学習通信080414
◎ベートーヴェンにとって運命とは……

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文化
桧山 浩介

ルートヴィヒ・ヴァン
ベートーヴェン
作曲・初演から200年

「運命」は扉を
こう叩くのだ

 今からちょうど200年前のウィーンのとある劇場。午後6時半に幕が上がった演奏会は休憩をはさんで9時前にようやく第2部が始まった。次は「大交響曲ハ短調」と紹介されている新曲だ。聴衆はかたずをのんで膝(ひざ)をのりだした。

 と、その瞬間、指揮者のタクトが振り下ろされるや、いきなりその曲は「タタタタァー! タタタタァーー!」と大音響で聴く者に挑みかかった。会場中が仰天した。「ええっ、何だこの曲は?」。永遠の名曲として今に残るベートーヴェンの「運命」が初めて鳴り響いた瞬間だ。

 彼が主催してやっと開くことのできた自作品の演奏会。時は1808年12月22日、場所はアン・デア・ウィーン劇場。ここがその歴史の舞台となった。

 それまでの音楽の常識の枠を打ち破り、極めて単純明快な「タタタタァー!」で誰もに一聴で強烈な印象を刻み込むこの曲は、「運命」の愛称で親しまれているが、正しくはベートーヴェン作曲の交響曲第5番ハ短調。「運命」と呼ばれるのは、かつてベートーヴェンがこの曲の始まりの部分の意味を尋ねられたとき、「こうして運命は扉を叩(たた)くのだ」と言った、と伝えられていることに由来する。ところで、ベートーヴェンがこのような形で表現した彼にとっての運命≠ニはいったい何だったのだろう。

 青春時代に学友と学んで得たフランス革命の精神を胸に、希望に燃えてベートーヴェンがボンからウィーンに出たのは22歳の時。しかし、現実はさまざまな形で彼の希望を打ち砕くものだった。

 フランス革命の高揚した空気を映した華やかなウィーンの街は、一転して貴族階級の利益を代表するハプスブルクの宮廷が牛耳る反動的な政府が支配していた。共和主義思想の持ち主だったべートーヴェンに対して政府は露骨な敵意を示し、たびたび検閲による作品発表の差し止めや演奏会場の使用不許可の仕打ちを浴びせた。

 さらに身分制度による差別も彼を苦しめた。

 「人間の人間に対する屈従」は彼のもっとも忌み嫌った行為だった。加えて彼に襲いかかった過酷な運命≠ヘ、音楽家にとっては致命的ともいえる耳の病気だ。冒頭の演奏会が開かれた当時、すでに彼の耳はほとんど聴こえなかったといわれている。「運命」こそ、べートーヴェンの不屈のたたかいの決意を披露した、いわば宣戦布告の作品なのだ。

 彼の生きた時代は、音楽がそれ以前の教会や貴族のための奉仕品から市民階級のものへと広く門戸を開き始めた時にあたる。この時代の大きな流れを身をもって受け止め、時代を推し進める人々への限りない励ましとして自らの才能を作品に刻み込んだ、そのような音楽家がベートーヴェンにほかならない。「運命」も、同じ彼の作品「英雄」「合唱」などとともに、わが身に降りかかる災いへのたたかいと同時に、新しい時代への思いを共にする人々への連帯の決意を込めたメッセージだと言えよう。

 名曲だけにこれまでおびただしい数のLPやCDが出ている。何よりもこの曲の、いやベートーヴェンその人の真髄を見事に描き尽くしたものとして迷わずに挙げたいのが、戦後まもなく(1947年5月)に廃虚となったベルリンで行われた演奏会のライブ盤(フルトヴェングラー指揮・ベルリンフィル、UCCG−3696)。人間のくめども尽きぬ力の偉大さが感じとれる極めつきの名演だ。この時は、演奏が終わるや聴衆総立ちの拍手が20分近くも鳴りやまなかったという。

 このほかにもカール・ベーム(UCCG−3661)、カルロス・クライバー(UCCG−9701)など、往年の名指揮者のCDが最近の軽薄なベートーヴェン演奏ヘの警鐘として依然として大きな光を放っている。
 (ひやま・こうすけ 音楽史研究家)
(「赤旗 日曜版」20080120)

