学習通信080229
◎「お前」と男が女に言い……

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 内助の功

 バスや、地下鉄に乗っている人は品格がない、ハイヤーが欲しいが、せめてタクシーなどというサラリーマン管理職がいます。そんなつまらないことにこだわる男性も品がないですが、そうしたカッコをつける夫や恋人を「この人は重要人物なんだ」と尊敬する女性も品格が疑われます。会社にたかり、会社のお金を自分の私用に使う人を、「この人は権力がある」と女性が尊敬するのは間違いのもとです。男性はお金そのものだけでなく、権力の源としてまたあかしとしてだけでなく、女性にもてるためにもお金を欲しがる傾向があります。女性も自分がそれだけのお金をつぎ込まれると、自分に価値があるように思っていい気持ちになる人がいます。

 日本でもアメリカでも企業のなかで昇進していくと、交際費や交通費などが使えるようになり、それが自分の成功のあかしのように思う人もいます。自分がぜいたくをするのが会社の品格を高める、このポストに就いたのだからその程度は許される、と他人(会社)にたかる行動は、その人の品格を低めます。私が尊敬するある大会社の社長さんは、自分の付き合いの費用は自分のポケットマネーで払っておられました。一方同じ時期、同業他社には会社のお金で親しい女性の経営する店で社用接待をしていた社長もいました。一事が万事で、身銭を切る社長は私心のない清潔な経営者として社員からも尊敬されていました。

 ライブドアのホリエモン氏がもてはやされていた頃、彼が社用飛行機でタレントの女性とデートするなど、贅沢な暮らしをするのをうらやましがっていたマスコミも、いったん粉飾決算が問題になれば、そのお金の出所はどこだと批判します。オーナー社長でも会社のお金は自分のお金ではないのです。ましてやサラリーマン管理職が社用で動かすお金を自分の力だと誤解してはなりません。

 しばしば大企業で重要な地位に就いていると自分がえらくなったように思って威張っていた人が、ポストから離れると無力な存在になってしまうのが見受けられます。女性でも夫や恋人が会社で昇進したりお金持ちになると、自分もいっしょに「えらくなった」ように思っている人がいます。しかしそれぞれの職業で成功するには、本人の能力だけでなく、運やめぐり合わせ、周囲の人たちの助けなど多くの要素が絡み合っています。妻の「内助の功」で夫が成功したというケースは、サラリーマンの場合とても稀です。

 周りが、「将を射んと欲すればまず馬を射よ」とばかり、権力者の妻や恋人をちやほやするから悪いのですが、それに甘えて「〇〇さんは気がきくわ」「△△さんは人問ができている」と夫にささやいてはいけません。「会社でお世話になっています」「私は会社のことはわかりません」と徹底的に遠慮してでしゃばらない夫人が「内助」として尊敬されるのです。悲しいことに、しばしば夫のお陰でちやほやされていた女性は、パートナーの男性が力を失うと落胆するだけでなくバカにしてしまうことがあります。

 会社のお金にたかる男性も品格がありませんが、それを自分のもののように思う女性はもっと品格がありません。現代社会において、「女性は男性の内助に徹しろ」「夫から一歩下がっていつも慎み深くしていろ」という古い女性観はもう通用しません。しかし夫の地位や力を自分のものと誤解して、でしゃばったり、会社の人事ややり方に口を挟んだりするのは間違いです。

夫婦はよきパートナーとして支えあうのはプライベートな場面にとどめ、仕事の場では夫は夫、自分は自分とけじめをつける気持ちを忘れないのが品格ある女性です。ましてや夫やパートナーが不遇になったら、自分も不運な被害者のように思うような一心同体ぶりも行きすぎです。常に自分は自分、夫は夫です。
(板東眞理子著「女性の品格」PHP新書 p196-199)

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女とことば(1)──女にとっての「お前」──

 一九八五年の日本の夏は、被爆四十年ということもあって、戦争についてのさまざまの物言いがマスコミをにぎわした。それぞれについて、私なりのコメントもあるのだが、いまはすべてを差し置き、一つのテレビ番組について述べよう。

 忘れもしない八月十二日、その番組が放映され始めるや否や、日航機行方不明のニュースが入り始め、とうとうその番組は消えてしまい、あくる日であったか、もういっぺんやり直された。NHK「人間のこえ」とかいう題で、日本、アメリカ、ドイツ、ソ連の若き戦没兵の遺書を中心にその兵士たちの思い、命の軌跡をたどるものであった。私が涙いっぱいに感動したのは、「九段に自分はいる」と妻に書き残した日本の兵よりは、むしろナチズムの批判者であり、あたかもその言動に対する報復召集のように対ソ戦に駆り出され、ついにソ連に捕虜となって死するに至ったドイツの青年と、あたかもそのドイツの兵と相対する形で戦って死んだうら若いソ連兵の物語とであった。

