学習運動080207
◎革命家をたたえる……
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『蟹工船』−その可能性の中心
浅尾 大輔
一
二〇〇七年十月十二日金曜日のお昼ごろのことだ。その日の午前中、いつものように首都圏青年ユニオンの団体交渉のサポートを行い、それが無事に終わって、私は、JR市ヶ谷駅の交差点前で青信号になるのを待っていた。慌しく午後一時半から神保町にある上島珈琲店で角川書店の編集者と会う約束があった。
「あの、浅尾さん!」
唐突に私の肩にぶつけられた女性の声に驚いて振り向くと、そこに青年ユニオンの組合員が立っていた。見慣れぬ顔だったが、先ほど外濠公園で円陣を組んで行った反省会のとき、初めて参加したという団体交渉の感想を興奮冷めやらぬ表情で話した人だ! と思い出した。今回の団交には十四人の若者が駆けつけて一際大きく膨れた円陣だったから、一人ひとりの名前まで覚えることが出来なかった。
「あ、あの……… い、いま、小林多喜二の小説、か、「蟹工船』の、新潮文庫の、読んでいるんですけど!」
女性はそう言い、人目もはばからずにバッグを開くと、そのなかをガサガサとかき回し始めた。思わず私は彼女に駆け寄って「ああ、ああ」と声をかけた。
女性は、マラソンを走り終えたランナーのような高ぶりで続ける。
「あ、浅尾さんって、小説、書いている人なんですよね、メーリングリストで知りました……、ま、マンガの「蟹工船』は、この前、ネットカフェで読破したんですけど、あの……、労働者は、労働者っていうのは、最後はきっと勝つんですよね? 浅尾さん、労働者はきっと勝つんですよね? マンガのラストシーンでは、労働者たちは元気に拳を振り上げて、そう描かれていましたから……」
私は、女性が取り出した新潮文庫の『蟹工船』を包む装丁の赤と黒とのコントラスト画(戦旗社初版)を見たとき、胸に熱いものがドッとせりあがってくるのを感じた。
いま、この私の目の前に、小林多喜二さんが現れているッ、そう思った。二十九歳という若さで、絶対主義的天皇制権力によって虐殺されてから七十四年目の秋、俳優・加瀬亮のような風貌の小林多喜二さんと、女性が差し出した文庫本を介して邂逅(かいこう=思いがけなく出会うこと。めぐりあうこと。)た瞬間だった。
現代を生きている若い労働者が、いま私に−──私のようなものに、紛れもなく「浅尾さん、労働者は、きっと勝つんですよね、団結した労働者は、きっと勝つんですよね」と何度も念を押している。いまの彼女にとって、その問いが短い人生のなかで一番熱いものとなっているのだと確信する。
私は、少しだけ答えるのをためらう。
私は、小説『蟹工船』のラスト、ストライキを企てた首謀者たちが軍艦に引き渡されて失敗に終わることを知っており、多喜二さんが付け足しのように「彼らは、立ち上がった。──もう一度!」と書いたのを思い出している。
そうして私は、若い女性の茶色い光彩に縁取られた黒目を見ながら、言った………いつかその間いの答えとして言わねばならない場面に遭遇したらきっと言おうと思っていた言葉を、満を持して言ったのだ、
「(マンガではそう描かれていたかもしれないけれど)あなたは、多喜二の書いた小説そのものを最後まできちんと読んでから、本当に労働者が勝つのかどうか、よく考えて、あなたの言葉で書いてみて、僕に読ませてください」と。
彼女は、拍子抜けしたように「ええッ、負けるんですか? 労働者って、負けちやうかもしんないんですか? 」と再び尋ねてきたが、私は「とにかく読んで書いて見せてください」としか答えることができなかった。
彼女は派遣労働者だった。これまで転々としてきた職場か振り返って指折り数えてみると「八つだったか九つだったかわからない」と呟いた。その夏、任期途中での一方的な「解雇」を派遣会社から喰らって、ネットで探し当てた首都圏青年ユニオンと出会う。組合員として派遣元との団体交渉をたたかうことによって、派遣期間満了日までの賃金を一〇〇パーセント支払わせることを確約させた。労働相談に乗ってとれるところはないかと埼玉県蕨市のネットカフェで検索をかけているとき、マンガ『蟹工船』がフロントに置かれていかのだった。
JR市ヶ谷駅ホームから滑り出した総武線に揺られながら、彼女は言った。
「浅尾さん、「蟹工船』のなかに『斡旋屋』というのが出できますけど、それって、あたしを雇っていた派遣会社××××のことでしょうか?」
私は、間髪いれずに「そうだよ」と言った。すると、彼女は、ハッキリと言ったのだ。
