学習通信080403
◎自ら変わり、行動を始める節目……
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鎮魂譜
新春そうそう、この世は成人式の若やぎでさんざめいているころ、私のいとこが首をくくって死んでしまいました。私より少し年下の、とても親しいいとこの死です。いとこの父、すなわち私の母方の伯父岩橋武夫のひとり息子です。伯父は若くして突然失明し、苦難の中にライトハウスを日本で最初に作りあげ、盲人福祉の実現に五十歳あまりの短い人生を捧げた人です。
三年前亡くなった私の母は、その兄の苦悩の青春期、杖のように、影のように、女学校も中退してよく兄の世話をしました。兄のためにのみ生きているというような時、さながらそのことの意義づけのように、日本ではそれがまだ珍しい時代に高等教育機関に学ぶようになった兄の学友の一人と深く愛しあい、やがて結婚しました。そして私が生まれ、断腸の思いで祝福しつつ妹を手放した伯父もまた結婚し長男が生まれました。いとこも私も、親たちの光芒にきらめく青春期にこの世に生を受け、そして盲目という重大な障害とむきあう人生を送った人と深くかかわっているのです。
両親や伯父たちの若い頃の話はいつも私の心にひびくのでした。生きることの意義づけをひとりでに私は学んでいました。いとこは伯父の志をつぎ、戦後のライトハウスをいろいろと発展させましたが、なぜか四十三歳でみずからも失明しました。以後十五年、いとこはいっそう奮闘に奮闘を重ねましたが、さまざまの重荷がついに彼の玉の緒を切ってしまいました。
若くすこやかな人たちよ、どうか障害ある人の世界をあなたの心のどこかで受けとめて下さい。涙を流し、杖をひき、指文字を書いて人生を苦闘しつつ生きている私たちの友に手を重ねて下さい。
私の親たちの世代がそうしたように、あなたがたもまたその人たちとどこかで歩調をそろえて下さい。まだまだ可能性を残しつつ、急ぎ足でこの世を去った私のいとこの魂のためにおねがいします。
(寿岳章子著「はんなり ほっこり」新日本出版社 p22-23)
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日本ライトハウス創立者 岩橋武夫
天声人語
◆愛盲事業に一生をささげ、数々の業績を残したライトハウスの主、岩橋武夫氏の死を一番悲しむ人は、おそらくヘレン・ケラー女史ではあるまいか。
◆人間苦につながり人間愛に固く結び合った二人の交友は二十年にもわたり、岩橋さんは心の光としてケラー女史を仰ぎ、女史の二回にわたる来日の橋渡しをした。氏が贈った金色のカナリヤがなくなったとき、女史は可愛いタケオが死んだといって泣いたそうである。
◆早大在学中に失明したその打撃は想像に余るが、狂わんとする心の舵を取り、励ましたお母さんがあったから、今日まで生きて来られたのだと、岩橋氏は口ぐせのように語っていた。
◆傷心癒ゆべくもなかったろうが、神戸時代の関西学院文学部に転じてのちの不自由な通学に、雨の日も風の日も文字通りその杖となって助けたのは、令妹と、後に令妹と結ばれた学友の寿岳文章博士であった。当時男ばかりの学校に紅一点の姿も日立ったが、盲兄に代ってノートをとる女性の姿は学内の同情と敬愛を集めていた。
◆人生悲痛の底に陥った岩橋氏が人間らしい感情をとりもどし、快活な学生となり得たのは、全くこの母とこの妹と友人の献身的な愛情に温く包まれたからであろう。その意味では恵まれた環境であったともいえようし、氏の事業はこうして生れたともいえよう。
◆愛盲福祉事業、学校経営、点字出版、それに愛盲事業を通しての日米親善など、失明苦に徹した宗教的な感情が、この困難な事業に献身させた。今ほど社会事業も愛盲事業も一般に理解も普及もされていない時期のことだ。事業を維持し進めるものは氏の不屈の闘志と努力しかなかったのである。信ずる道への熱情が時に摩擦も起したが、それを身体不自由者の偏狭と解するのは当たるまい。
