学習通信080318
◎わが同胞はいぜんとして寛容と人道的態度を……

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ソンミ虐殺 忘れない
40周年式典 日本の被爆者ら参加

 【クアンガイ(ベトナム中部)=井上歩】ベトナム戦争中の一九六八年三月十六日、クアンガイ省ソンミ村(現ティンケー村)で米軍部隊が女性、子ども、老人ら無抵抗の民間人五百四人を虐殺したソンミ村虐殺事件の四十周年追悼式典が十六日、同村で開かれました。同省の党・人民委員会幹部や住民が「このような惨劇を二度と繰り返させない」との誓いをあらたにしました。

 式典には日本から原水爆禁止日本協議会(原水協)の澤田昭二代表理事(名古屋大名誉教授)ら四人の被爆者と、シンガー・ソングライターの横井久美子さん、学生、平和・民主団体のメンバーら約百人が参加。虐殺事件の際に数人のベトナム住民を救った元米軍ヘリコプター部隊のラリー・コルバーン氏、同村で平和記念公園などのプロジェクトを推進するマイク・ベイム氏ら数人のベトナム帰還米兵も参列し焼香しました。

 同省のグエン・ホアン・ソン副主席は「残虐な行為を私たちは忘れることはできない。しかし、いまは固執せず、世界の平和、繁栄の将来に向かうため協力する。あらゆる虐殺を繰り返さないためにソンミの虐殺を忘れるな、と世界の人びとにいいたい」とあいさつしました。

 式典には千人以上の地元住民が参加。チャン・ディックさん(68)は「私たちにとって特別な日。この日になると悲しくなる。外国から悲しみを分かち合いにきてくれる人は、歓迎だ」と話しました。
(「赤旗」20080318)

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補説
ベトナム戦争の世界史的意義

 人口わずか4000万の小国ベトナム民族が,最大最強の帝国主義国家アメリカ合衆国に15年間にわたる苦闘ののち,勝利して,ベトナム革命を成功させたことは,世界史のうえで画期的なできごとであった。これは15世紀の大航海時代以来,ヨーロッパの勢力の侵略の前に,抵抗しても,抵抗しても,ついに敗北せざるをえなかったアジア・アフリカ・ラテン─アメリカの諸民族の苦い歴史の連続を断ち切るものであった。

まさに,400年にわたる被抑圧民族の苦しみに終止符をうった世界史の流れを大きくかえる画期的なものであった。『ニヤンザン』紙がいうように,「帝国主義者たちがかれらの意志をおしつける時代は完全にすぎさった。大国が小国をおどしつけることのできた時代もまた完全におわった」のである。

 ベトナムの勝利は,また,民主主義の勝利であった。すでに1945年のベトナムの独立宣言は,アメリカ独立宣言を引用しつつ,それを現代に広義に適用すれば,「地球上のすべての民族は生まれながら平等であり,生存する権利,幸福かつ自由である権利をもつということである」とのべていた。

ベトナム戦争は,この民族の生存権の尊厳をかけた闘いであった。そして,この民族の尊厳を守るための闘いのなかで,ベトナムは人民の自発性を発揮させるために,最大限の民主主義が保障された。

ベトナムの人民解放軍のなかでは,将校と兵士とが互いに対する尊敬を基礎として批判しあう政治的民主主義,戦闘中も状況が許せばいつでも民主的集会が開かれる軍事的民主主義,財政を公開する経済的民主主義が貫徹していた。そして,軍隊と人民とのあいだにも民主的なつながりが確立していた。

こうした民主主義が徹底すればするほど,軍隊や人民の積極性・創造性をひき出し,困難・複雑な間題を解決するために,多くの知恵を集めることとなった。

 こうした民族の尊厳をかけた闘いは,世界各国の人民の連帯行動をよび起こさずにはおかない。ベトナム戦争ほど,各国人民の支持,連帯行動をよび起こした例は,世界史上かつてなかった。

しかも,その支持・連帯行動は,まさに人民の自発的な意志によるもので,こうした個々人の無数のあらゆる形の行動──カンパ・署名・集会・デモなど──が,ベトナム人民を支持する国際的集会が,ベトナム人民の奮闘とともに,間接的にはベトナム人民の勝利につながった。

こうした意味でも,ベトナム戦争は,まざに,民主主義の勝利であった。

 ベトナム戦争は,また,社会主義の勝利であった。中ソの不団結,それを利用してのアメリカの社会主義小国への各個撃破政策をはねかえした意義は大きい。これは,南北ともに,戦いながら,社会主義建設,民主的改革を進めたベトナム労働党の指導によるものであった。このことは,社会主義の優位性を示すものであった。

 さらにいえば,ベトナム戦争は人間性の勝利でもあった。

原爆以外のあらゆる凶悪な兵器を使用したアメリカ軍の残虐な戦争=「不正義の戦争」に,祖国の独立と自由を求めるベトナム人民の人間的な「正義の戦争」が勝利したということである。

このことは「人間性」にめざめたアメリカ兵が,アメリカ本土で反戦行動をはじめたことに端的にあらわれている。

また戦争中に人民自身の手によって,「ストックホルム法廷」や「東京法廷」のような形で,「侵略者」の残虐な行為が告発され裁かれて,有罪と判決が下されたのも画期的なことであった。
(「新講 世界史」三省道 p555)

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独 立 宜 言

 全国の同胞のみなさん

 すべての人間は生まれながらにして平等である。造物主は彼らにだれにもおかされない権利を付与しており、そのなかには生命、自由と幸福を追求する権利がふくまれている

 この不朽の言葉は、一七七六年のアメリカ合衆国の独立宣言のなかの言葉である。この語句をひろく考えると、全世界のすべての民族は生まれながらにして平等であり、いかなる民族も生きる権利、幸福の権利と自由の権利をもつことを意味している。

