学習通信080204
◎魅力はむしろ……

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断面
相次ぐ上流階級の名宝典

美と権力をめぐって

 ちかごろ上流階級の名宝展が相次いでいます。昨年秋は「大徳川」展が大盛況。年頭からは「宮廷のみやび 近衛家1000年の名宝」展(東京国立博物館)が開催中です。そして今後、話題となりそうなのが東京都美術館の「ルーヴル美術館展フランス宮廷の美」(四月六日まで)。マリー・アントワネットの豪華な愛用品などが目玉です。

 宮廷生活の一端

 ダイヤモンドを散りばめた彫金細工の「かぎたばこ入れ」、子どもの像や浅浮き彫りが施された銀の「塩入れ」など、目が疲れるほどこってりと飾り立てられています。圧巻は、マリー・アントワネットの旅行用携行品入れ。スプーンやティー力ップなど五十を超える器物が収納できるように設計され、MAのイニシャル人りの金銀細工類がつまっています。

 フランス工芸技術の粋を結集した「美の世界」。皇帝やポンパドゥール夫人など、有名人ゆかりの品である点も「ありがたみ」を添えます。

 数年前、パリ郊外のベルサイユ宮殿を訪ねたとき、建物は壮観でしたが内部はがらんとして生活感が乏しく、華麗ながらも寒々しい雰囲気が漂っていました。それが帝政時代には、こうした装飾品で満たされていたのです。

 革命にともない散逸した名品の一部がこうして、当時の宮廷生活の一端をいまに伝えてくれるのは貴重なことです。これらの啓示品に共通するのは、実用性とは無縁の装飾性。いわば巨大なおまけの部分が「美」を構成しています。過剰さが豊かさの象徴であった時代の美意識を伝えると同時に、美と権力との親和性についても考えさせます。

 社会発展と共に

 会場では、王妃や貴族を芸術の「庇護(ひご)者」と説明しています。当時は、優れた美術品を生み出す最高の技術とエネルギーが、一部の権力者たちの生活を彩ることに傾注された時代でもありました。確かにこれらの「美」の様式は、権力者たちの需要から形成されたわけですが、それが計り知れない富の収奪のうえに成立したものであることを思うと、庶民としては複雑な気分です。

 昨年秋の回顧展で注目された狩野永徳のように、近代以前は権力者の「庇護」のもとで独自の世界を開花させた天才たちの例が無数にあり、美と権力との密着ぶりは歴史的にはありふれたことでした。そんな時代を経て、芸術家が個人の存在価値を自覚し、自分に忠実に表現を追求できる社会へと移行してきた、そうした「社会発展」の意義についても再認識させられる展覧会です。(金子徹)
(「赤旗」20080204)

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 おとなは二度と子供になることはできず、できるとすれば子供じみた姿になるだけのことである。

とはいえ子供の天真爛漫は、おとなを喜ばせはしないだろうか?

 そしておとなが、自分たち自身でこんどはより高次の段階において子供のもつ素直さを再生産することに努力してはならないだろうか?

 子供の性質には、いつの時代にもその時代独自の性格がその自然にあるがままの素直さでよみがえるのではないだろうか?

 なぜに、人類のもっとも美しく花開いた歴史上の幼年時代が、二度と帰らぬ一段階として、永遠の魅力を発揮してはならないだろうか?

 ぶしつけな子供もいれば、ませた子供もいる。

古代諸民族の多くがこうした部類にはいる。

そのうちでも正常な子供だったのがギリシア人であった。

われわれにとって彼らの芸術の魅力は、それが生まれ育った社会段階が未発達であったことと矛盾するものではない。

魅力は、むしろそのような社会段階の結果にあるのであって、魅力はむしろ、その芸術を生んだ、また唯一生みだすことのできた未熟な社会的諸条件が、ふたたびもどってくることはけっしてありえないということと、わかちがたく結びついている。
(マルクス「『経済学批判』への序言・序説」新日本出版社 p83)

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◎「過剰さが豊かさの象徴であった時代の美意識を伝えると同時に、美と権力との親和性についても考えさ」ると。