◆愛こそ人生の灯火である。岩橋氏の一生こそ、その例であった。主なくともライトハウスには永えに光あれ。
(「朝日」19541029)
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日本ライトハウス80年の軌跡
日本盲界に光を掲げた岩橋武夫
日本ライトハウスの事業は、岩橋武夫が1922年、点字出版に着手したのに始まります。
岩橋武夫は日本ライトハウスの創始者であるとともに、盲人福祉の先覚者でもありました。
彼は早稲田大学在学中に失明、その後、関西学院大学とエジンバラ大学に学び、わが国における盲人の地位や福祉事業の在り方に腐心しつつ、愛盲事業の展開と盲人福祉の拠点作りに努めました。1935(昭和10)年に大阪市の阿倍野に世界で13番目の「ライトハウス」を設立、愛盲事業の礎を築くとともに、日本の盲人福祉に多大の貢献をしました。
岩橋武夫の活動は盲人福祉全般にわたりましたが、とりわけ盲人の自立と新職業開拓の試みは、今日の日本ライトハウスに継承されています。設立当初の事業は、各種の研修・講習会、盲人家庭の援助や身上相談、盲婦人の指導、医療・出産の援助、職業指導、点字図書の出版と無料貸出、調査研究、失明傷痍軍人の更生訓練など多岐にわたっています。
ヘレン・ケラーを迎えて
1937年、朝日新聞社の協力を得て、岩橋武夫はヘレン・ケラー女史を迎え、日本各地で愛盲キヤンペーンを展開して、社会に対する盲人問題の紹介と世論の喚起に努めました。この運動は視覚障害者のみならず全ての障害者を勇気づけるとともに、社会事業の法制度の整備にもつながりました。また、1948年には毎日新聞社の協力により、岩橋武夫は再度ケラー女史を招いて愛盲運動を展開しました。敗戦後の日本において、女史の講演は障害者に希望を与え、勇気づけるものでした。この愛盲運動の収穫は盲人自身の自覚であり、盲人自らの全国組織が誕生し、盲児童の就学義務制度や身体障害者福祉法も生まれました。
愛盲会館から失明軍人会館の時代
1943年、戦争の激化とともに愛盲会館と改称されていたライトハウスの盲人福祉事業は戦時体制に切り替えられました。そして遂に、建物と事業の一切を恩賜財団軍人援護会大阪支部に移管し、失明軍人会館と改称することになりました。岩橋武夫はその館長を務め、職員も同館の職員となって新たな体制に移行しました。
失明軍人会館時代の事業は、失明傷痍軍人を更生援護する寮の運営などが中心でしたが、一般盲人への点字図書の貸出しや相談業務などは継続することができました。失明軍人対策のなかでは、早川電機工業の協力のもと電波機器の製作なども行ない、失明者の新職業としての試みがなされました。戦前から行っていた機織り授産とともに、こうした経験は直接的ではないとしても、その後の「職業・生活訓練センター」の事業に受け継がれているといえます。
社団法人ライトハウスと金属工場
1946年、恩賜財団軍人援護会が解散して建物が国に移管されたので、岩橋武夫はその払下げを受け、社団法人ライトハウスとして再出発しました。しかし戦後の混乱もあって財政的に苦しいため、進駐軍の廃棄物を貰い受けてその空き缶を再生する金属工場を作り、実弟の岩橋文夫が経営に当たりました。後に収益事業部門となるこのライトハウス金属工場からの繰入金が、岩橋武夫の愛盲事業と団体活動を支え、社会事業部門の様々な事業展開の自己資金に充当されて、日本ライトハウスの発展に大きく寄与したのです。
1977年、金属工場はオイルショックの影響を強く受け、資産の全てを社会事業部門に移管して別法人となりました。岩橋文夫は1988年に死去しています。
後継者 岩橋英行
