学習通信080326
◎さくらが生命の花だったからでは……

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《潮流》

最寄り駅に近い神社のサクラが咲きました。こずえに十輪ほど、少し離れてまた一輪

▼乳母車を押す若いお母さんが、赤ちゃんをあやしながら、木の下をのんびりと通り過ぎていきました。咲いたばかりのサクラの花も、目覚めて目を見開いた赤ちゃんのように、汚れを知りません。うららか。ほかに言葉がみつかりませんでした

▼サクラという名も、「咲くうららか」がつまってできた、という話をききます。いや、動詞のサク(咲く)にラがついて名詞になったのだ、と説く人もいます。ちょっとかしこまっているのが、「田んぼの神様が座る花」という説です

▼サは稲の精霊、クラは座をさすというのですが、支持する人は少ない。しかし日本人は、サクラのころに稲作を始め、花の咲きぐあいで米の出来ぐあいも占っていたそうです。サクラは、農耕と縁が深い

▼花期の短いサクラは、人の一生を縮めて重ねみることもできる花です。開花には誕生を、三分咲きのころは花も恥じらう思春期を、花盛りには働き盛りを。そして、行く末をみつめる散りぎわ。同じ満開の下でも、さまざまな時間が流れていきます。花の宴のにぎわい、楽しさから、一人たたずむときの孤独まで

▼「われも桜の木の下に立ちてみたれども/わがこころはつめたくして……」。詩人の萩原朔太郎がうたったように、爛漫のサクラがかえってさみしさや悲しみをきわだたせるときはあります。しかし、春のうららかさが、それさえも包みこんでくれるに違いありません。
(「赤旗」20080323)

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第一章
さくら讃歌−序にかえて

 日本の春

 日本の春は長い。
 暦の上でいえば、厳寒期にはもう新春が訪れる。明治五年(一八七二)に太陽暦を採用してから日本の春はより長くなった。立春までにはまだ三十数日を数えねばならない。それだけに花の季節が待ち遠しいのだ。

 春の訪れはまず空の色から始まる。裸の雑木林の梢の奥に冴え冴えと広がってどこまでも澄んでいた蒼穹(そうきゅう=あおあおとしている空。あおぞら。)が、ある日ふと潤んで来る。気がつくと風が止んでいる。それから何度か柔らかい雨があって、林はみずみずしく匂い立って来る。林の南縁の小道に沿って、そこここにかたくりの蕾がひっそりと膨らんで来る。空は董色(すみれいろ)になる。

 その頃になると「さくら前線」の北上が告げられる。平野を囲む丘陵ではまだ裸のままの木々に混じって、そこだけが灯りのともったようにヤマザクラが咲き始める。古代人たちにとっては、さくらの開花は山の神の里への降臨の告知であった。彼らは里を訪れた神を斎き祭り、神と酒食をともにし、その年の豊穣を祈る。さくらは古代人にとって大切な農事暦であり、その開花は一年の吉兆を予兆する聖なる樹でもある。桜樹信仰という古代人たちの素朴な祈りは今も日本の春に生きている。

 花便りで人びとは重いコートを脱ぎ捨てる。そして、新しい年度が始まる。さくらは人びとの一生に忘れ難い節目を刻む。私たちの回想する幼年時代の原情景には、どこかにさくらの花がある。

 それは母の手にひかれた小学校の入学式のそれであったり、行楽の日の父の背に負われて見たそれであったりする。──眼を閉じてさくらの花を思い浮かべてみるといい。明るい、明るすぎる春の陽の中に満開の花が輝いている。その私たちの記億のなかのさくらは中軸の淡桃色のさくらでなくてはならない。

 間違いなければ、私たちの回想の原情景に咲くさくらは、江戸時代も終わりのころ偶然のいたずらが創り出した新しい里桜の一種ソメイヨシノ(染井吉野)なのだ。このさくらはオオシマザクラ(大島桜)という南関東に自生する山桜とエドヒガン(江戸彼岸)の自然交配によって生まれた新しいさくらだった。

