学習通信080205
◎「ワーキングプア」の時代、人権ストを昔話とは思えません。
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《潮流》
「格子なき獄舎」。新しい憲法ができてしばらくたっても、こうよばれる紡績会社がありました。近江絹糸です
▼十五歳で岐阜の大垣工場へ就職し寮に入った工藤久美子さんは、父の死を恩師の便りで初めて知りました。あとで母にきくと、「父死す」の電報を打ったが会社から「本人帰らぬ」の返事がきた、といいます。同級生からの恋文も届きません。会社が封を勝手に開けていました
▼岸敬子さんは、「恋愛の自由も認められず、交際が発覚すると人事課に呼び出され、生産が落ちるからやめよと叱られた」と記します。低い賃金。サークル活動も禁止。正月にも帰れず、トイレにはお母さんあいたい≠フ落書き……
▼近江絹糸で人権ストライキが始まったのは、一九五四年六月です。最近、大垣工場で働きたたかい、青春を過ごした人たちの手記集『近江のうた』が出ました。夜明け前、合図とともに労働者がいっせいに寮をとびだし、行進へ。「日本の労働運動史上にその名を残す闘いが十代の若者たちの手で始まったのだった」工藤保彦さん)
▼嵐のような百六日間。悩み、学び、団結し、ついに要求を実現させます。大原英子さんは、暴力をふるうスト破りの失業者たちの身の上話をきき、「ケガせんと……帰ってほしい」と説いて納得させた思い出を書いています
▼「ワーキングプア」の時代、人権ストを昔話とは思えません。そして、近江絹糸でたたかった人々がいまも、全国各地で人権の守り手としてストの精神を伝えています。
(「赤旗」20080128)
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人権争議
人権争議といえば、一九五四年の近江絹糸の争議をおもいおこす人が多いであろう。この年、年少の婦人の多い近江絹糸の労働者が、切実な人権要求を掲げて闘争に立ち上がり、一〇七日の争議の後に勝利を勝ちとった。この争議は、同じような人権無視の労働環境に苦しむ多くの労働者を励まし、またその支持をえた。その結果、この年は証券取引所、地方銀行をはじめとし、今まで労働運動の起こらなかった職場や、起こっても微力であった事業所でつぎつぎに大きな争議が起こり、多くの場合に成果をおさめた。そして、この国にまだ広範に存在する、おくれた人権無視の労働環境に人びとの注意を集め、そしてまた労働者一人ひとりの初歩的で、しかも基本的な要求に根ざした労働運動の緊切さを教えたのである。これら一連の争議は人権争議とよばれた。
近江絹糸の争議 五四年五月二五日、大阪の近江絹糸紡績株式会社(従業員一万二〇〇〇人)の本社で、従業員有志が近江絹糸紡績労働組合を結成し、全繊同盟に加入するとともに、二二項目の要求を提出した。それには、労働組合の承認、深夜労働時間の短縮、食事の改善、賃上げなどの要求と並んで、次のような要求が掲げられていた。「仏教の強制絶対反対」、「夜間通学等教育の自由を認めよ」、「結婚の自由を認めよ」、「人権をじゆうりんした信書の開封、私物検査を即時停止せよ」、「外出の自由を認めよ」、「外出時の服装の自由を認めよ」など。これらの要求は、各地の工場の寮ではなはだしい人権無視が行なわれていたことを示していた。会社は六月四日に団体交渉を拒否したので、本社の組合は無期限ストに入るとともに、各地の工場での組合結成に努力した。そして六月ニ八日までに、岸和田、彦根、富士宮、大垣、津、名古屋、長浜、東京に支部が結成され、六月三〇日には、単一の本部を確立した。
会社は製品搬出のために、臨時人夫を動員し、ピケ隊に暴力をふるい、会社組合を作ってスト破りを試みて、各地で衝突事件がおこった。夏川嘉久次社長は、六月一六日に団体交渉開始を承諾したが、翌一七日から姿を匿して破約した。小坂労相の依頼で財界人三人が調停に入ったが、これも夏川社長の拒否にあって失敗した。全繊同盟は中労委に不当労働行為の申し立てを行ない、中労委はあっ旋に入り、八月四日から団体交渉が行なわれたが、はやくも八月九日に決裂した。八月一三日、中労委はあっ旋を打ち切り、組合は再び無期限ストに入った。この間、会社は数次にわたり、組合幹部一二五名を解雇した。九月に入ると、銀行筋の財界人四人が再び調停に動き、九月一六日についに中労委最終あっ旋案に労使双方が調印し、翌一七日から各工場は操業を再開した。この最終あっ旋案は、会社は全繊加盟の組合を認めてユニオンショップ協定を結び、「十大紡並の労働協約を締結する」、信教の自由、信書の秘密などの人権要求については、「これを改める」、労働条件の改善、解雇撤回、解決金支払いなど、組合の要求を大幅に認めたものであった。
証券取引所の争議
大阪証券取引所の五四年六月に始まる争議は、八月三〇日組合側の勝利に終わった。この間、近江絹糸の組合との共闘、交流が行なわれた。東京神戸、名古屋、京都、広島の証券取引所にも組合結成が進み、東京では一〇月二六日にストに入り、一一月八日に大幅賃上げを含む妥結をみたが、警察の弾圧をうけた。(上田誠吉)
(「事典 日本労働組合運動史」大月書店 p226-228)
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『女工哀史』の現代版、「格子なき牢獄」といわれた近江絹糸の女子労働者たちは、組合を結成して、基本的人権にかかわる二二項目の要求をかかげて、一九五四年六月から九月にかけて一〇六日のたたかいで勝利した。この「人権争議」は世論の支持をうけ、さらに「近江絹糸につづけ」という刺激をあたえて、中小企業部門、地方銀行、証券取引所、サービス部門などの、前近代的労資関係に制約されていた分野に労働組合運動をひろげた。
この時期の労働組合運動の発展に強い影響をおよぼした要因の一つに、一九五三年一〇月、ウィーンでひらかれた世界労連主催による第三回世界労働組合大会がある。この大会に、はじめて日本の労働組合代表一八名が公然と参加した。そこで見聞した国際労働組合運動の動向、わけても大衆の要求にもとづく統一行動の思想と戦術の強調に日本代表団は深い感銘を受け、大会議事録の翻訳が活動家のあいだに普及した。
さらにこの年九月、東京でひらかれたILOアジア地域会議に出席した世界労連のウォッジス情宜部員(イギリス人)が説いたセクト主義批判、統一行動の思想は活動家のあいだに「ウォッジス旋風」と呼ばれる影響をおよぼし、「統一と団結」「幹部闘争から大衆闘争へ」のスローガンがひろがった。
(塩田庄兵衛著「日本社会運動史」岩波全書 p236-237)
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◎「労働者一人ひとりの初歩的で、しかも基本的な要求に根ざした労働運動の緊切さを教えた」と。