から次のような情報をキャッチした。
警察庁内部に前々から存在した「自転車はすべて歩道を通るべし」という勢力が、あろうことか「自転車は原則車道通行禁止」という法案を準備中だというのだ。
最初にこれを聞いて私は驚愕した。そして悲しくなった。そんな法案は、無論のこと自転車のためにならないし、日本社会のためにもならない。警察が何を考えているのか知らないが、どうしたってトンデモない話だ。
私は「バイシクルクラブ」「ファンライド」という二つの月刊自転車雑誌にそのことを書き、そのことは自転車業界にちょっとした衝撃をもたらし、主にネットの中でかなりの反響を呼んだ。
この章は、その発端となった記事と、それを集中連載で追った五本の特集記事で成り立っている。内容は前々から書きたい、調べたいと思っているものではあった。そして、結果として、私自身も様々なことを学んだ。自分のポリシーは正しいということを再確認することすらできた。
我ながらかなりクドいなと思う部分もある(これまでだっていい加減、クドいのに、それ以上のクドさ)。シツコい、ウザい、という箇所もあるだろう。だが、我々自転車乗りはこうした動きが起きないように、起きても対処することができるように、常にファイティングポーズをとってなくてはならないのである。
すべてのキッカケとなった月刊「ファンライド」誌〇五年五月号の記事が、次のものであった。
歩道に自転車を上げるって?(怒)
先日、ある信頼すべき筋から実に実にイヤなイヤなイヤーな話を聞いたのだ。
なんでも警察庁は「自転車は車道を通るべからず、歩道を通ること」という法案を作成中なのだそうだ。冗談? ガセネタだろうって? いやいや、彼らは本気だ。今通常国会ヘの提出は見送ったものの、早ければ来年、そうでなくとも再来年に提出、という。
目的は「交通事故による死亡者数を減らすため」。小泉総理の肝いりなのだそうだ。車道を走る自転車が危ないので、歩道に上げれば事故が減るだろう、というのだ。すでに殆どの自転車(つまりママチャリ)は、歩道を走っているだろう。ならば、それを法今化して車道から自転車を閉め出してしまえ、というのが新法のポリシーであるという。
思えば、前兆はあったのだ。三年ほど前、政府系の某会議に出たところ「交通安全協会(最も有名な警察庁天下り団体だね)理事」と称する人間から、私は直にこんな台詞を聞いたことがある。「車道に自転車レーン?
自転車は歩道を走ればいいじゃないですか。車道を走るのが原則とされているならば、その法律を変えてしまえばいいんですよ」
私は耳を疑った。バカを言ってもらっては困るのだ。
現在すでに色々な外国人たちから「日本の交通行政は野蛮である」と言われていることをご存じないのだろうか。この外国からの言葉には正義と整合性がある。何となれば、交通行政というものは必ず「弱者優先」を原則としているべきだからだ。歩道というものは、そもそも「歩行者の聖域」なのである。ある程度以上のスピードが出て、車輪があるモノが歩道を通るというのは、そもそも間違っているのである。実際に世界広しと言えど日本だけなのだ。自転車が歩道を堂々と走行しているのは。
だいたい自転車を有効活用し、地球環境と国民の健康に貢献せしめる、というのは政府(国交省、環境省など)が決めたポリシーではなかったのか。地球環境に資するためならば自転車を増やした分だけクルマが減らないと意味がないではないか。車道のクルマの量を減らす努力をしつつ、その代替としての自転車を考えないといけない局面だ、と、国交省ですらうたっているのだ。この法案は、国のポリシーとしても矛盾しているのである。
