学習通信080312
◎特高警察の解明だけでは……

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 今年は一九二八年の日本共産党にたいする全国いっせいの大弾圧、三・一五事件から八十年を迎えます。この事件について吉岡吉典元参院議員から一文が寄せられました。

3・15弾圧事件から80年
 吉岡吉典

検挙者に現役軍人多数

 今年は日本共産党弾圧事件を代表する三・一五事件八十周年の年である。いろいろと気づいたことを話してみたところ、ほとんどの人に知られていないことがあった。二点ほど紹介しておこう。

有罪で起訴された
ものは十数名に

 千六百人が検挙され、五百人近くが起訴された三・一五事件では、現役軍人が三十一人も検挙されていた。戦前、帝国軍隊の中でも日本共産党員が活動していたことについては、「党史」でもとりあげられてきた。しかし、三・一五事件検挙者に現役軍人がおり、しかも全国にわたっていたことは、あまり知られてないようである。もちろん、全く知られていない事件ではない。公表はされていないが、憲兵生活十五年におよび、昭和の戦争時代を憲兵として生きてきたという元東京憲兵隊特高課長、東部憲兵隊司令官大谷啓次郎氏が、四十年以上前に、『昭和憲兵史』(昭和四十一年刊、みすず書房自序)で、「三・一五事件によって検挙された在営軍人は三十一名に上った。そして有罪として起訴されたものは、第一師団二、大阪師団三、小倉師団一など十数名であった」と記している。

 同氏は『皇軍の壊滅』(図書出版)という本でも、「赤化工作に悩む軍隊」などと、当時、軍隊内に共産党細胞(支部)がつくられ、どんな活動をしていたかも合めて、三・一五事件についても述べている。憲兵の立場から見た、日本共産党の軍隊に対する工作や隊内での共産党員の活動の一端を描いている。しかし公式な発表は、戦前も戦後も全くない。

 ともあれ、三・一五事件で三十一人も検挙者が出るほど現役の軍人の中に共産党員がいたことは、天皇の軍隊にとっては、きわめて衝撃的かつ重大なできごとであった。天下に公表するわけにもいかなかったであろう。そもそも、三・一五事件は、我妻栄代表編集『日本裁判史録』(昭和・前)の解説によっても、「日本における唯一の反戦勢力、天皇制ファシズム反対勢力を抑圧して、その後の帝国主義的戦争の諸展開を用意した」と書かれている。その帝国主義戦争の担い手である帝国軍隊の中に、共産党細胞が生まれていたというのは、天皇制権力を震え上がらせる出来事だったと思う。

 三・一五事件やそれに続く共産党弾圧に関する記録を見ると、弾圧しても弾圧しても、壊滅できない共産党、つぶすことができない共産党に「悲鳴」を上げていることがはっきりうかがえる。三・一五事件では、東京帝国大学生など、日本の将来を背負うものの中に多数の検挙者を出したことに、日本の将来への不安を抱いているが、多数の現役軍人の検挙は、この比ではない衝撃であったことはいうまでもない。だからその事実についてのべている記録は、あとでみる帝国議会への秘密報告を含めて私は、公式にそれについてのべたものを知らない。国民の前に、明らかにすることができない出来事だったのである。

 戦前の「日本赤色救援会」が、一九三一年に作った『治安維持法弾圧犠牲者名簿』によると、「三・一五事件判決表」に「軍法会議」の項目があり、「起訴者4」「第一審=人員4、判決109」とある。そして「註 軍法会議は、発表された資料がないので不明なるも大概二年半である」と書かれている。同資料によれば、四・一六事件にも「弘前軍法」の項があり、起訴者一名が「判決3」となっている。詳細にはわからないにせよ、三・一五事件でも、四・一六事件でも、共産党弾圧事件で、軍法会議を開いたこと、つまり、現役軍人の検挙者があったことをあきらかにしている。

帝国議会の秘密会
での報告に見る

 もう一つ紹介しておきたいことは帝国議会の秘密会での政府の報告に関してである。

 共産党弾圧関係の帝国議会への報告は、衆議院、貴族院でそれぞれ、昭和三年四月二十五日の「共産党事件の報告」と昭和八年一月二十四日の「共産党検挙に関する件並に五・一五事件に付ての報告」いわゆる一九三二年の熱海事件についての報告の二回である。

 その内容は、戦後も長く非公開であったが、一九九五年、衆院秘密会の速記録も、貴族院秘密会の速記録も公開され、六十八年後にその中身があきらかになった。

 熱海事件は、一〇・三〇事件ともいわれ、「一九三二年十月三十日、三二年テーゼにもとづいて党の再建を図るため、熱海でひらいた、全国代表者会議の際、スパイ松村の手引きで、全員検挙、続いて全国一斉に弾圧した事件」についての報告である。(「第一冊」)

