学習通信080304
◎多喜二がよりどころとした日本共産党……

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《潮流》

ことしも中野・杉並・渋谷の多喜二祭が開かれます(二十六日)。隣り合う東京の三つの区は、作家・小林多喜二が住んだゆかりの地です

▼杉並区はとくに縁が深い。お母さんのセキさん、弟の三吾さんと住んだ借家は、阿佐ケ谷駅の近くでした。宮本百合子が「おっ母さん、気を丈夫に持っていらっしゃいね。多喜二さんは立派に死んだのだから」とセキさんを励ましたという、通夜があったのもここです

▼多喜二が通った中華料理店「ピノチオ」も、阿佐ケ谷でした。常連客の作家・井伏鱒二は、もの静かで折り目正しい彼の印象を書き残しています。多喜二が時々席を立ってきて、ビールをついでくれたらしい。彼の死が速報で伝えられると、井伏ら文学仲間が「ピノチオ」に集まっています

▼多喜二がよくいった古本屋「大衆書房」は、やはり杉並の高円寺でした。経営していたのは、野上巌・綾子の夫妻です。映画「母べえ」の父べえ・母べえのモデルです。巌は店の中のラジオで多喜二の死を知り、後日、二人の娘をつれて労農葬にかけつけます

▼映画の父べえは獄死しますが、現実の父べえ・母べえは戦後すぐ、日本共産党に入りました。ドイツ文学者の父べえは、学問・文化の分野はもちろん、原水爆禁止の運動など幅広く活躍します。推されて杉並の区長選にもたちました(藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』から)

▼多喜二が殺され七十五年。父べえの心のよりどころは、彼の「あの屈託せぬ精悍な面魂」だった、といいます。
(「赤旗」20080225)

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C 映画「母べえ」に寄せる

 山田洋次監督の新作「母べえ」(松竹作品、主演吉永小百合)が二〇〇八年新春に封切られました。映画の物語は、太平洋戦争開始直前の一九四〇(昭和一五)年の二月の寒い朝、父べえが突然踏み込んできた特高警察に逮捕され、運行されるところから始まります。そこからその妻・佳代と二人の娘(姉初子と妹照美)の苦難の時が始まったのです。家族愛に包まれた一家が、平和を願い侵略戦争に反対したために治安維持法による弾圧に巻き込まれていくさまを描きはじめます。その家族を支える心ある人たち。

 この原作は、野上照代さんの「父へのレクイエム」(一九八五年)で、その実在のモデルは戦前から長く東京・杉並に住む野上さん一家です。父べえこと滋は野上巌さん、そして映画の題名となった「母べえ」こと佳代はその妻綾子さんです。

 野上巌は、一九〇一年一一月二一日山口県生まれ。二六年東京帝大文科を卒業後に日大教授となります。二九年プロレタリア科学研究所(三三年プロレタリア科学同盟に改称)、新興教育研究所、プロレタリア作家同盟、戦闘的無神論者同盟などに参加し日大予科でドイツ語教授として教鞭をとりますが三一年、思想上の理由で大学を追われて失職します。三二年に唯物論研究会創立に参加し幹事、三五年サンチョクラブ会員、三八年唯物論研究会事件で検挙、四〇年に起訴され人獄します。

 母べえの綾子さんは、一九〇三年山口県豊浦郡菊川村(現下関市)生まれ。二九年ごろから夫の文化活動に協力しつつ、三〇年西部消費組合に所属してメーデーの炊き出しにも参加しました。三一年から杉並・高円寺で古本屋「大衆書房」を経営しながら弾圧犠牲者の救援、慰間、特に保釈中の中国人学生の世話などに献身しました。

大衆書房と多喜二

 その「大衆書房」を足繁くたずねて利用していたのが小林多喜二でした。一九三三年二月二一日、野上巌は古本屋店内のラジオで多喜二の築地署での急逝を知ります。三月一五日には、一〇歳と七歳になる娘を連れて多喜二の労農葬の会場である築地小劇場へかけつけます。しかし、会場には入れずまわりの検挙者を横目に見てその場を離れます。

 映画の父べえは一九四二(昭和一七)年一月に獄死しますが、野上巌はかろうじて戦後を迎えます。その直後の『新日本文学』四六年一号に新島繁のペンネームで「小林多喜二をめぐる思い出」(四六年一月一日記)を寄稿します。

 「その頃暫くの間私は高円寺で『大衆書房』という古本屋をやっていて、併せて『インター』『産労』等々の委託販売もし、また英米独スイス等海外からの左翼文献輸人もやっていたので、当時阿佐ケ谷にいた小林多喜二も時たま『インター』などを買いに立ち寄ったことがあるが作家同盟の会合などの公けの席以外では、私自身は直接話をしたことはなかった。ただ幾つかの会合の席で接した彼の屈託のない精悍な闘志には、何時も感心させられていた」(「インター」は『インターナショナル』、「産労」は『産業労働時報』の略称、いずれも野呂栄太郎主幹の産業労働調査所発行)。