「まだ小説は途中ですけど、全然古くないです、全然古くないです、いまの私とまったく同じ人たち──私の仲間たちが、続々と出てくるんですから!」
二
『蟹工船』の可能性の中心は何かと問われたら、私は「五、この作では未組織な労働者を取扱っている。」「六、労働者を未組織にさせて置こうと意図しながら、資本主義は、皮肉にも、かえってそれを(自然発生的にも)組織させるということ。」(一九二九年三月三十一日、蔵原惟人宛手紙)にあると断然答えるようにしている。
小林多喜ニさんは、のっけから書いている──、「こういう(注・「土工」「渡り者」「正直な百姓」といった)てんでんばらばらのもの等を集めることが、雇うものにとって、この上なく都合のいいことだった。(函館の労働組合は蟹工船、カムサツカ行の漁夫のなかに組織者を入れることに死物狂いになっていた。青森、秋田の組合などでも連絡をとって。──それを何より恐れていた。)」と。
続けて、「蟹工船の事業は、……一会社の儲仕事と見るべきではなくて、国際上の一大問題」で、「日本帝国人民」と「露助」との「一騎打ちの戦い」なのだ、と書く。
さらに、労働者たちが、「斡旋料」だけでなく、汽車・宿・毛布・布団代をむしり取られて、蟹工船に乗り込むときには借金を抱えていくという仕組みを過不足なく描き、あとは周知の通り、「浅川監督」によって彼らがモノのように扱われる非道な労働実態が延々と続く。この描写から、派遣で働く青年ユニオン組合員は、現代の「蟹工船」に自分も乗船している(!)という自覚を獲得したのだ。
そう、『蟹工船』の世界は、いま「国際競争を勝ち抜くために!」と主張する日本経団連の労働市場規制緩和施策のもとで起きている事態とまったく変わるところがない。
しかし、問題は、こうした資本の本質を見据えながら、小林多喜二さんが、この物語で未組織労働者(「てんでんばらばらのもの等」)の組織化という、前人未到の戦略遂行を描き出そうとしたということなのだ。
三
小林多喜二さんは、「何より圧倒的に、労働者的であること、」「何処まで行けているか知らないが、ただ、労働者的であることにつとめた。」(同右手紙)と書いた。労働組合を知らない多くの不安定雇用労働者に、団結してたたかうことの意味を(痛快な読み応えを伴わせて)伝えようとしたのだ。
ところで『蟹工船』への批評は、「集団を描くために個人を埋没してしまってよいだろうか?」(蔵原「作品と批評」)というものから「映像とマルクスを重ねて読む」(『「文学」としての小林多喜二』座談会での日高昭二「蟹工船」論への言及)、「『蟹工船』の労働者のたたかいはまだ自然発生的なものでした」(北村隆志「現代の青年と『蟹工船』」)までさまざまあるようだ。
だが、この日本社会の圧倒的多数の労働者が、昔もいまも、事実の問題として未組織──「てんでんばらばら」であること、そんな彼らに正面から向き合って組織していこうじやないかという自覚的な戦略論テクストとしてフォーカスをあてた批評はあっただろうか、私は寡聞(かぶん)にして知らない。
行方不明になった労働者が、カムサッカのロシア人から「赤化」芝居を見せられる──そのチャップリンばりの見事な滑稽さ、ドストエフスキー「死の家」を語る不穏な「学生上がり」、船内で流行りだすスローガン「威張んな、この野郎」……、多喜二さんは、つとめて「自然発生的」な描写で労働者が立ち上がる過程を描こうとしている。が、「学生」が一晩中腹ばいになって鉛筆なめ砥め書き上げた「発案(責任者の図)」のくだりになって、私は、誰かが意図的にストライキを企てようとしている! と粟立つ。
私は、霞が関の中央省庁で働く非常勤国家公務員の組織化という仕事を四年間にわたって続けているが、「学生」の「発案」は、まさに、私が彼女たちと秘密裏に連絡を取るメーリングリストそのことであり、「どんな事が起ろうが、……電気より早く、ぬかりなく『全体の間題」にすることが出来る」ツールである。
そして私がいつも心を砕くのは、「日雇い」の彼女たちが立ち上がるときには、その姿が、極力「自然発生的」に見えるようにしなければならないということだ! 年度末の大幅賃下げや正職員へのお茶くみ仕事をやめさせる場合、非常勤職員みんなで手書きした「お願い」文書を持って、課長をランチに誘いながら手渡さなければならない、というように……。「文書」を起案したのは、省庁内を徘徊している私なのであるが!
ああ……、地獄の蟹工船に潜り込んだ組織者の「私」はどこにいるのか?
