学習通信080324
◎民間人を襲うという戦争の醜さが無残にしめされた愚行……

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芸 文 余 話
東京大空襲を振り返る

 第二次世界大戦終結から「××周年」の節目でないにもかかわらず、今年は一九四五年三月十日の東京大空襲を振り返る機運が盛り上がった。日本テレビ系列が十七、十八日の二夜連続でドラマ「東京大空襲」を放映した一方、被災地の墨田区では「戦争レクイエム(鎮魂曲)」が二度、すみだトリフォニーホールで奏でられる。

 「戦争レクイエム」は英国の作曲家ベンジャミン・ブリテン(一九一三〜七六)が六二年に自身の指揮で初演。楽曲全体が鎮魂の静けさと、戦争体験の痛みに貫かれる。

 音楽監督クリスティアン・アルミンク指揮の新日本フィルハーモニー交響楽団による演奏(九日)はトリフォニーを本拠とする楽団ならではの祈りに満ち感動的だった。

 二十三日、同曲を同会場で演奏する群馬交響楽団(高関健指揮)もまた、東京大空襲と意外な縁で結ばれている。高崎市内の本拠、群馬音楽センターはアントニン・レーモンド(一八八八〜一九七六)の設計で一九六一年に完成。レーモンドはチェコから米国へ移住したライト門下の建築家で、戦前、戦後の日本で活躍した。戦時中は米国へ戻り、米軍の依頼で焼夷弾の実験のため、木造家屋が連なった下町の町並みを再現した。

 群響事務局長、群馬音楽センター館長などを歴任した新井浄・京都市交響楽団次期音楽主幹によれば、レーモンドは自伝の中で「日本を負かす意味のある道具をつくることは、容易な課題ではなかった。日本への私の愛情にもかかわらず、この戦争を早く終結させるには……」と苦渋の心境をつづったという。ユダヤ系ゆえ、姉弟五人をナチスの大虐殺で失ったレーモンドもまた、戦争に運命を翻弄された一人だろう。群響が墨田でブリテンを演奏することには「レーモンドへのレクイエムの意味もあるのではないか」と新井さんは考えている。(編集委員池田卓夫)
(「日経 夕刊」20080322)

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東京大空襲と落語界
二度と戦争は起こしてはならない
柏木 新

 戦争ほど愚かなものはない。「戦争と落語」をめぐっては、いわゆる「禁演落語五十三題」の話が有名だが、太平洋戦争段階となると新作派の落語家だけでなく、古典派といわれる落語家も新作をつくり、国策落語(新体制落語)を演じざるをえないなど事態はますます深刻となっていった。そして一九四五年(昭和二十年)に東京大空襲が起きた。無差別攻撃で民間人を襲うという戦争の醜さが無残にしめされた愚行であった。その時、落語界はどうなったのだろうか。

少なくない
芸人の命が

 三月九日夜から十日未明にかけての東京大空襲では、死者十万人余という大被害となった。この大空襲で少なくない芸人も命を奪われている。講談落語協会会長六代目一龍斎貞山、落語家の柳亭左喬、「蝿取り」の珍芸が売り物だった立花家扇遊、中国奇術の吉慶堂李彩、大神楽の寿家岩てこ、同じく大神楽の丸勝、新内の武蔵太夫などだ。

 その後の五月二十五日の最後の東京大空襲では、芸人ではないが「禁演落語」のまとめ役だった講談落語協会顧問の野村無名庵、落語家の四代目柳家枝太郎が命を奪われている。隅田川に流れていた一龍斎貞山の遺体は、誰ともわからぬまま上野の山へ運ばれ、偶然知人に発見される。八代目林家正蔵(彦六)が『正蔵一代』の中で「……講談落語協会会長の最後としたら、実にみじめなもんです」と語っている。

娘を失った
柳亭痴楽

 東京を襲った三月、四月、五月の大空襲によって、ほとんどの芸人が家を焼け出されている。そして死んだ芸人だけでなく、家族を失った芸人も多い。寄席文字の橘右近は妻子を失い、あの「綴方狂室」の四代目柳亭痴楽は娘(生まれたばかりの赤ん坊)を失っている。

 痴楽は本所緑町に住んでいたが、そこで三月の大空襲にあい、赤ん坊を背負い妻と逃げた。逃げても逃げても焼夷(しょうい)弾と火がふりそそぐ。まわりは死体の山。そこは地獄絵だ。衣類に火がつき、赤ん坊の身体にも火が降りそそぐ。途中で防空壕(ごう)に入れてほしいと頼んだが、どこもいっぱいで断られ、焼夷弾を避けるため痴楽と妻は必死の思いで死体の山に潜り込んだ。

 痴楽と妻は何とか命を守ることができたが、火傷を負った赤ん坊の命は守れず、十日の明け方に亡くなった。痴楽夫婦は「せめても」の思いで、知人から女物の着物をもらって、赤ん坊を女性の姿で弔った。

残った寄席は
たった一軒

 東京大空襲で東京は焼け野原となった。東京中の寄席もほとんど燃えてしまい、残ったのは人形町末広亭一軒というすさまじさであった。のち林家三平の妻となる海老名香葉子は、この大空襲で家族六人を失い兄と二人戦災孤児となった。そのことを海老名香葉子は『うしろの正面だあれ』などに書き、上野に「母子像と慰霊碑」を建てている。現在、柳家さん八(当時一歳)は祖母などから聞いた話をもとに実録噺「私は見ていた?東京大空襲夜話」を演じている。多くの悲劇をつくりだしている戦争は二度と起こしてはならない。
 (かしわぎ しん・演芸評 諭家)
(「赤旗」20080324)

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レーモンドは自伝の中で「日本を負かす意味のある道具をつくることは、容易な課題ではなかった。日本への私の愛情にもかかわらず、この戦争を早く終結させるには……」と。