弾圧しても弾圧しても

 公開時の議員は全員衆議院・貴族院の『秘密議事録速記録集』の配布をうけているので読んだ議員から聞かれた方もいるかもしれない話である。

 熱海事件についての小山松吉司法大臣の報告は「昭和三年三月十五日及(および)昭和四年四月十六日の二回に亙(わた)り、全国的一斉検挙を初めと致しまして、昭和五年の二月及同年七月の部分的検挙等に依(よ)りまして、党首脳部委員以下多数の党関係者を検挙致しまして、其都度(そのつど)党組織の上に致命的打撃を加へて居(い)たのであります」。にもかかわらず、熱海事件で、再度三府二十六県にわたり二千五百四十七名に上る検挙を行ったのである。小山司法大臣は、一九二八年の三・一五事件以来一九三二年末までの検挙者は三千九百六十一人にのぼるという報告もしている。

 検挙のたびに「致命的打撃」を与えたといいながら、再度「熱海事件」では、大検挙をおこなわざるを得なかったのである。

検事・判事への注意
「ミイラにはなるな」

 なぜ共産党は不死身なのか。科学的社会主義と日本共産党の主張が、人々をとらえる力を持っていたからである。弾圧の当事者小山司法大臣は、議会への報告の中で、弾圧担当官が、共産党事件取り調べのためには、共産主義に関する書物を読まなければならなかったし、それによって共産主義にかぶれるもの、ミイラとりがミイラになることがないようにすることを注意したとのべている。

 「司法部と致しまして、どうぞ御同情を得たい点が一つあります」として次のように述べている。

 「大正十二年の第一次日本共産党事件の検挙の終りました際に、吾々は非常に当惑したのであります、検挙致しました人々は共産党の書物を能(よ)く読んで居る、之(これ)を調べる予審判事は、まあ打明けて申しますと第三『インターーナショナル』とは何のことかわからなかったのであります、それでは困ると言うので、途(にわ)かに盗賊を捕えて何とか云う訳で、何の書物を読もうかと云うので書物を読み始めた位のものでありまして、又知らなければ訊問も取調も出来ないのでありますから、そこで其後思想係と云うものをおきました」(〔一〕)

 その次の部分が注目にあたいする。

 「そうして検事に共産主義の書物を読ませなければならぬのであります、読ませて置いて共産党にかぶれるなと云うのでありますから、是位(これくらい)むづかしい仕事はないのであります、私共は非常に注意したのであります」(同)

 共産主義の書物を読めば、「かぶれる」のが当たり前だと、考えていたのである。共産主義は、読むものをとらえる力を持っていること、つまり真理だということを、帝国議会に報告していたのである。

 「それで度々(たびたび)私共は検察当局と致しまして、検事に向って木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になると云うことがある、そう云うことがあっては困るから、是は国家の為に一生懸命にやって貰(もら)わなければならぬと云うことを言ったのであります」(同)。要するに、共産主義は、魅力満点であろうが、お国のためにかぶれないように一生懸命頑張ってくれという訓示である。

思想検事の旗頭が
「左傾止められず」

 そのころ、日本の思想検事の旗頭と言われた池田克という検事は、『警察研究』と言う内部の雑誌(第一巻五・六号、昭和五年)に「日本共産党事件の統計的研究」という、三・一五事件、四・一六事件についての研究論文を掲載しているが、そのなかでつぎのように書いている。

 「今日行われている思想運動、それは社会の内的予震拡大の過程に於(お)ける必然的産物であって、天上より降り来るものの如く突如として生起したものではない」「筆者の観察に依れば日本共産党事件は之に先行する推移変遷の過程に依って準備されたものである……」(第5号)「端的に之を云えば、共産党事件は甚(はなは)だ多量に社会的要素を含んでいるのである。従って之より引き出さるへ結論は、従来と同一の社会的条件が存続する限り、人をして左傾思想乃至左傾運動者たらしめることを止め得ないということである」(第6号)

 思想検事が、共産党は、社会の矛盾の産物であり、弾圧で壊滅できないと書き、司法大臣が、共産党捜査、取り調べのために、共産党の書物を読んだ検事や判事が、共産党にかぶれ、「木乃伊取りが、木乃伊になる」事を恐れていると、帝国議会で告白していることも、彼等に与えた衝撃の大きさを示す。「敗北宣言である」。科学的社会主義の優位を証明するものでもあったのだ。(引用は現代かな遣いに改めました) (おわり)
(よしおか・よしのり 元参議院議員)
(「赤旗」20080311-12)

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 序 思想検事とはなにか

特高警察と両輪をなす存在

 戦前、とくに十五年戦争下においては、社会運動が封殺され、「国体」に反するとみなされたすべての思想・言論・信教がきびしい取締の対象となった。その抑圧統制のテコとなったのが「治安維持法」を筆頭とするさまざまな治安法令であり、これを機能せしめたのが特高警察であったことはよく知られている。

 戦前治安体制の主軸が内務省・特高警察にあったことは疑いのないところである。とくに、小林多喜二が小説『一九二八年三月十五日』で描いたような拷問の残虐性は、特高警察が思想弾圧の最前線にあったことをよく示している(小林多喜二も一九三三年、その拷問の犠牲者となった)。しかし、抑圧統制をになったのは、決して内務省・特高警察のみではなかった。特高警察に収斂しきれない広がりと深さをもっていたところに、戦前日本の抑圧統制機能の特質と強靭さがあったのである。