 このさくらは育成が容易なことと、親木のオオシマザクラの大輪咲きを受け継ぎ、花つきも多く、なによりも嫩葉(わかば)の芽立ちより先に開花する。新しいものに極端な嗜好を示す江戸人は競ってこの新しい里桜を植えた。

 ちょうど時代は明治維新の転換期で、あたらしい首都となった東京には地方から多くの人びとが上京し、この新しいさくらを愛でたであろう。「御一新」がソメイヨシノの流行を全国的に増幅したのは想像に難くない。やがて、明治の中頃までにはこの新品種の植樹によって、日本の春の景観は一変してしまった。

 桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!

 この梶井基次郎の一行ほど昭和文学を震憾させた言葉は見当たらない。屍体を抱いたさくらの根が、その腐蝕した屍体の漿液を吸い上げ、それがあの美しい花を咲かせるというイメージは、さくらの美を描いて衝撃的だった。

 人は花盛りの桜樹の下に立って梢を見上げる。空は花に隠されて見えない。群がり咲いている花を眺めているとき、人は不意にこの梶井基次郎の一行に襲われる。そして、一種名状しがたい戦慄を覚えるのだが、それはソメイヨシノというこの里桜の属性によるものだろう。

 梶井が見たであろうさくらはいまも伊豆の天城の麓、湯ケ島温泉の世古峡(せこきょう)の高い断崖の上に残っている。このさくらの真向かいが梶井が一年ほど療養生活を送った湯川屋である。昭和二年(一九二七)四月、彼は湯川屋二階の六畳の部屋からこのさくらと対していた。そのさくらの背後は暗い杉の植林である。常緑樹の暗い緑を背景に花は峡谷の光を浴びて咲き誇る。

 この世古峡にいまも残るさくらは、それはまぎれもなくソメイヨシノだった。梶井が見たおりは樹齢十数年の若いさくらだったのではないか。樹勢の最も盛んなころである。しかし、《桜の樹の下には……》の一行は鬱蒼(うっそう)たる老樹こそふさわしい。樹齢がなかば尽きながら、それでも生命力を示すような新しい数本の若い梢を芽ぶかせた老桜を幻想させる。闇にほの白く浮かんで人の心に妖しい夢を呼び覚ますためには、ソメイヨシノの老樹でなくてはならない。自生種のヒガンザクラ(彼岸桜)やミネザクラ(嶺桜)のような小型の花つきの少ない山桜には風情はあっても、ソメイヨシノのような繚乱たる姿に遠い。死の幻想と戦慄を呼び覚ますにはこれらの山桜は清楚すぎた。

 さくらが死の花であるためにはどんな豪奢な里桜でも似合わない。《桜の樹の下には……》の一行はソメイヨシノの出現によって初めて書かれ得ることばだった。

 さまざまのさくら

 さまざまの 事おもひだす 桜かな−芭蕉

 貞享(じょうきょう)五年(一六八八)の芭蕉の吟草である。花の思い出はさまざまだが、花もまたさまざまなのだ。さくらが現在のようにソメイヨシノー色に塗り変えられる以前のさくらは、もっと多様なものであった。

 日本のさくらの自生種は、サクラと名づけられたものまでを入れると約十五、六種ある。この中にはウワミズザクラ(土浦桜)やイヌザクラ(犬桜)のような、私たちが日頃見馴れたさくらとはおよそ似ても似つかぬさくらもある。このうちで比較的よく知られている自生種のさくらはおよそ次のようなものである。

 ──エドヒガン(江戸彼岸)・ヤマザクラ(山桜)・オオヤマザクラ(大山桜―蝦夷山桜)・オオシマザクラ(大島桜)・ミネザクラ(嶺桜)・マメザクラ(豆桜―富土桜)・カスミザクラ(霞桜)・ミヤマザクラ(深山桜)・チョウジザクラ(丁字桜)・オクチョウジザクラ(奥丁字桜)など。

