学習通信080404
◎1945年 自衛隊発足……

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手記集『近江のうた』を読んで
 関口 孝男

働き闘い 恋をした
近江絹糸争議 54年前の若者たち

「労働者使い捨て」横行のいま
たたかいの大切さ教える


平均年齢17歳
百日余のスト

 「オーミケンシの人権争議」。半世紀前の1954年、経営者の横暴に労働組合をつくって立ち向かい「八時間労働制を」「信書の開封をやめて」「外出の自由を認めろ」という人権要求を掲げて百日余のストライキで勝利した紡績工場労働者のたたかいです。主役は平均年齢17歳に満たない女性を中心とした若者たち。その人たちが記念冊子を作りました。『近江のうた』近江で働いて、闘って、恋をしたー』です。

 41名がワープロ原稿を持ち寄って3年がかりでつくったこの本は、資本の使い捨て労働に苦しむ現代の若者たちに団結してたたかうこと」の大切さを教えてくれています。

 近江絹糸は最盛期には滋賀、岐阜の工場などに一万3000人が働く紡績会社でした。働き手の中心は九州、四国など各県の中学校を卒業して集団就職した少女、少年たち。戦後、新憲法下の時代とはいえ労働環境は、明治大正の「女エ哀史」時代の過酷な労働条件がまだ色濃く残っていました。

信書開封やめよ
外出の自由を

 若者たちが組合結成時に掲げた22の要求項目を見ればなぜ「人権争議」と呼ばれたのかがよくわかります。「拘束八時間労働の確立」「タイムレコーダーの即時復活と残業手当の支給」「仏教の強制絶対反対」「結婚の自由を認めよ」「信書開封、私物検査を即時停止せよ」「外出の自由を認めよ」「重役の人格を無視した言動、始末書乱発の禁止」……。

 1952年(昭和27年)3月、鹿児島県から来た奥之園郁子さんの手記。「朝4時起床、廊下磨き、お仏間での念仏、夜は夕礼があり少しも自由な時間がない。9時には消灯」。念仏とは社長が信心をしていた真宗。みんな毎週木曜日には仏間でお経をよまされました。

 熊本県出身の岸敬子さんの体験。「洗濯をしていると舎監が回ってきて、あなたは遅番でしょ。早く仏間に行きなさいと怒鳴られてしぶしぶ行って後ろの方に並んだ。私はお経が苦手だった。足はしびれてくるし、その後の長々とした説教も良妻賢母になるという話で……」

 「糸をつなぐ指先は血がにじんだ。あまりの痛さに大粒の涙を流した日は数え切れない」と書く敬子さんは、同じ九州の二人の友人が肺結核でやせ細って死んだときのことを忘れられません。「二人ともこれから仲間と共に生きて青春時代を楽しむはずだった。のちに野麦峠の映画を観たとき、この二人の姿とこの主人公の姿がだぶって仕方がなかった」

「父死す」の電報
も知らされず……

 恋愛の自由も認められず、交際が発覚すると人事課に呼び出されて生産が落ちるからやめよとしかられます。愛媛県から先生に涙で見送られてやってきた工藤久美子さんも大垣工場で 「人差し指がひび割れて、その中に糸が食い込み、頭をチカッと刺すような痛みに悩まされて」いました。

 久美子さんは入社から一カ月後に故郷から会社に届いた「父死す」の電報を知りませんでした。会社が勝手に「本人帰らぬ」の返電を打っていたのです。帰省したとき同級生の男子から「手紙を出しても返事をく
れん」と苦情をいわれたこともあります。会社が信書の開封・検閲をしていたので、自分のところまで届かなかったのです。

 新潟の山村の中学校から大垣工場に来た川井栄松さんは、入社して2ヵ月半のある夜のこと。風邪をおして出勤したものの熱が上がり頭痛がひどい。たまらず上司に中退を申し出ると散々なじられたあげく「お前なんか要らんからとっとと帰ってしまえ!」の怒声を浴びせられました。「まじめに働いても病気になったらこんなふうに扱われるのか」と情けなくて寮の布団の中で涙が止まりませんでした。