「産労」「インター」入手ルート

 この文章で、多喜二がプロレタリア作家同盟活動に献身していた時期、中野・杉並時代(一九三〇年四月〜三二年三月)に野呂栄太郎編集の『産業労働時報』や『インターナショナル』を人手したルートが明らかになってきました。その時、多喜二が人手しみずからサインした『産業労働時報』(一九三一年九月号)が近年北海道で発見され、浜林正夫氏の手を経て小樽商大に寄贈されました。

 また、一九三二年四月以降、文化団体への弾圧により多喜二が地下活動に入った麻布十番時代に結婚生活をおくった伊藤(森熊)ふじ子の遺品の中から『産業労働時報』三二年一〇月号が五月号、一一月号とともに発見されました。この一〇月号には、日本共産党の綱領的文書「二七年テーゼ」(「日本問題に関する決議」)全文(伏せ字あり)が掲載されており、多喜二の書き込みと傍線が随所に引かれていて、日本の革命路線を真剣に摂取しようと努力していたことがよくわかります。

 私は、当初、多喜二のこれら文献入手ルートを彼の小樽時代の盟友たち──産業労働調査所函館支所の乗富道夫や秋田支所の三浦強太などのルートを推論し、その特定のために調査をすすめていました。しかし、この新島繁(野上巌)の文章によって、上京後の多喜二が高円寺の「大衆書房」でこれらの文献を入手していたことがわかります。高円寺には、小樽から上京して多喜二を支えていた小樽高商後輩の寺田行雄一家がおり、活動のあと一駅前の高円寺で下車した多喜二が寺田家に立ち寄り、ついで「大衆書房」へ、徒歩で阿佐ヶ谷の自宅に帰るルートがうかびあがります。

 いっぽう地下活動時期(麻布十番時代)の伊藤ふじ子の遺品から発見された一九三二年代の『産業労働時報』の入手先の追跡は今後に残されていますが、大事なことは多喜二が特高警察の執拗な追及をかわしつつ地下活動をしながら一貫してこれらの文献の学習を怠らなかったことです。

多喜二をよりどころに

 野上巌夫妻は、戦後、いち早く人権と平和のたたかいにたちあがります。その根底には戦前のみずからの挫折の反省とともに「アジアに侵略の爪牙を伸ばしつづけていた帝国主義日本の支配階級も打ちのめされ、小林の嘗っての同志等は永い獄中生活から元気で続々と帰って来、そして、皇室、三井、三菱をはじめとする大財閥が悉く解体される日を迎えて……そして『三・一五』や『オルグ』の作者の、あの屈託せぬ精悍な面魂に、限りなき敬愛の情をおぼえるのである」(前出)と書き、多喜二がよりどころとした日本共産党に人党して戦後を出発させたのです。

 一九四五年自由懇話会理事、自由大学を創設し事務局長、日本教員組合の創立に参加し一年間中央委員として活動します。四六年日本民主主義文化連盟に参加、日本民主主義科学者協会(民科)幹事、五一年「人権民報」編集長、五二年破防法反対杉並文化人懇談会を組織、新日本文学会中央委員、人民文学、日本国民救援会に参加して精力的に活動をすすめました。

 こうして野上巌は、一九五五年に神戸大学に赴任するまでの戦前・戦後の二十数年間を杉並で活動し、以上のほか区の民生委員を歴任、草の根文化人としてビキニ環礁水爆実験による原水爆禁止署名運動、松川事件救援運動などにも参加、こうした中で一九五二年四月には共産党、社会党などの民主勢力に推され杉並区長選に立候補して活躍しました。五五年からは神戸大学で教鞭をとり五七年一二月一九日、五六歳でこの世を去りました。野上の死を迎えた杉並区民は五八年三月三〇日「文化葬」をもって氏の功績をたたえました。おもな著書に『社会運動思想史』(新日本出版社、唯物論全書復刻)。

 「母べえ」のモデル綾子夫人は五四年一月二四日、病を得て永眠します。享年五一歳でした。夫妻ともに東京・青山霊園の「無名戦士の墓」に合葬されました。
(藤田廣登著「小林多喜二とその盟友たち」学習の友社 p89-92)

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◎「日本共産党の綱領的文書「二七年テーゼ」全文……多喜二の書き込みと傍線が随所に引かれ……日本の革命路線を真剣に摂取しようと努力していたことがよくわ」ると。