車道を我が物顔に排気ガスをまき散らしながら走行するクルマ。我々は日々その迷惑を被っている。車道が「クルマの聖域」になって久しい。でも私だってクルマの効用を否定するワケじゃない。であるが、過度のクルマ依存社会が、環境そして、交通システムに大きな弊害をもたらしているのは、もはや慢性的な事実であろう。だからこそ、クルマが担ってきた役割の一部を自転車に置き換えていく、それこそが世界的な潮流であり、先進国の義務であり責任であると思う。欧州はそこに向けて大きく動いているのだ。
そこに「自転車は歩道」である。バカではなかろうか。これは一言で言って、日本の恥だ。
歩道の自転車は必然的に速く走れないし、クルマの代わりにはなり得ない。歩道に自転車レーンを作ったところで、それは歩行者を脅かし、事故を増やすだけだというのは、これまでも害いてきたとおり。そうでなくとも歩道上の「暴走自転車」は問題になっているのだ。それを無視して「自転車は歩道」。単に動機とその成果ということだけを考えても、間違いだ。事故はむしろ増えるだろう。逆に「原付がもし歩道通行可だったら」という馬鹿馬鹿しさを考えてみればいい。なぜ「自転車のリスク」を歩行者の危険に押しつけるのか。なぜこの国には大きな意味での(つまり政策としての)交通道徳がないのか。
要するに、またしても、自転車に乗りもしないし、自転車のことを考えたこともない、有効に生かすなんて口ばかり、の、件の愚昧官僚どもの妄案なのだ。黒塗りの後席にふんぞり返って、最近メッセンジャーがチョロチョロ邪魔っけだなあ、とか思った課長(または局長でも何でもいいが)が「自転車なんて歩道を走ればいいだろが」と思いついただけなのである。これは私の推測だが、ほぼ事実だと思う。馬鹿者。おまえの方がクルマから降りろ。
そうでなくとも、メッセンジャーを見てこう思うのが本当ではないか。「おお、我が国の若者は頑張っているな、ワシもこんなクルマの後席に乗って、排気ガスを出して、税金使って楽して、すまんすまん。こちらが避けるよ。こちらが注意するよ。でも、ワシももう齢なんだから許してくれよ」と。それならば私だって目を瞑(つむ)ろう。しかし、そう思う警察高級官僚はいないのだ。
我々はこんな馬鹿げた法案には断固として反対すべきである。私はこれこそ、今、目の前にある本当の危機であると思う。まだ法案は提出されていない。あくまで水面下の動きだ。だが、警察庁という強大な官庁がいったん国会に法案提出すれば、それはほぼ確実に通るのだ。
その前に我々は「絶対反対なんだ」ということを打ち出すべきだと思う。本誌読者のような「自転車が趣味」という人以外の層にも訴えかけなければならないと思う。
警察庁が「いえ、何を言っているんですか。えへへ、我々はそんなこと考えてもいませんでしたよ」として揉み消しが可能なように(私ヒキタはこうして譲ってやるのだ。なかったことにしてやろうと思うのだ)、法案提出前の今。今から世論喚起と理論武装が必要なのである。
*とまあ、お読みになったとおりの多少感情的な記事だ。だが、放っておくわけにはいかない。「ファンライド」誌だけでなく「バイシクルクラブ」誌にも同様の記事を掲載しかすると「バイシクルクラブ」の編集長から「これは放っておくわけにはいかない、是非ともキャンペーンとはいかないまでも、読者の注意を喚起する記事を掲載できないか」との打診がきた。
そういうわけで翌月から「短期集中連載」としてスタートしたのが次から展開していく記事である。なぜ警察はかくも「歩道通行」に拘(こだわ)るのか、日本の道路はなぜかくも自転車の方を向いていないのか。次第にその全貌が分かっていくはずだ。
道路は誰のものか?@
そもそも「自転車は歩道」の根拠はどこにあるか?