「人権を」……106日のスト
ついに全面勝利

スト前夜、
一睡もせず

 1954年6月9日。いよいよ明日はストライキで決起という前日の夜。大垣工場で一部屋8名〜10名の寮の「寮長」だった工藤保彦さんは、部屋の男子にこう伝えました。「明日の朝、みんなと一緒に行動しよう。だから靴をはいたまま布団に入るように!」

 みんないわれた通りに靴をはいたまま布団にもぐり一睡もしないで朝を待ちました。別の部屋では会社に気づかれないように靴をはいて押し入れに隠れて朝を待つ若者もいました。朝5時。日本の労働運勣史に残る人権ストライキが始まりました。

 工藤さんは書いています。「仕事や寮生活の意見をいうと不平不満分子、デートや恋をすれば風紀を乱す分子、仕事でミスをしたり他の人より遅いとダメ分子のレッテルを張られて別の班に入れられてイビリ、イジメで退社に追い込まれる。若者たちは人間としての尊厳をズタズタに切り裂かれていた」と。その彼らが立ち上がったのです。

 まだ暗い夜明け前、合図の笛の音が鳴り響き、みんな夢中で廊下を走り外へ飛び出しました。リーダーたちの指示の叫び声が飛び交うなか、各寮、部屋からは非番の者たちが、また工場からは夜勤者が続々と広場に集まってきます。腕を組み隊列をつくり整然と進みました。初めてのデモ行進でした。いつもはみんなを怒鳴りつけていた舎監が呆然(ぼうぜん)として見ていました(川井栄松手記)。

決死の人間レールも

 人権闘争は3ヵ月を超える厳しい長期のたたかいとなりました。会社に雇われた暴力団に殴りこみをかけられ、組合員の中から負傷者もでました。製品の出荷をしようとする会社のトラックとにらみ合いゴボウ抜きが始まるなか、門の前で寝て決死の人間レールをつくり出荷を阻止したこともありました。

 会社側の組合つぶしは露骨でした。故郷から親や親せきを呼び出して娘や息子に組合から抜けるように説得させる。締め付けや切り崩しのなかで、迷い苦しんだあげく故郷に帰る人もいました。会社に抗議して自殺する仲間もでました。ストを続ける人たちは給料がないので生活は苦しく、全国の働く仲間からのカンパや支援物資で暮らしをしのぎました。

 新組合支援の輪は全国に広がり、国会でも問題となり、内外の世論の高まりのなかで会社もようやく組合を認め、団体交渉に応じるようになります。9月16日、会社側は中央労働委員会の斡旋(あっせん)で労働者の22項目の要求すべてをのみ、協定書に調印、争議は106日目に労働者の全面勝利で終わりました。

学んだ「社会は人の力で変わる」

労働者にとっての学校

 入社3年目のストライキで、はじめて組んだスクラムの力強さ、はじめて歌った労働歌の素晴らしさを体験した小島晴夫さんは、「争議後の社内はすべてに大きく変わった」と振り返ります。新しい労働組合は生き生きとして組合員の真の活動の場となる。寮生活も舎監制度から自治会制度に変わりました。サークル活動が活発になり小島さんはコーラスや詩、俳句など「一年余りの間に四つのサークルに入ってしまった」。

 奥之園郁子さんが争議後の変化で「今でも忘れられないこと」があります。会社との団体交渉で「母体保護のために毎夕食にみそ汗を出して欲しい」「麦飯のお米の割合を増やして欲しい」という要求を勝ちとることができたことです。「私たちの要求はとどまることなく、クリスマスパーティーを開くことや、お正月のお餅やミカンのことなど女子寮のいろいろな提案となり、それが解決したことは私の心の中にいまもしっかりと残っています」

