学習通信080401
◎若者たちのバイブル的存在……

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高橋源一郎さん
雨宮処凛さん
 作家対談で話題に

「『蟹工船』は今のフリーター」
「学生が『自分と同じだ』と」

 新年早々、毎日新聞九日付の作家対談で小林多喜二の『蟹工船』が話題になりました。話し合ったのは若年貧困層の悲惨な実態を訴え続ける雨宮処凛(かりん)さんと、団塊の世代の高橋源一郎さん。

雨宮……昭和初期の作品ですが、たまたま昨日、『蟹工船』を読んで、いまのフリーターと状況が似ていると思いました。

高橋……偶然ですが、僕が教えている大学のゼミでも最近読みました。そして意外なことに、学生の感想は「よく分かる」だった。僕は以前、「昔はプロレタリアというものがいたんだ」と、この小説を歴史として読んだけれど、今の子は「これ、自分と同じだよ」となるんですね。

 獲った力二を船内で缶詰にする蟹工船は、航海法も工場法も適用されない無法地帯でした。その悲惨な労働をリアリズムで描いた多喜二の作品が、ルール無視の雇用破壊に直面する青年たちの心をとらえています。

 対談で高橋氏は「『現実』が貧困と共にUターンしてきた。僕の30代ごろはリアリズムが古ぼけていたけれど、今はそれが面白い」とリアリズムを再評価。

 首都圏青年ユニオンや反貧困ネットワークなどに結集した若者たちの反撃も始まっています。雨宮氏は「(自分だけでなく)全員が幸せになれないことをおかしいと思う人も増えている。これは希望ですね」と語っています。
(「赤旗」20080118)

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名作をたのしむ
小林多喜二『蟹工船」
作家 雨宮処凜

『蟹工船』 立ち上がる若者たちのバイブル

──貧困問題にとりくむ市民団体や労働組合などが集まる「反貧困ネットワーク」の副代表をつとめ、貧困に苦しむ若者の代弁者として発言を続ける雨宮処凛さん。作家・高橋源一郎さんとの対談(「毎日」 一月九日付)のなかで「プロレタリア文学が今や等身大の文学になっている」「蟹工船がリアルに感じられるほど、今の若い人の労働条件はひどい」と語り、話題になっています。

 すごいプロレタリア文学

 雨宮……一昨年ごろから私の周囲にいる生活も仕事も心も不安定な若者、いわゆる「プレカリア一ト」たちの間から「プロレタリア文学はすごい」「今の自分たちに一番必要な文学として見直すべき」という声が多くあがっていました。

 それで「蟹工船」を読んでみたらすごく泣けた。法律の網をくぐった蟹工船のなかで労働者の命が簡単に捨てられた、という悲惨な場面に泣けたのではなく、最後に労働者が立ち上がりますよね、あの場面で泣いてしまった。苦しめられていた人たちが反撃を始めた、というところが今の私たちの状況に一番近いと思って。

 ※プレカリアート
「不安定な=precario」を意 味する形容詞とプロレタリアート(労働者)を合わせた造語

──函館からカムチャッカ海域へ出漁する蟹工船。「「工船」(工場船)であって「航船」ではない。だから航海法は適用されなかった。……蟹工船は純然たる「工場」だった。然し工場法の適用もうけていない。それでこれ位都合のいい、勝手に出来るところはなかった」(本文より引用)。現代の偽装請負による違法な働かされ方をほうふつとさせます。

 雨宮……「蟹工船」に「函館の労働組合は蟹工船のなかに組織者を入れることに死に物狂いになっていた」というくだりがあるのですが、プレカリアートの活動家たちも日雇い派遣の労働現場に入っていって組合を組織しています。現在、派遣大手のグッドウィル、フルキャスト、エム・クルー、マイワークの四社で組合が結成され、それぞれの職場で身をもって違法を告発しているというところもまさに「蟹工船」と同じです。

 派遣や請負で働く人たちに話を聞くと、昭和四十年代のトヨタの季節労働者のルポ『自動車絶望工場』(鎌田慧著)を読んでいる人がけっこう多いのですが、彼らは『自動車絶望工場』の時代がうらやましいといいます。直接雇用だし、正社員になれる道もあるし、給料もいい。そんな人たちに一番フィットしたのがプロレタリア文学だったと思います。

 仕組まれた「自己責任」

──ニートやフリーターになるのは自己責任、と思いこまされてきた若者たちが変化し、手をつなぎ始めている。そこに希望があると雨宮さんはいいます。

 雨宮……私たちは生まれたときから競争、競争で、勝ち続けなければ生きていけないと思っていました。周りはみんな敵でみんなライバル。格差社会だからこそ、一人でも敵をけ落とさなければ、と。人を信じたら出し抜かれる。だから私は人を信じることができませんでした。

 大学進学をあきらめてアルバイトを転々としていたころ、「こんな競争に勝ち抜けないようでは社会に出ても通用しないぞ」といっていた学校の先生の言葉は本当だったと思いました。競争を否定するということは、それまでの自分が否定されるということ。「自分が悪い」という自己責任論は、そこをうまく利用していると思います。

 「蟹工船」のときよりも、現実はより巧妙でより残酷です。生まれたときから「自己責任」をすりこまれる一方、国をあげて「構造改革」の名のもとに雇用の不安定化がすすめられてきました。「人を出し抜け」といわれて社会に出た瞬間、ほんのひとにぎりの人間しか幸せになれない時代になっていた。九〇年代後半から、私の周囲では自殺する人がとても多かったのです。でも十年かかって「死んでもしようがない」と思い始めている。信じあうことができなかった私たちが「もう生きていけない」というどんづまりまできて「これ以上分断されてもしようがない。この分断工作にはまってたまるか」と気づき始めている。

 階層を超えて手を結ぶ

 ノルマが達成できなくて暴力を受けたり、簡単に解雇されてしまうなどまるでモノのように扱われてきた人たちがやむにやまれずに「首都圏青年ユニオン」など、一人でも加盟できる労働組合に、相談にやってきます。そして自分たちで組合を立ち上げる、という例が今や無数にあります。人間扱いされてこなかった人たちが、やっと立ち上がったのです。そんな人たちのなかで「蟹工船」はよく読まれています。

 彼らは連帯≠ニか組合≠ニか、絶対一生かかわらないと思っていたような人たちです。そこでは元暴走族や親がいなくてホームレスになった人もいれば、高学歴で私たちが説明できないことをうまく読み解いてくれる人もいる。「蟹工船」でも学生や炭鉱夫など出身階層がばらばらな労働者が手を結びますよね。同じだなあと思います。「蟹工船」は、解雇されて組合を立ち上げた若者たちのバイブル的存在です。
(「女性のひろば 08年5月号」日本共産党中央委員会 p48-51)

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「「蟹工船」を読んでみたらすごく泣けた……法律の網をくぐった蟹工船のなかで労働者の命が簡単に捨てられた、という悲惨な場面に泣けたのではなく、最後に労働者が立ち上がりますよね、あの場面で泣いて……苦しめられていた人たちが反撃を始めた、というところが今の私たちの状況」と。