学習通信080319
◎1945年3月10日……

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《潮流》

小田実さんの志を受け継ごう。九条の会講演会(八日)で、八人の語り手の深い思いが感動をよびました

▼鶴見俊輔さんは、小田さんの空襲体験にふれました。小田さんは十三歳の時、連日のように大阪空襲にあっています。戦後、一枚の写真を発見します。一九四五年六月の大阪空襲を、米軍のB29機の上から撮っていました

▼昼間というのに、大阪は真っ暗に写っています。その黒い煙の地獄の中に私はいたのだ……。と同時に、小田さんは気づきます。かつて、ニュース映画で日本軍機が中国大陸に爆弾を落とす場面を何度もみたが、黒煙の中で中国人がどうしているのか、いっぺんも考えなかった、と

▼小田さんは、写真をずっと部屋の壁にかけていたそうです。上からみれば、きれいでさえある場面。地獄の「現場」は「される側」に立たないと分からない。講演会で鶴見さんは、そうさとった小田さんをしのんだのでした

▼上空から見下ろした写真を言葉にかえた例に、四五年三月十日の東京大空襲についての米軍司令官の報告があります。「爆撃の結果は最高と考えられた。……濃い煙にもかかわらず火災をみることができた」。「写真を分析し……15・8平方マイルの市街地が破壊されたのである」と自慢げです(奥住喜重・早乙女勝元『新版 東京を爆撃せよ』から)

▼十万人もの命を奪った三月十日の大空襲。しかし報告書は、「目的が、一般市民を無差別に爆撃することでなかったことは注目すべきである」といってはばかりません。
(「赤旗」20080310)

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二つの「東京大空襲」

 1945年3月10日、東京の下町を大空襲が襲い、一夜にして10万人を超える人々が亡くなりました。そこで何があったのか。戦後63年の今年、二つの民放局が「東京大空襲」をテーマにした番組をつくります。

唯一残された33枚の写真

〈TBS系〉
 TBSは「シリーズ激動の昭和」と銘打ち、ドラマとドキュメンタリーで構成する「3月10日〜東京大空襲語られなかった33枚の真実」(TBS系で10日、後9・Oから)を放送します。

 ドラマは、東京大空襲の惨状を撮った警察官・石川光陽(仲村トオル)が主人公。警視庁の警務課写真係だった石川は、「記録を残せ」との特命を受け、大空襲の現場を命がけで撮影しました。報道機関の撮影が禁止された中、石川が残した33枚の写真は、東京大空襲を地上から写した唯一のものとして貴重な資料になっています。ドラマは、石川が残した日記をもとに描かれます。

 ドキュメンタリーは、大空襲に巻き込まれ、肉親を失った人々が、「語らずには死に切れない」とあの日の夜を証言します。番組は米国にも飛び、東京大空襲が周到な準備で実行されたことを浮き彫りにします。

 番組制作のきっかけは昨年3月、東京大空襲の遺族ら112人が日本政府を相手に謝罪・賠償を求めた集団訴訟でした。

 企画した島田喜広プロデューサーは、集団訴訟を報道した「イブニング5」の部長。「当時を知る人はどんどん亡くなり、早くしないと間に合わない。体験者たちは、『本当に起きたことから目をそらさない番組にしてほしい』といわれました」と語ります。

戦火のなか若者4人の姿

〈日本テレビ系〉
 一方の日本テレビは、開局55年記念番組として「東京大空襲」(日本系で17、18日、後9・Oから放送)をドラマ化しました。降り注ぐ戦火の中で、苦難にめげずに生きようとした4人の若者を、藤原竜也、朔北真希、瑛太、栗本幸が演じます。

 心臓が悪く、出征がかなわない博人にふんするのは藤原。「最初に台本を読んだときは、悲惨な描写やせりふが胸に突き刺さる感じがしてすごく落ち込みました」と話します。博人とひかれあう晴子役の朔北は、「恋愛を楽しんでいる時代ではないと思うので、常に時代背景を頭において演技をするようにしています」といいます。
(「赤旗」20080307)

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3月10日

陸軍のことば

 戦前ならきょうは陸軍記念日──明治三十七、八年の日露戦争に、日本軍がロシア軍を攻めて奉天を占領した日として、さかんに花火をあげ、すもうなどをして祝ったものだった。

 その陸軍は今はなく、その社会特有の言葉も今日は語り草になったが、それは一軒屋を「独立家屋」といい、靴を「編上靴(へんじょうか)」というような特殊な単語、ここデアリマスという特殊な言いかたを標準とする一種の方言であった。

 私が入隊した甲府の連隊では、風呂にはいることをニューヨクニハイルと言っていた。はるか離れた草地で身に付けたもの一切を脱ぎ、軍帽だけかぶって風呂場へ突進するのだから珍妙な風景であったが、それにしても、「入浴に入る」はおかしいと考えて、上等兵に申告する時に、「ニューヨクニハイッテマイリマス」という代りに、「ニューヨクに行って参ります!」と言ったら、「キサマはまだ地方の言葉を使うか!」と叱られた。変でもなんでも、きまった言葉を使うところであった。
(金田一春彦著「ことばの歳時記」新潮文庫 p93)

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言語の標準化

 ところで、軍隊教育の立場からすれば、身体の規律化の前提になければならないのは、言語の標準化である。言うまでもなく、地域言語ともいうべき方言で育った兵土たちに、標準化された軍隊教育をうけさせるためには、言語自体の標準化を必要としたからである。