 若者たちがたたかいの中でつかんだものは、「運命は自分で切り開いて行くものだ」そして「社会は人の力で変わるものだ」(岸敬子さん)ということでした。

 ストライキは労働者にとっての学校でした。新組合が開いた学習会で労働三法をグループに分かれ車座になって読み合い話し合い、労働者の権利を守る法律があることを学びました。名古屋大学教員(当時)の畑田重夫さんを囲んで学習会を開き、哲学、経済学、物の見方考え方、搾取とは何かを学んだこともありました。

 現代へのメッセージ

 3月18日。大垣市のホテルで開かれた出版記念会には125人の近江の「同窓生」と支援者がつどいました。代表の長谷川金重さんをはじめ編集委員の人たちのあいさつのなかで太くつらぬかれた心は、現代の働く若者たちへのメッセージでした。派遣労働、ワーキングプァに象徴される若者たちの労働現状と、それに抗して立ち上がっている姿を見るにつけ、自分たちのたたかいの教訓が少しでも役にたてば、力になれば、教訓を生かしてもらえれば、という思いです。

 3時間のつどいの締めくくりは、近江闘争の心ともいえる「一人の幸せではなく、みんなの幸せを目指してガンバロー」の三唱と天井に突き上げた54年前とまったく同じ勢いの腕とコブシの林立でした。
 (日本ジアーナリスト会議会員)(おわり)
(「赤旗」20080401-03)

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昭和二十九(一九五四)年
早稲田大学を中退して

 マリリン・モンロー、ジョー・ディマジオ夫妻が来日。
 僕は帝国ホテルを囲む野次馬の中で胸をときめかせていた。
 映画でなく実物のスターが目の前のホテルにいるだけで、自分までが大きく見えるようなミーハーだった。
 あとで浪越徳治郎がモンローを裸にして指圧をほどこしたという話を聞いて、うらやましいより誇らしく思ったほどである。

 「日曜娯楽版」は相変わらず八〇%を超すという聴取率だった。
 三本鶏郎(トリロー)は作曲家として映画音楽を引き受け、僕は常に、彼の仕事の助手を命じられた。
 その多くはエノケン主演の「落語長屋シリーズ」で、僕はその検尺を担当することになった。

 僕は初めての仕事でもなんとかこなすことに自信がつきはじめていたので、この検尺も「やれます」と言ったのだ。
 まさに「恐いもの知らず」なのだが、検尺ばかりは、お手上げだった。

 撮影所の編集室でオロオロしていると、そんな僕に優しく教えてくれたのが、ノンちやん(野上照代)。
 当時、黒澤組のスクリプターで、以来ずっと黒澤監督の片腕。
 撮影所内では人気も実力も高い婦人だった。
 「検尺」。この仕事は撮影、編集されたフィルムで音楽が入る画面が指定されると、その場面のフィルムのコマ数を数える仕事である。
 例えばモンローが腰をくねらせながら通りすぎて部屋を出てゆくとする、その腰のアップからドアが閉まるまで、音楽を入れるとするとフィルムのコマを数えて時間を出し、作曲家はその秒数に合わせて作曲、録音する、そこまで立ち会う。

 ノンちやんの指導よろしく、僕は他からも検尺を頼まれるようになり、現代音楽の売れッ子、黛敏郎、團伊玖磨、芥川也寸志の「三人の会」の専属のようになってしまった。

 この三人にはその後ずっと頭が上がらず、「題名のない音楽会」のピンチヒッターも、日本音楽著作権協会(JASRAC)の評議員を引き受けたのも、当時の御縁である。

 さて、ノンちゃんは、「七人の侍」にかかりきりで、いつも泥にまみれていた。
 「若侍の役があるんだけど、やってみない?」
 彼女に連れられて黒澤監督の前に。でも、その役は木村功に決まった。
 「あの時に出演していたら、その後、どうなっていたかしらね」
 今でも、逢うとその話になる。

 「七人の侍」の一方で、東宝撮影所は「ゴジラ」も主役だった。
 ゴジラも寿命が長い怪獣である。

 放送も、映画も、あるいは小説の世界も、一挙に仕事がふくらんで徹夜は当たり前の仕事場になっていた。
 いつも誰かが、ヒロポン注射をうっていた。
 ヒロポンは薬として普通に存在し、警察の取り締まりが強くなってくるのを感じながら、これは悪いことなのかなと思うレベルだった。
 もちろん、ヒロポンよりも強力なコカイン、ヘロインが出回っていたし、ジャズマンや作家の中には注射ダコを自慢にしている人もいた。