 一七九一年、フランス革命の人権および市民権宣言もつぎのようにのべている。

 人は生まれながらにして権利において自由、平等であり、かつつねに権利上の自由と平等を享受しなければならない

 それは何人も否定できない真理である。

 しかるに八〇年以上にわたり、フランス植民地主義は、自由、平等、博愛の旗を利用してわが国を略奪し、わが同胞を抑圧してきた。彼らの行動は人道と正義にまったく相反するものである。

 政治の分野では、彼らはわ、がベトナム人民にいささかの民主的自由も絶対に与えなかった。

 彼らは野蛮な法律を施行した。彼らは中部、南部、北部にそれぞれ異なった三つの制度を制定し、われわれの国家統一をさまたげ、わが民族の団結をさまたげた。

 彼らは学校の数よりも多くの監獄を建てた。彼らは、わがベトナムの愛国者たちを情け容赦なく殺害した。彼らはわれわれの諸蜂起を血の海に沈めた。

 彼らは世論をしめつけ、愚民政策を実施した。

 彼らはわが子孫を衰退させるべく阿片、アルコールを使用した。

 経済の分野では、彼らはわが人民を骨の髄まで搾取し、人民を貧困におとし入れ、わがベトナムを荒廃させた。

 彼らは田地、鉱山、原料を強奪した。

 彼らは、銀行券の発行と輸出人貿易を独占した。

 彼らは何百もの理不尽な税を設け、わが人民、とくに農民と商人を貧困の極におとし入れた。

 彼らはわが民族資本家の台頭をさまたげた。彼らはきわめて残忍に搾取した。

 一九四〇年秋、日本ファシストが連合国攻撃の基地を拡大するためインドシナを侵略すると、フランス植民地主義者はひざまずいて門戸を開いて日本をひき入れた。それ以来、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとにおかれた。そのときから、わが人民はますます困窮し極貧化した。その結果、昨年末からことしはじめにかけて、クワンチからバッキィにいたるまで二〇〇万人以上の同胞、が餓死した。

 ことし三月九日、日本はフランス軍の武器を接収し武装解除した。フランス植民地主義者は、あるいは逃走し、あるいは日本に降伏した。このように、彼らはわれわれを保護≠ナきなかっただけでなく、逆に五年間に二度も日本にわがベトナムを売り渡した。

 三月九日以前に、ベトミンはフランス人に連合して日本に抵抗するよう何度となくよびかけた。フランス植民地主義者はこれにこたえないで、以前よりもはげしくベトミンにテロを加えた。

 はなはだしきは、敗走するとき、彼らは、イエンバイとカオバンの獄舎にいた政治囚の多数を残忍にも虐殺していった。

 それにもかかわらず、フランス人にたいしてわが同胞はいぜんとして寛容と人道的態度を保持しつづけた。三月九日のクーデター後、ベトミンは多数のフランス人が国境を越えて逃走するのを助けるとともに、多数のフランス人を日本の監獄から救い出して彼らの生命と財産を守った。

 一九四〇年秋以来、事実上わが国は目本の植民地となり、もはやフランスの植民地ではなくなった。日本が連合国に降伏したとき、全国の人民は政権奪取に立ち上がり、ベトナム民主共和国を樹立した。

 わが人民はわがベトナムを日本の手からうばい返したのであって、フランスの手から取り返したのではないというのが事実である。

 フランスは敗走し、日本が降伏しそしてバオダイ帝(注)は退位した。わが人民は一〇〇年近くにわたる植民地主義の桎梏を粉砕して独立したベトナム国を樹立した。わが人民は十数世紀にわたる君主制をうちたおして民主共和制をうちたてた。

 このようなことから、われわれ、全人民を代表する新しいベトナムの臨時政府は、フランスの植民地支配から完全に離脱し、フランスがベトナムに関して調印したすべての条約を廃棄し、ベトナムの国土におけるフランスの特権をすべて廃止することを宣言する。

 全ベトナム人民は上下心を一つにして、フランス植民地主義者の陰謀に断固として反対する。

 われわれはテヘレンとサンフランシスコ両会議において、民族平等の諸原則を承認した連合国が、ベトナム人民の独立権の承認を拒むことはけっしてないと確信する。

 八〇年以上にわたって、フランスの奴隷のくびきに勇敢に抵抗してきた民族、この数年間、連合国の側に立って恐れることなくファシストに反対した民族、この民族こそ自由を獲得すべきである!

 この民族こそ独立を獲得すべきである!

 以上の理由から、われわれ、ベトナム民主共和国臨時政府は、全世界にむかっておごそかに宣言する。

 ベトナムは自由と独立を享受する権利があり、また事実上すでに自由と独立の国となった。ベトナム民族は、すべての精神と力、生命と財産をもってその自由と、独立の権利を守る決意をかためている。
 (「ホックタップ」一九七三年八月号)

*(原注)一九四五年九月二日、ホー主席は、この独立宣言をハノイの、バーデイン広場の五〇万の大衆集会で読み上げた。

(注)ダエン(民)朝最後の皇帝。一九四五年八月革命成功後の八月三十日、フエで、みずから退位 自願詔書を読み上げ退位した。
(ホーチミン著「わが民族は英雄」新日本文庫 p27-31)

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◎「残虐な行為を私たちは忘れることはできない。しかし、いまは固執せず、世界の平和、繁栄の将来に向かうため協力する。あらゆる虐殺を繰り返さないためにソンミの虐殺を忘れるな、と世界の人びとにいいたい」