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運命のモティーフ

 シンフォニア・エロイカの題名があらたに書きこまれたのは、一八〇三年もすぎて四年の五月に入ってからのことであるが、この一八〇三年から四年にかけて、あるいは一八〇三年のおわりか翌四年のはじめに、ベートーヴェンの歴史にとってきわめて重大なできごとが起こっている。その頃のスケッチ帖に、第五交響曲第一楽章の主要モティーフ〔モティーフとは、楽想や主題の要素となる最小の音列で、動機と訳す〕、いわゆる運命のモティーフがはじめて姿をあらわすのである。

 これは重要な意味をもっている。ベートーヴェンの生き方の基本にあるものが、それまではいわば人間の探求であったのに、いまこの新しいモティ一フの出現によって運命との対決にひき上げられたことを、示しているからである。

 もちろんこの二つが、内面的なつながりによって結ばれ、切り離されぬ関係にあることはいうまでもない。人間の探求は、つきつめると、運命との対決にほかならぬからである。それは人間をさらに追求してゆくと、到達せざるをえなかった問題である。英雄交響曲の第二楽章葬送行進曲に出てくる三連音符の音形や、かんらん山のキリストにあらわれたモティーフは、いまこのスケッチ帖に記された完全な形のものの先がけであり、前兆なのであった。それは伴奏の附随的なものではなく、主題として、つまりそれにもとづいて全楽章が展開される、いわば主人役なのである。いいかえれば、その短小なモティーフのなかに全楽章が象徴されている点て主題であり、中心の意味となっている。

 それでは、このきびきびと弾力にみちた短小な音列を、どうして運命のモティーフと呼ぶのか。そして運命とはベートーヴェンにおいて何なのか、という疑問に答えなければならない。

 第五交響曲の冒頭は、八分音符三つと、それにつづく二分音符一つのモティーフではじまる。ベートーヴェンの側近の一人であったシンドラーが第五交響曲の意味は何かときくと、ベートーヴェンはこの冒頭の部分を指して「こんなぐあいに運命が扉をノックする」と答えたという。なるほど、だれかが閉まっている戸をたたくのに似た音である。ベートーヴェンは、それで運命の突然の訪れを表現したのである。

 ではその運命とは何だろうか。ベートーヴェンは耳の病気のはじまりをヴェーゲラーに報告して、それがもし運命なら、自分はそれに屈服しない、それとたたかい、逆に息の根をとめてやるだけだと書きおくっている。とすると、ここでは、耳の病気という災厄におそわれたことを運命という言葉でいいあらわしていることは明らかである。だがベートーヴェンにふりかかる災厄は、耳の病気だけではない。もうウィーン到着直後から、彼は、ジャコバンとののしられ、傷つけられている。それはいつまでもつづく。宮廷がベートーヴェンに一顧だに与えず白眼視し、遠ざけ、宮廷劇場を作品発表のため借りたいという当然な申し出にさえも好意を示さず、そのほか有形無形の妨害をベートーヴェンに投げかけている。そんなことも外部からの災厄として運命のうちにふくまれるのではなかろうか。

 またそれと連関することだが、恋愛も封建的身分制にさまたげられて、つねにうまくいかない。そのほか数えあげれば小さなものはたくさんあるだろうが、要するにベートーヴェンとしては自分の意志ではどうにも変えることのできない外部からの災厄のすべてをふくめ、それを一括して、運命と呼んだことはたしかである。

 そうした災厄にたいして従順に服従する以外にないと考えるのが一般には運命なのだが、ベートーヴェンにとって運命とは、それとは反対に、「その喉に手をつっこんで」息の根をとめてやる相手なのだ。
(山根銀二著「ベートーヴェンの生涯」岩波ジュニア新書

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◎「この時代の大きな流れを身をもって受け止め、時代を推し進める人々への限りない励ましとして自らの才能を作品に刻み込んだ、そのような音楽家がベートーヴェンにほかならない」と。