 そうした運び屋の中に、何代目かの人間ポンプがいて、彼はアンプルをしこたま腹中に収め、一本ずつ口から出して稼いでいたが、その腹を殴打され、廃人になって死んだという噂もあった時代だった。
 つまり、芸能界ではヒロポンは使おうと思えばいつでもある常備薬。
 愛用したスターの名前を挙げたら、きりがないが、すべて故人になった。
 火葬場で、ガラガラと引き出される瞬間に、骨の形が粉になって散ってしまい、箸では骨壷に納められないスターもいたっけ。

 戦後十年、荒れ果てた国上に活気が戻ってきたのは確かだが、一方でニヒルな気分にもなることが続いていた。

 力道山がアメリカ人レスラーに空手チョップを浴びせても、それはリングの上だけで、日本の政治はアメリカの意のままに動いていた。

 「もう軍隊は持ちません」という教科書で育ったはずなのに、警察予備隊、保安隊と名前を変えながら軍隊が登場。その名を自衛隊と名乗った。

 こうして第九条は拡大解釈の対象になって、意味を失ってしまう。
 この時に放送した「日曜娯楽版」の僕のコントは不思議に憶えている。

 「いない! いない! ばァッー 自衛隊」

 このコントがチェックを受けた。

 自衛隊発足の前に、第五福竜丸がビキニで被爆。
 「死の灰」とか「水爆マグロ」とか「原子力潜水艦」とか、日米関係がザラザラしている時に「グレン・ミラー物語」や「ローマの休日」が公開されると、アメリカという国をどう理解すればいいのかとまどった。

 ジェームス・スチュアートとジューン・アリスンのコンビは、明るい、正しいアメリカ以外の何物でもなく、僕は自分をジミーになぞらえて、ジューンを探すという夢を見ていた。

 早稲田大学を卒業するということはもう頭になかった。
 月謝も末払いのままで、大学に行くと、月謝未納者として名前が張り出され、いつでも「中村八大」という名前があって、それは払いに行く時間がないほどの売れツ子だったのだ。
 その五年後に二人で第一回レコード大賞を受賞した時、この未納者で名前が並んだ想い出話をした。

 こうして早稲田大学を中退、僕の学歴は、早稲田高校卒になった。
 (「学歴は大学中退です」といった時に、中退という学歴はなくて、「高卒」が学歴なのだと教えられた)
 早稲田は中退のほうが活き活きしているとは、よく言われる言葉で、青島幸男はめでたく卒業している。
(永六輔著「昭和」智恵の森文庫 p149-154)

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朝鮮休戦協定とMSA

 朝鮮休戦会談は、アメリカの妨害のためしばしば中断した。会談中も戦闘はつづき、敗北にあせったアメリカは、五二年六月には朝・中国境の水豊ダムを爆撃し、中国領土に細菌爆弾をおとした。五月に南朝鮮巨済島に収容されていた朝・中軍捕虜が蜂起して、収容所長ドッド准将を逮捕したさい、米軍が捕虜にかずかずの残虐行為をくわえ、細菌兵器の実験につかっていたことがばくろされた。五三年四月から休戦会談が再開されると、朝鮮・申国がわはねばりづよく譲歩と休戦実現のための努力をくりかえした。

 「韓国」はあくまでも朝鮮民主主義人民共和国をみとめないとして休戦に反対したが、勝利のみとおしをうしなったアメリカは、イギリスからも休戦促進を要求され七月二十七日、休戦協定に調印した。この戦争にアメリカが投じた戦費は二〇〇億ドル、「国連軍」として動員された兵力二百数十万のうち、死傷者・捕虜はあわせて約一一〇万にのばった。こうしてアメリカ帝国主義の敗北のうちに、三年にわたる朝鮮戦争はおわった。