 これらのさくらは園芸品種として作り出されたさくら、つまり、里桜に対して山桜と呼ばれている。オオシマザクラは伊豆・三浦半島や南房総の自然破壊の過程で生まれた突然変異種だそうで、他の自生種のさくらと同様、嫩葉(どんよう=わかば)が先ず萌立って、やがて真白な大輪の数多い花房を咲かせる。苗木がソメイヨシノに酷似しているためか、公園や道路のさくらの植樹に混じっていることがある。鮮緑色の嫩葉と純白の花はその香り高さとともに、いかにも清楚な気品のあるさくらだった。

 東京・九段の靖国神社の社殿前に、ソメイヨシノに混ざって二、三本このさくらがあった。白いさくらといえば、マメザクラ系の自生種に富士、箱根地方に分布するリョクガクザクラ(緑萼桜)がある。嫩葉も葉柄も、もちろん萼も名のとおり鮮緑色のさくらである。白いさくらは梨の花のようであるが、その薄い花びらには梨の花にない暖かい繊細な情感がある。

 園芸品種、いわゆる里桜にはオオシマザクラのハ重咲きのシロタエ(白妙)、アマヤドリ(雨宿)やカスミザクラのウスズミ(薄墨)がある。

 自生種のさくらは樹齢が長い。園芸品種のソメイヨシノはほぼ七十年で樹齢が尽きる。この品種が発見された幕末からの老桜がのこっていないのは、保守の不備や災害のためではなく樹齢の短さに因るのだった。

 樹齢千五百年のさくらといわれる岐阜県本巣郡根尾村の根尾谷の薄墨桜は天皇ゆかりの伝説と宇野千代の『薄墨の桜』で有名だが、これは里桜の品種としてのウスズミではなくヒガンザクラである。神代桜と呼ばれる各地の老桜の多くはヒガンザクラ、つまりエドヒガンか、それから派生した変異種の里桜であるシダレザクラ(枝垂桜)である。有名な福島県の三春の滝桜はベニシダレ(紅枝垂)だった。

 こうした自生種のさくらに対して園芸品種、つまり、里桜は約二百種あるそうだ。シダレザクラも里桜の一種だがこれは自生種に近いものだろう。このさくらからはベニシダレ(紅枝垂)、チチブベニシダレ(秩父紅枝垂)、ヤエベニシダレ(八重紅枝垂)が派生している。ソメイヨシノ以前には最も愛でられたさくらだった。京都の春に咲く平安神官の神苑のさくらはこのヤエベニシダレだった。

 ソメイヨシノ以前のさくらは夢みる花であっても、死の影の忍び込むさくらではなかったようだ。古代人のさくらへの祈りを意識の奥に受け継ぎながら、甦る春に生命の歌を見る夢幻の花だったに違いない。

 さくらが王朝和歌にとって最も重要な主題であったのは、さくらが生命の花だったからではなかったか。

 しかし、現代の最前線で創造を続けているクリエーターたちにとっては、およそ、さくらなどは一顧の価すらないらしい。彼らに、もうさくらは創造を喚起するなにほどの力をも持っていないのであろう。それを都市空間が生態系を破壊してしまったなどと、裁断的に批評してしまうつもりは毛頭ない。この種のさかしらな批評は、彼らのいう都市空間を浮遊している情報産業の周辺にいくらでもいるライターという人種にまかせて置けばよい。

 私たちは毎年さくらを見ながら、さくらを忘れて久しい。忘れないまでもさくらはさくらただ一種なのだ。

 《さまざまの事おもひだす……》という芭蕉の句ではないが、日本文化の桜観は現代の私たちの貧しい桜観ではなかったはずだ。──それをもう一度、日本の伝統文化の中にたどってゆきたい。
(小川和佑著「桜の文学史」文春新書 p7-13)

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「花期の短いサクラは、人の一生を縮めて重ねみることもできる花……開花には誕生を、三分咲きのころは花も恥じらう思春期を、花盛りには働き盛りを……そして、行く末をみつめる散りぎわ……同じ満開の下でも、さまざまな時間が流れ……花の宴のにぎわい、楽しさから、一人たたずむときの孤独まで」と。