この点について、近衛歩兵第一連隊の仁平純(階級は不明)は、「兵語としての口語及文章語に就て」の中で、「しかも談話体の言談は地方によって方言使用の結果、東馳(すう)、西馳〔東のはて、西のはて〕の人相寄り集りての談話の如きは、殆んど外国人と相対するが如き観がある、殊に甚しき方言に至つては、一種異様なる語尾の変化を有し、或は聞くべからざる野卑極まる言語がある」とした上で、「今日に於ける漢字、文章語、口語との調和をはかり、そうして完全なるところの兵語を創作したいのである」と提唱している(『軍事界』第三号、一九〇二年)。

 そうした意味での「兵語」がいつ頃形成されたのかは、よくわからない。しかし、「兵語」が軍隊生活の体験者を通じて、一般社会の中に浸透していったのは確かである。一八九九(明治三二)年に出版された久留島武彦の『国民必携陸軍一斑』は、すでにこの時点で次のように述べている。

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 そこで軍隊には「兵語」と云ふものが定めてあって、此を日常習用せしめる、で一般の冗長な転訛(てんか)多い世開通用語に耳慣て居る新人の兵には、はた局外者にはすこぶる不思議な言語に聞ゆる、が一度此の兵語が身に人て来ると之を兵営内で用ゐる耳(のみ)でない、世間に対しても使ふやうになる。
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 こうして、軍隊における「兵語」の修得を挺子にして共通言語の形成がなされることになったのである。

 興味深いのは、軍の側にも、そうした自覚があったことである。陸軍歩兵中尉・原田政右衛門が一九二一(大正一〇)年に出版した『大日本兵語辞典』で、「通用語」の項目をひいてみると「其土地其土地によりて言語の統一せざるとき、何(いず)れにも通ずるやうに定めたる言語、昔は謡(うた)いの文句を以て通用語となし今日は軍隊の言語が全国の通用語となり居れり」と誇らしげに説明されている。

なお、文中の謡の話は、幕末から明治の初年にかけて、西国と東国の武土が出会った時に、お互いに方言がひどくて話が通じないため、謡曲を使って会話をしたという広く語りつがれている伝承のことをさしている。

 また、この辞典に収録されている「兵語」を逐一みてみると、今ではごく普通の日常的な日本語となってしまっているものが、元来は「兵語」であった事例が少なくないのに、驚かされる。

 さらに、戦後の日本語の中にも、特殊な「兵隊言葉」がそのまま普通の日本語として定着してしまった事例が少なくないようだ。例えば、「残飯」、「点検」、「たるんでいる」、「ボサッとしている」、「処置なし」、「ハッパをかける」、「気合をかける」、「割喰った」、「適当にやる」などがそれである(大久保忠利「生きている「兵隊コトバ」」、『思想の科学』第五巻第一号、一九四九年)。

標準化の困難さ

 以上みてきたように、軍隊教育は言語の標準化の有力な挺子となったが、ここでは次の二点について補足的な説明をしておきたい。一つは、陸海軍間の差である。「兵語」には、流言(なまり)による誤解を避けるため漢音読みを多用するという特徴があるが、陸海軍間では若干の違いがあった。具体的にみてみると、漢字漢語万能主義の陸軍に対し、海軍では、英語が多く用いられるとともに、「よーそろー」(宜う候)に代表される「やまとことば」がかなり取り入れられている(額田淑「海軍の言語生活」、『言語生活』一九六〇年一一月号)。

 もう一つは、やはり言語の標準化自体が、それほど簡単に達成されたわけではなかったことである。例えば、大阪の歩兵第八連隊では、後述するように下土官の志願者が少なかったため、他の地域の部隊から下士官を補充する場合が多かった。一九二一(大正一〇)年に同連隊に入営した大野龍太郎の班長も、そうした東北出身の軍曹であり、たちまち、次のような問題が生じたという(『歩兵第八連隊史』非売品、一九八三年)。

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 その班長さんについて、我々初年兵が困ったことは、言葉であった。ナマリと東北弁は中々耳なれせず、班長さんの言葉を理解するのに全く弱った。秋田生れと言う班長さん自身も、我々に出来るだけ解りやすくするために、発音に気をつけ、並々ならぬ努力を払い、我々が正しく理解するまで何回でも反復して指導してくれた。
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 また、沖縄県出身者には固有の問題があった。日本の場合、人営はすべて本籍地を基準にして行なわれ、原則として歩兵は本籍地が属する連隊区の歩兵連隊、砲兵などのその他の兵種は本籍地が属する師管区の部隊に人営する。つまり、各地域は、その地域の出身者を中心にして編成された郷土部隊を持っていて、そのことが軍隊と各々の地域の人々の間に独特の一体感をつくり出していたのである。

 ところが、沖縄だけは固有の郷上部隊を持たず、沖縄連隊区から徴集された歩兵は、九州各地の歩兵連隊に分散して人営させられた。このため、沖縄県出身者は、とりわけ厳しい環境の下におかれたのである。一九〇九(明治四三年に小倉の歩兵第一四連隊に人営した中野紫葉は、一九一三(大正ニ)年に出版した『新兵生活』の中で、こう書いている。

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 我班に沖縄兵が五名許(ばか)り居る。渠(かれ)等は実に可愛相である。風俗、言語を異にし、母郷を去って雲煙万里の内地に来て居る。〔中略〕渠等は東西已に不明である。内地人の中に加つて言語を冒頭に覚えねばならぬ。
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(吉田裕「日本の軍隊」岩波新書 p27-32)

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◎「本当に起きたことから目をそらさない」と。