注意深く読み返してみる……、「殺されたくないものは来れ!」という宣伝語を作ったのは「学生」であり、彼は毛利元就の弓矢の話や内務省のポスタ一の「綱引き」の例えをもってきて、一人でかけあっても無駄だということ、「四百人が一緒」の強さを説いている。
内地の日本人がストライキをしたと書かれている「赤化宣伝」のビラを持ち込んだ漁夫に、「学生上がり」は「本当だよ」などと言う。
物語の中盤、「浅川監督」がピストルをぶら下げて「組をなして怠けたもの」を威嚇し始めるなか、労働者たちは疑心暗鬼になる。そのとき「学生」は、「俺達から愚痴ッぽかったら──もう、最後だよ。」と励ます。さらに「見れ、お前えだけだ、元気のえゝのァ。──今度事件起してみれ、生命がけだ。」と言うと、「学生」は、なんと「そう……。」と答えている。物語のラスト、駆逐艦がやってきたのを見たとき、真っ先に「しまった!」と叫び、その理由が「国民の味方でない」という本質を見抜いていたのも「学生」だ。
「学生(上がり)」こそ、自分の生命を顧みず、函館の労働組合から送り込まれたオルグではないのか? いま彼は、前人未到の、「蟹工船」内における未組織労働者の組織化に挑戦している真っ最中なのだ!
彼は、常に本質的な励まし、オルグでなければ生まれない言葉での励ましを送っている。
「やれやれじゃねえ。やろう、やろうだ。」
彼は、たぶん、小林多喜ニさんが他の文で書いた──内地では、何時までも、黙って「殺されていない」労働者が一かたまりに固まって、資本家に反抗している。しかし「植民地」の労働者は、そういう事情から完全に「遮断」されていた──認識のもと、なんとかして「一かたまり」を作ろうと苦心している。多喜二さんは、この「学生」の大胆不敵な組織行動を、現代にも通じる戦略論テキストとして描き出した。私は、アテにならないオルグとしての自身の直感でそう思う。
蟹工船に残された労働者は、「本当のこと云えば、そんな先の成算なんて、どうでもいいんだ。──死ぬか、生きるか、だからな。」と言う。この言葉は、二〇〇七年現在の、解雇されることを承知で大企業の偽装請負を告発する青年労働者や「雇い止め」を覚悟の上で団体交渉を申し入れる契約労働者の決死のたたかいとそれをサポートする労働組合オルグの心情を見事に表している。
四
小林多喜二さんは、
「学生は十七、八人来ていた。」などと書いており、そのある者はグチばかり言う者として、別のある者は注意深く沈没船の状況を気にかける者として……、しかし誰が誰なのか特定するのは困難である。まさに「集団」のなかに意図的に沈められた「学生(上がり)」の形象は、いまやっと「あぶり絵」のようにぼんやりとオルグとしての輪郭を持ち始める。
小林多喜二さんの、働く者を見る眼の鋭さと深さは、まさしく作家のものだ。同時に、その才能は、不合理な世界を変える革命家としての、紛れもない政治的な認識のもとで十全に発揮された。そうなのだ! 小林多喜二さんその人こそが「蟹工船」における組合オルグなのだ。
プロレタリア文学は死んだ──そんなことは誰にも言わせない。なぜなら、不安定雇用労働者の労働条件向上のための、本格的な組織化はまだ始まったばかりなのだから。
おわりに
本稿執筆最終の段階で、作家・右遠俊郎氏の「「蟹工船』私論」(『民主文学』 一九七三年二月号)の存在を知らされた。この論考は、「学生」だけでなく、「芝浦」「吃り」、その他の「漁夫」「水夫」「火夫」らの行動の総体を見極めながら、ストライキに立ち上がる過程を「一瞬に激発する暴動ではなしに」「きわめて整然とした組織的なたたかい」と評価し、そこに「強力な指導性を見る」と結論づける。
右遠氏は、さらに「蟹工船」のなかに「集団」だけでなく、「前衛を、少なくとも前衛の影を、その慎重な工作の行程を読みおとすことはできない」とのべ、そのくだりを読んだ私は溢れる涙を止めることができなかった。今から三十五年前に「蟹工船」のなかに「前衛の影」を発見していた右遠氏のアクチュアルな読解を引き継ぐ作業がいま急務となっている。
(「民主文学 08年2月号」日本民主主義文学会 p110-114)
■━━━━━
革命家をたたえる
圧制のくびきがしめつけてくる
と、ひとびとの勇気はそがれる。
が、かれの勇気はたかまる。
かれはたたかいを組織し
賃金の、紅茶の
国家権力の獲得をめざす。
かれは私有財産に問いかける
どうしてできたのかと、
さまざまな意見に問いかける
誰のやくにたつのかと。
沈黙のカラがあついところで
かれは発言する、
圧制が支配し、窮迫が運命のせいにされるところで
かれは窮迫をひきおこした者らの名をあげる。
かれが食事の席に加わる
と、その場からしみた満たれ足が消える、
食事の舌ざわりのわるさが
ヘヤのせまさが認識されてくる。
かれを追放すれば、かれの赴く土地に
暴動がのびひろがり、かれの消えた土地にも
なお不穏の火は消えぬ。
(「ブレヒト詩集」飯塚書店76-77)
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◎「女性が取り出した新潮文庫の『蟹工船』を包む装丁の赤と黒とのコントラスト画(戦旗社初版)を見たとき、胸に熱いものがドッとせりあがってくる……いま、この私の目の前に、小林多喜二さんが現れているッ、」と。