塹壕(ざんごう)の中で神を思い、クリスマスには「塹壕のマリア」という丹念なスケチを仲間のために描き、塹壕の中で弾かれる上官のピアノ演奏にうっとりするドイツの兵士。彼には愛する妻と子どもがいる。いまその塹壕のマリアはドイツの教会の壁に掛かっている。宗教性ということばの意味が、その絵を見ると直ちにわかるような気品ある、そして悲しいデッサンである。

 ソ連兵は、ひたすらに国に残してきた恋人を愛しむ。ああ君に会いたい、戦争なんかどうだっていい、君に会いたい! 彼は、その切々たる思いのうちに弾にあたって死ぬ。

 その恋人は、いまも独りでいる。薬剤師として老いてなお働き続けている。たった独りの自分のアパートに帰り、彼女は一枚のレコードをかける。ソ連にはこんないい歌があるのかと思われるような清純さと哀切感にあふれるバラード風の歌である。もしも戦争がなかったら私はあなたと二人で暮らしているのにという内容のものであるが、心の奥底から吐息のように漏れる、透明でうら寂しいその女性歌手の歌声は私の心にたまらなくしみ入るのであった。そしてそのレコードをなんべんとなくかけながら、老いた恋人は、たそがれの中にじいっとしていた、さながら薄暮の哀愁にとけ込むように。

 私は父と二人でその画面に見入っていた。父はポツリとつぶやいた。「かおるとだいぶ違うなア」。「澪つくし」のかおるは、梅木と結婚すべきではなかった。惣吉が帰って来ようと来まいとあの段階では梅木との結婚は、まだまだしてはならなかった。

 だいたい、あの朝ドラでは私は、けしからんと思い続けている。なぜ律子は、それ以前にはまるでマドンナに対するように足元にひれ伏さんばかりでいて、いったん結婚すればお前、お前とわめき続け、お膳をひっくり返すような男と結婚したのだろう。また、かおるにしても、妻にするまでは「かおるさん、あなた……」とよびかけ、かおるから「かおるとよんで下さい」と言われれば「かおる」になり、おまけにせっかく以前は「あなた」であったのに「お前」に変ぼうするような男とは周囲が何と言おうと結婚することはなかったのだ。

そんなにも愛し、そんなにも心に残る人の姿をねじ伏せてまで、いかなる人間であれ別の人とそんなに早く結婚すべきではなかった。

「澪つくし」を見ていると、「貞婦二夫にまみえず」ということわざの思想も含めて、日本の結婚がおしなべていかに安直な社会体制に組み込まれ、御都合主義でしかないかということがよくわかる。「貞婦云々」も、いかにも純愛をうたい、愛の永遠性をうたっているようでも、しょせんは女が勝手に行動したら困るというまことに身勝手な拘束の思想のスローガンにすぎない。ある時は早く結婚するなと言い、ある時は早く再婚せよと言う。それは社会の、あるいは男のエゴイスチックな思想を女に強いることでしかない。

 「お前」と男が女に言い、「かおる」「律子」と名をよび捨てにする「澪つくし」はそういう男のことばが、いかに所有の概念を端的に表現しているかということを如実に表している。もうこの女はオレのものとツバをつけることばだ。

 世間一般の状況におかまいなしに私は、いささかラジカルに述べてしまった。だが私は、世間にはいろいろの夫婦があって、それはそれなりに当を得ているのだ、いちいち「お前」にこだわってたまるかという意見を私自身十分に採択しつつ、一方の極のきわめて純粋なありようとして、あえて自説を撤回しようとは思わない。結婚もしていない私かである。

 なぜか。理由はただひとつ、私の親たちはおよそ澪つくし的でない結婚生活を長年送ってきたからだ。もちろん母は、「お前」と言われ、名をよび捨てにされることで、ある人ヘの帰属を明確にする被虐的かもしれない喜びなどかけらもなかった人であるし、父もそういう言語行動によって男の権威を保とうとする人間ではなかった。「お前」という傾斜のあることばは、わが家ではいっさい使用されなかったというひとつの厳然たる事実から私は物を言っているのである。

 そうした意味で、あの「澪つくし」は女の立場からはとても古めかしいドラマなのだなと、いま私はレッテルをはっているところだ。(「びいた」13号一九八六年)
(寿岳章子著「はんなり ほっこり」新日本出版社 p188-191)

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◎──「お前」と男が女に言い、「かおる」「律子」と名をよび捨てにする「澪つくし」はそういう男のことばが、いかに所有の概念を端的に表現しているかということを如実に表し……もうこの女はオレのものとツバをつけることばだ」と。