 朝鮮服争での敗退は、アメリカ帝国主義の極東戦略に大きな打撃をあたえた。アメリカは休戦協定成立直後の八月八日、「米韓相互安全保障条約」をむすんで南朝鮮への米軍駐留軍を確保したうえで、あたらしいアジア侵略の拠点をベトナムにもとめ、四六年いらいつづいているフランス帝国主義のベトナム侵略戦争を援助し、その肩がわりをつとめた。こうしてアメリカは東南アジアの反共ブロック構想とともに、日本の再軍備をかなめとする東北アジア軍事同盟の結成をいそいだ。

特需に依存してきた日本の独占資本も朝鮮休戦協定で衝撃をうけ、経団連など四団体は兵器生産の再開、独占禁止法の緩和、アメリカの援助継続などをアメリカと日本政府に要求した。五三年十月には池田勇人が古田の特使として渡米し、ロバートソン国務次官補とのあいだにMSAにもとづく対日援助交渉をはじめた。

 MSAとはアメリカの軍事援助を中心とする対外援助法のことで、MSAをうけいれる国は、「自国の自衛力および自由世界の防衛力増進」のために寄与する義務をおった。日本政府と独占資本は、MSAをうけいれることでより多くの経済援助をうけ、日本で兵器生産をすすめる「経済自立化」の道をのぞんだが、アメリカは日本の再軍備を自国の過剰生産された兵器のはけ口にしようとした。

結局、両者は日本がアメリカの余剰農産物を買えば、アメリカはその代金を円でつみたて、その一部を日本の軍事産業投資のためにつかうという話をとりつけた。そのかわり、日本は三年間で保安隊を一八万人にすることを約束させられた。池田・ロバートソン会談は、さらに「教育と広報によって、日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長しなければならない」として、教育の軍国主液化をも確認した。

 池田・ロバートソン会談をおえてから、吉田は当該改正による再軍備をめざすため憲法調査会をつくることを約束して、鳩山自由党の大部分を復党させた。吉田内閣は五四年一月、MSA協定に調印するとともにその受け入れの体制をつくるため、五四年はじめの第一九国会に、

(一)保安隊を自衛隊とし、自衛隊の主たる任務を「直接侵略および間接侵略」にたいしわが国を「防衛」することとする、防衛庁設置該と自衛隊該の防衛二法案(陸・海上自衛隊の増強と航空自衛隊の新設、旧参謀本部にあたる統合幕僚会議の設置)、

(二)平和教育を弾圧し「愛国心と自衛」のための教育をつよめる、義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保にかんする臨時措置法と教育公務員特例法の一部改正案(教育二法案)、

(三)日米軍が提供した兵器の「防衛秘密」をまもることを義務とする秘密保護法案、(四)自治体警察を廃止し、警察庁を中心に強力な中央集権的警察制度をつくる警察法改正法案を提出した。

MSAのもとでの労働運動

 朝鮮休戦にともなう不況は、軍事産業の労働者にたいする首切りとなってあらわれた。五三年十月には、極東最大の戦車工場であった日銀赤羽工場で労働者の四割にあたる二三〇〇人が首切られ、全国のPD工場でも大規模な首切りがおこった・軍事工場だけでなく、MSAのもとで「合理化・技術革新」をめざす独占資本によって、いたるところで首切りがおこった。とくに鉄鋼・石炭・自動車産業などでは会社がわの組合破壊の攻撃を正面からうけ、困難な条件のもとで、「合理化」反対闘争がはげしくたたかわれた。

 五三年にオースチン社と技術提携した日産自動車では、会社がわは総評の民間労組でもっとも強力な全自動車労組日産分会の破壊をねらい、五三年七月からロックアウト・幹部の首切り・第二組合結成などの攻撃をかけた。四ヵ月にわたるたたかいののち組合は敗北し、第二組合に主導権をうばわれた。