岩橋武夫が死去した後、岩橋英行が理事長に就任し、岩橋文夫らとともにライトハウスの愛盲事業を展開しました。盲学校の教科書作りや「声の図書館」の設置などの新事業が加わり、1960年に社屋を鶴見区に移しました。
岩橋英行は父の遺志を継いで、『コンサイス英和辞典』や『世界盲人百科事典』を完成させ、職業・生活訓練センターを建設して、視覚障害者の自立と新職業の開拓に取り組みました。「有能なる社会人への創造」をモット−に、電話交換手やコンピュータ・プログラマー、工作機械技術者の養成などに積極的に取り組み、盲導犬事業や歩行訓練指導者の養成などとともに、今日の「視覚障害リビリテーションセンター」の事業につながっています。
一方、盲人福祉団体の国際会議にも数多く参加して、海外の福祉・教育の様子を我が国に紹介したことも貴重な働きでした。岩橋英行は、視覚障害者の暮らしが、真の「共歩共生」となることを念願としつつ、1984年、死去しました。──以下略──
(「日本ライトハウス」ホームページより)
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成人の日
『関係ねえ』ではない
「淑気(しゅくき)」という季語がある。すがすがしい中に温かみが漂う新年の空気を表す言葉。成人の日。五感を少し働かせ、「淑気」を覚える日にしたい。「KY(空気が読めない)」なんて言わないで。
愛知県南知多町で活動する「知多半島和太鼓こころ会」は、「縁〜ENISHI〜」という短い曲で演奏を締めくくる。
「今日の出会いも何かの縁。みんな、どこか何かでつながっている。それを大切にしていきたい」
リーダーの籾山(もみやま)えりさんは、いつものように声を振り絞り、メンバーを促して深々と頭を下げた。
九歳で太鼓を始め、十三歳からリーダーを務めてきた。そして今年、新成人だ。
組太鼓は、人と人との“つながり”の中からリズムを紡ぎ出す。
三歳から十九歳まで、約二十人のメンバー全員のこころ模様が演奏に表れる。
そのこころを聴衆が受け止める。
「みんな、がんばってるな。おれも明日の仕事、がんばるよ」
太鼓の音に元気をもらった観客のひと言が、えりさんたちには、演奏を続ける力になる。重なり合うリズムの中から生まれるものは、感謝と力の循環だ。
「子どもたちの気持ちも分かる。母親たちの思いも分かる。三十歳、四十歳になっても、みんなとかかわり合いながら、今よりもっとまっすぐに生きていたい」
成人になった自分が、これからだれと、どんな“縁”を結べるか。えりさんは楽しみでしかたがない。
「そんなの関係ねえ」
年末年始のテレビ番組で、何回これを聞いたろう。昨年末の流行語大賞でもトップテンに選ばれた。ところが、身の回りには「関係ない」ではすまされないことばかり。
例えば温暖化も食料不安や年金問題も、今よりは未来の暮らしに大きくかかわる宿題だ。答えは自ら見いだしていくしかない。
去年(こぞ)今年貫く棒の如(ごと)きもの
「淑気」を詠んだ高浜虚子の句だ。新年や成人の日から、突然何かが変わるわけではない。しかし、漂流する時代や社会とのかかわりを見いだして、自ら変わり、行動を始める節目としては、ちょうどいい。
大人として認知されれば、それだけ世界が広がって、新しい何かに出会い、“縁”を結ぶ機会は必ず増える。その中から、時間をかけて宿題の答えを見つけていけばいい。
だから、新成人おめでとう。新しい“縁”を今日から探してみよう。
(「東京」20080114)
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◎「若くすこやかな人たちよ、どうか障害ある人の世界をあなたの心のどこかで受けとめて……涙を流し、杖をひき、指文字を書いて人生を苦闘しつつ生きている私たちの友に手を重ねて下さい」と。