 たとえば、反軍反戦の運動・思想を対象とした軍(思想憲兵)、学生運動・教職員組合運動の取締や教育をつうじての思想統制・動員をはかった文部省(学生部→思想局→教学局)と各府県学務部、反日・抗日運動の抑圧取締にあたった外務省警察(領事館警察)がある。だが、なにより注目すべきは司法部(司法省・裁判所)であった。それは、国内治安体制の一方の核として、いわば、特高警察と両輪をなす存在だったのである。

 司法省・裁判所は、治安維持法の成立と二度の「改正」を分担ないし主導する一方で、開法をはじめとする治安諸法令を運用して、「思想司法」と呼ぶべき機能を創出した。その運用の実質的な主体となったのが「思想検察」であり、その機能を人的に体現するのが「思想検事」(正式には「思想係検事」。一般には通称「思想検事」がもちいられる)であった。

「思想司法」の要として

 治安維持法違反などの思想犯罪の司法処理は、おおよそ、検挙──検察──公判──行刑という流れにおいてなされる(一九三〇年代後半以降はこれに保護観察と予防拘禁がくわわる)。検挙においては形式的には検事が司法警察官の指揮の権限をもつとはいえ、実質的には特高警察の独壇場といっていい。しかし、検察の次元はいうまでもなく、公判以降の過程でイニシアチブをにぎっていたのは思想検事であった。

 ちなみに、国内の治安維持法による検挙者で、警察から検事局に届出がされたものは約六万八〇〇〇人、そのうち検事局に送検されたもの約一万七〇〇〇人、検事の取調べで起訴処分となったもの約六六〇〇人であり、公判ではそのほとんどが有罪となっている(なお、植民地朝鮮において治安維持法は日本国内以上に猛威をふるい、起訴率が高かっただけでなく、有罪判決を受けた実人数も国内に匹敵する)。また、三六年から実施された思想犯保護観察制度で保護観察とされたのは約五三〇〇人(四四年六月まで)、四一年から実施の予防拘禁制度の該当者は六五人(四五年五月まで)であった(朝鮮における保護観察は約四一〇〇人〔四四年八月まで〕、予防拘禁は八九人〔四四年九月まで〕)。

 機構上からみて特高警察とくらべると、特高警察官の総数は最大時で九〇〇〇人前後(戦後のGHQの「人権指令」による特高関係者の罷免は約五〇〇〇人)と推測されるのに対して、思想検事の総数(官制上の定員)は最大時でもわずか七八人であった。しかし、人的規模でははるかに特高警察に見劣りしながらも、思想検察は治安体制のもう一方の基軸たりえたのである。

 それはなぜか。第一に、全治安法制の支柱であり、最強・最大の武器である治安維持法の立案・制定と「改正」をになうとともに、治安維持法の拡張解釈の論理を開発したからである。第二に「転向」方策をおもな推進力としつつ、送検後の思想犯の司法処理過程を実質的に掌握したからである。とくに、「転向」方策を編み出し、保護観察制度を創出したのが、思想検察であったことは注目すべきである。一方で、特高警察の暴力があり、一方で、「転向」や保護観察という方策のあったことが、戦前治安体制を強靭なものとしたのであった。

なぜいま「思想検事」か

 だが、戦前治安体制において、このような重要な位置を占めるにもかかわらず、思想検察=思想検事については、特高警察に比して、従来、あまり論じられてこなかったきらいがある。特高警察の解明だけでは、戦前の社会運動・思想・信教の押しこめられた暗黒状況を十分に説明しきれない。

 しかも、思想検事の場合、特高警察から戦後の警備公安警察へのつながりとはことなる重大な問題がある。ともかくも解体された特高警察とちがって、思想検察は直接、戦後の公安検察につながっていったことである。GHQの「人権指令」で特高警察関係者が多数罷免されたのにくらべると、多くの思想検察関係者はこのときの罷免をまぬがれただけでなく、そのまま戦後の司法改革をへても中枢的位置を占めていった。

 はやくも一九四七年に「労働係検事」、五二年には正式に「公安係検事」が各検察庁に配置されるが、戦前の思想検察から戦後の公安検察への継承は、人的にも抑圧の論理においても、ストレートであった(「公安保検事」配置が、治安維持法の復活ともいうべき「破壊活動防止法」制定と同年であるのは象徴的である)。このあたりは拙著『戦後治安体制の確立』(岩波書店)を参照していただきたい。

 本書では、以上のような間題意識をもとに、思想検察=思想検事の創出・展開の過程をたどり、戦前治安体制の構造と特質を考えたい。そして、さらに戦後の公安検察への継承の間題におよびたいと思う。
(荻野富士夫著「思想検事」岩波新書 p1-6)

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◎「思想検事が、共産党は、社会の矛盾の産物であり、弾圧で壊滅できないと書き、司法大臣が、共産党捜査、取り調べのために、共産党の書物を読んだ検事や判事が、共産党にかぶれ、「木乃伊取りが、木乃伊になる」事を恐れていると、帝国議会で告白していることも、彼等に与えた衝撃の大きさを示す」と。