つづいて炭労の三井鉱山連合(三鉱連)が六〇〇〇人の首切りに反対して闘争にはいった。三鉱連は、「去るも地獄・残るも地獄」のスローガンをかかげて職場を組織し、炭婦協にささえられて家族ぐるみのだたかいをくりひろげ、炭労加盟労組の多くが首切り通告を希望退職におきかえて闘争を回避せざるをえなかった状況のもとで、「英雄なき一一三日のたたかい」に勝ちぬき、希望退職者はだしたものの指名解雇は撤回させた。

 五三年に総評を脱退した海員組合・全繊同盟などは総同盟と合流し、五四年四月、「左翼労働組合主義との対決」の名のもとに、反共と労資協調を旗じるしにした全日本労働組合会議(全労会議)をつくり、独占資本の期待をになって労働戦線の右翼化と分裂の重要な拠点となった。五四年三月から、尼崎製鋼では「鉄鋼合理化」による企業閉鎖に反対して、総評・鉄鋼労連の支援のみでなく、尼崎市民・商店とともに町ぐるみの七七日間のストで資本家とたたかったがついに敗北した。ついで七月から日鋼室蘭では、労働者の四分の一にあたる九〇〇人の首切りにたいして、家族ぐるみ・地域ぐるみの闘争で一九三日という、戦後労働運動史上最大のストでたたかったが、全労会議は会社側と協力して第二組合をつくり、争議を敗北させた。

しかし階級闘争の前進は、これまで力のよわかった中小企業や未組織労働者をもたたかいにたちあがらせた。その口火を切ったのは、近江絹糸の五四年六月からの「人権スト」であった。女子労働者たちは、「仏教の強制反対」「結婚の自由を認めよ」「外出の自由を認めよ」「信書の開封・私物検査を即時中止せよ」など「人権擁護」を骨子とする二三項目の要求をかかげて労働組合を結成した。六ヵ月のたたかいののち、勝利した近江絹糸争議のあたえた影響は大きかった。日東紡郡山・束洋繊維・興国人絹や大阪・東京・神戸・名古屋・京都などの証券取引所でも組合が結成され、争議にはいり勝利した。鹿児島・広島・伊予・第四(新潟)・山梨・青森などの地方銀行でも闘争がはじまった。

 これらのたたかいのなかで、各地で発展してきた「歌ごえ運動」を基礎に、五三年から「日本のうたごえ大会」がひらかれ、全国に歌ごえをつうじて、たたかいの成果をひろめた。この五三年三月には、三〇の婦人団体によって全日本婦人団体連合会(婦団連)も結成された。

 松川裁判の公正判決を要求する運動も、五三年十二月、第二審の仙台高裁でほぼ一審判決と変わらない有罪判決がでた前後からひろがった。二審判決後から、被告の誠実を確信した作家広津和郎は、『中央公論』誌上に松川判決批判を四年半にわたって執筆した。

 五四年三月一日、アメリカが南太平洋のビキニ環礁で水爆実験をし、立入禁止区域外にあった日本漁船第五福竜丸の乗組員が「死の灰」をあびて、無線長久保山愛吉が死亡したことから、各地ではげしい抗議の運動がおこり、原水爆禁止運動は国民的規模の運動となって発展した。五月九日、杉並区の主婦らは原子戦争を阻止するため、「原水爆、そのほか一切の原子兵器の製造・貯蔵・使用・実験の禁止」をよびかけた杉並アピールをだした。八月八日には、原水爆禁止署名運動全国協議会(事務局長安井郁)が結成された。

吉田内閣の倒壊

 五四年はじめから、飯野海運など造船会社にからむ造船疑獄の追及がすすみ、岡崎勝男外相・佐藤栄作自由党幹事長・池田勇人政調会長など数十人の政治家が取調べをうけ、多数の自由党と改進党の議員が逮捕された。検察庁が事件の中心である佐藤栄作逮捕の方針にふみきると、四月二十一日、吉田首相は法務大臣の検事指揮権を悪用し、犬養毅法相をして佐藤栄作の逮捕を禁止させた。これは広範な人民の怒りをかい、吉田内閣にたいする支持を決定的にうしなわせた。