まずは178ページの写真を見ていただきたい。「警察署」を名乗った看板に、堂々「自転車は歩道を通って下さい」と書いてある。読者諸氏はきっと「うわ、スゴいなぁ」と思うだろう。もちろんネガティブな意味でね。
ところが、これを見て違和感を感じる人は、一般的にはそんなに多いとは言えないのだ。現実として多くの自転車乗り(ママチャリ乗り)たちは、放っておけば普通に歩道を走っているし、本来、自転車がどこを通るべきかなんて考えてもいないから。
この看板を見て「そういえば最近、車道を走る危ない自転車がいるわねえ。若いからって無鉄砲ねえ」とオバさん同士で囁きあっているかもしれない。いやなに、必ずしも若い人だけとは限らないわけだが、まあそんなことはオバさんたちの与り知るところではない。
不思議なことだが、日本では「自転車は歩道を走る」という「常識」が一般的となり、それを警察が追認しているという現実がある。いや、追認だけでなく、警察はむしろ積極的に「自転車は歩道を走ること」という指導をしているようにすら見える。
この写真だってその一つだし、実際に車道を通っていて警察官に「きみきみ、歩道に上がりたまえ」といわれた人は少なくないだろう。
今さらながらだが、自転車は車道を走るものだという根拠をあげておく。
自転車は「軽車両」に属するため(道路交通法二条)、車道を通らなくてはならない(道路交通法一七条)。
自転車は車両であり、通るべき場所は車道。これは各国にも共通する原則である。
ところが、こと日本にだけこのことにまつわるヘンな附則が存在する。道路交通法六三条第四項というヤツだ。
「普通自転車は、第一七条第一項の規定にかかわらず、道路標識等により通行することができることとされている歩道を通行することができる」
これこそかの有名な「昭和四五年(一九七〇)と昭和五三年(一九七八)の改正道路交通法」というヤツで定められたもので、簡単にいうと「(指定歩道に関しては)自転車を歩道に上げてしまうこと」こそが骨子だった。
昭和四五年。高度成長の末になって、日本のクルマはいささか増えすぎた。そのためにクルマ対自転車の事故が激増した。そこで、緊急避難的に自転車を歩道に上げ、クルマと自転車とを分けてしまったのだ。
実際にこれは効いた。翌年の昭和四六年には、自転車の死亡事故が一割減ったのだ。だからこそ(これが皮肉なところだが)およそ三〇年以上、日本の道路交通法は世界でもまれに見る歪な法律として運用されていくようになる。
その結果、自転車はどうなった?
昭和四五年と昭和五三年の改正(年代が二つある理由は後述)は、あくまで「緊急避難」であり「原則は車道」である。「自歩道(自転車通行可の歩道)」だけは特例として通ってもいい、というのが元々の法律の意味するところだ。ところがそれがいつの間にか特例こそが常識となってしまった。ここには残念なことに、自転車のハードも大いに関係している。
世界でもまれに見る徹底的な低速自転車、いわゆる「ママチャリ」は、この歩道を走ることを前提に設計されたものだ。これが大いに受けた。確かに歩道を走る上では、ママチャリほど楽な自転車はない。足がすぐ地面につき、低速でも安定している。昭和五〇年代に入ってからというもの、ママチャリのシェアはどんどん増え続け、ママチャリが増えるから歩道通行が増える、歩道通行が増えるからママチャリが売れるという典型的な悪循環に陥ってしまった。その結果、自転車市民には次のような意識が生まれるに至った。
これは総務庁の調査である。ごく一般的な自転車利用者(おおまかに言って九割がママチャリ利用者)に聞いたものだ「歩道を通行できるのは、自転車歩道通行可の標識がある場合に限る」ということを認識しているかどうか。「知っていて、それを守る」という人が27・9%、「知っているが、守っていない」が22・8%、「知らない」が44・6%となった
つまり、現状として自転車は、ただ闇雲に歩道を走っているというのが実態なのだ。だが、こんなことは日本人ならば誰もが知っている。自転車は右も左もデタラメで、携帯電話で話しながら、なんてのも当たり前。その姿は、ヨーロッパの先進国の人の目から見ると、ただ二言「野蛮」なのだそうだ。アメリカ人に言わせても「クレイジー」だという。なんとなれば、自転車はれっきとした車両であり、それに乗る者は、それに伴う責任と義務を負うべきだからだ。
世界中の交通法規を見ても、自転車を歩道で走らせる、という国は日本だけである。普通は「弱者優先の大原則」というヤツがそうさせない。なぜなら歩道は歩行者のものであり、歩行者が安全に通行するための聖域であるからだ。
現状が変化しはじめたのはなぜか?
さて、そんなこんなで歪なままに放っておかれた日本の自転車と、自転車に関しての法律ではあった。もとより「緊急避難」。インフラが整えば、法律は元に戻る筈だった。
ただし、自転車乗りにとっては、現行法は「車道でも歩道でも通れる」というある種、有利な状態であったのも間違いではない。不満は多いが(特に安全面)、とりあえず現状は「自由」だ。その自由の上で、何とか快適に自転車に乗れれば、快適に乗れるルートを探せれば、というところが本音だったのではないか。とりあえず妙な改悪だけはやめてくれ、というのはココロの奥底にあった。警察のパフォーマンスを見ていると、法の運用は必ず車道の自転車に不利な道を行こうとしているように見えるから。
ところが、状況は変わった。時は二〇〇〇年以降のことだ。
上のグラフを見ていただきたい。自転車対歩行者の事故が、二〇〇〇年以降増えているのが分かる。「軽傷」の部分の急カーブはちょっと説明し難く、何らかの理由で統計方法が変わった(これまでは事故と見なさなかった軽傷も事故にカウントするようになった)としか考えられないのだが、それでも事故が増えているのは事実だ。重傷だって漸増している。
何が理由なのか。もちろん歩道が飽和状態になっていることに原因がある。まずは中国製ママチャリの蔓延で、自転車そのものの平均価格が安くなった。その結果、日本全国に八〇〇〇万台もの歩道走行自転車が溢れた。次に街乗り自転車ブームで都心を走る自転車が増えた。初心者は往々にして歩道を走りがちだ。また携帯電話の普及も大きな要因となっていることも問違いない。
そしてもう一つ、看過できない理由がある。それは高齢化社会が、いよいよやってきたことだ。歩道を歩く歩行者に老人の率が増えた。そして、そこに高性能化した自転車がやってくる。運動神経に劣るお年寄りはそれがよけられない。事実、ここ五年程度の歩行者の事故被害者は、老人である率が急増しているのだ。これに関しては、多くの識者が指摘するところで、歩道の危険、飽和状態は、特に高齢者にとってかなりの社会問題になっていると言っていい。
ならば、自転車は車道を走るべきなのではないか。当然、話はそこに落ち着く筈だ。ところが、話はむしろ道に行くのである。
それでも自転車は車道を通るなかれ
自転車の死亡事故は増えている(前ページのグラフ参照)。
ほとんどは交差点での出合い頭であって、車道通行、歩道通行との因果関係は、ここからは不明だ。だが、法律を作る側が「自転車が独立したレーンを持たず、どこを走るのか、確固とした規定がないから」というところに理由があるとしたのには、まんざら整合性がないわけじゃない。
では、その自転車レーンを作ろうではないか、と。
ではどこに?
問題はここに潜んでいた。警察庁、そして政府のお役所(国土交通省ほか関係官庁)は、積極的に、消極的に「歩道」を選んだ。歩道にレーンをペイントし、自転車はここを行儀よく走れば事故は減りますよ、と打ち出した。これが今回の流れのキッカケだ。
水面下で検討されている「自転車の車道走行禁止法案」。現在の「原則車道」を「原則歩道」に変えようという法案検討は、確かに警察庁によるものだ。だが、そうでない官庁も軸足がどこにあるのかハッキリしないのだ。「つまるところ自転車はゆっくり歩行者の迷惑にならないように走りましょうね」という姿勢がチラチラと垣問見えてくる。
たとえば国交省である。公式ウェブサイトを見ると、そこには確かに「欧州型トランジットモール」が描かれ「くらしの道」からはクルマを排除しようとする姿勢が見える。だが一方で同じ国交省が打ち出す「あんしん歩行エリアの整備」というヤツには「歩行者=歩行者+自転車」とあるのだ。あらゆる前提がまず「自転車は歩行者の仲間」からスタートする。そこには「自転車を交通機関として扱おう」という発想はない。
国交省の姿勢はまあいい。それより前に警察庁だ。もはやヨーロッパではどうの、環境問題がどうの、自転車政策の本来はどうの、などと言ってもまったく聞く耳を持たないご様子である。「日本の道とヨーロッパの道は違い、道路が狭い。自転車も歩行者と同じく『保護対象』だ」というこ言で片づけられてしまう。都市部に限ると、本当はヨーロッパだって狭いのだが、それを後押しするのが、左のグラフだ。
私は思うのだが、本当に省庁に考えていただきたいのは「現状維持のまま、自転車の保護」ではなく「現状がこうだから、一から考えてみるべきなのではないか」ということなのだ。
日本の道路は確かに歴史的な成り立ちからして狭い。そもそも車輪が通ることを前提としてこなかったところに、自転車の登場、オートバイの登場、クルマの登場、と、その時ごとにパッチワーク的に法律を当てはめながらここまで来たのだ。それをそろそろ考え直すべき時がきたのではないかと私は考える。
クルマ利用の現状はこのままでいいのか? 自転車が走ることに意義はないのか? 欧州ではどうなのか? 環境は?歩行者は?
そういうベーシックな論点をしつこく問いただしていこうと思う。
(疋田智著「それでも自転車に乗り続ける7つの理由」朝日新聞社 p173-180)
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◎「地球環境に資するためならば自転車を増やした分だけクルマが減らないと意味がないではないか」と。