 吉田内閣は人民の非難を満身にうけながらも、防衛二法・教育二法および秘密保護法を第一九国会で強引に通過させた。とくに教育二法を通過させるために、政府は山口日記事件(山口県教組編集の日記帳のうち、平和主義をつらぬいた内容を偏向だとした)や京都旭丘中事件(学校ぐるみの民主教育を実践していた旭丘中学の指導的教師三人を、偏向教育をおこなったとして懲戒免職にした)など二四件の「偏向教育」事件なるものを発表した。

日教組は、三月十四日の日曜日にふりかえ授業をして父母を集め、教育二法の反動性をうったえた。全国連合小学校長会・中学校長会までが反対の意思表示をし、矢内原忠雄東大総長をはじめ各大学や教育同体も反対し、反対著名は四三八万にたっしたが、古川内閣は池田・ロバートソン会談の約束にしたがい、教百二法を通過させた。

教育二法の成立とともに、社会科の学習指導要領改訂の方針がうちだされ、教科書執筆者から進歩的学者のしめだしがはじまった。のこる警察法改正案が会期切れでながれそうになると、五四年六月三日、吉田内閣は日本議会史上はじめて警官隊二〇〇人を衆議院本会議場にひきいれ、会期延長が成立したと称して、与党だけで警察法を強行成立させた。

 第一九国会でのMSA関係法案に反対する国会内外での闘争、また労働運動の成長にしめされた日本人民の独立・民主主義・平和・中立・生活向上をめざすたたかいは、支配階級内部の矛盾をいっそうふかめ混乱においこんだ。財界の実力者宮島清次郎をはじめ、三井の向井忠晴、三菱の郷古潔らも吉田批判のがわにまわった。経団連・日経連ら財界四団体は十月、吉田退陣要求を共同声明した。自由党の鳩山派と岸派および改進党は、財界の動向に力をえて十一月二十四日、鳩山一郎を総裁に日本民主党を結成した。十二月六日、吉田内閣不信任案が国会に上程されると、六年以上の長期政権をつづけてきた吉田内閣も七日、ついに退陣した。かわって鳩山を首相とする民主党内閣が成立した。

アジア・アフリカ会議

 一九五四年五月七日、ベトナムではディエンビエンフーのフランス軍が壊滅した。翌八日から、スイスのジュネーブに、ベトナム民主共和国および仏米英ソ中など九カ国が集まり、七月二十一日、ベトナムに外国基地をおかぬこと、北緯十七度線以北でのベトナム民主共和国の主権をみとめ、二年後の五六年七月に南北ベトナムの続一選挙をおこなうことなどをきめたジュネーブ協定が調印されたが、アメリカと、アメリカがつくった南ベトナムかいらい政権はこの協定の調印を拒否した。

 六月には中国の周恩来首相がインドのネール首相と会談し、主権尊重・領土不可侵・内政不干渉・平等互恵・平和共存の平和五原則を発表した。こうした動きに対抗してアメリカ帝国主義は五四年九月、東南アジア条約機構(SEATO)という反共諸国の軍事同盟をつくり、十二月には米・台安全保障条約をむすんだが、歴史の進行をおしとどめることはできなかった。

翌五五年四月、インドネシアのバンドンで、世界人口の約半数一四億人を代表する二九ヵ国の代表による第一回アジア・アフリカ会議がひらかれ、インドネシアのスカルノ大統領は、開会式で「この会議は有色人種が二つの大陸から集まった人類の歴史はじめての会議であり、世界史の新しい出発点である」と演説した。

五五年七月十八日には、ドイツ統一・軍縮問題を主要な議題として、アイゼンハワー米大統領、イーデン英首相、フォール仏首相、ブルガーニンソ連首相の四人が戦後はじめてジュネーブで同じテーブルについた。鳩山内閣が成立した一九五四年から五五年にかけて、世界情勢は大きな変化をとげていたのである。
(「日本歴史 下」新日本新書 p236-243)

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◎近江闘争の心ともいえる「一人の幸せではなく、みんなの幸せを目指してガンバロー」……。