学習通信080416
◎パン屋や農民までチューリップ市場に参加し……

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天気
花の温度計

 チューリップの花は、気温に合わせて開いたり閉じたりしています。一〇度以下だと閉じたまま。二〇度を超えると大きく開いた形になります。気温の差が大きいほど花びらの動きも大きいため、晴れの日ほど、動きがはっきりと分かります。十五日は、この春一番の暖かさとなった所もありました。夜にいったん閉じた花が、きょうはいっそう大きく口を開けるかもしれません。
(「赤旗」20080416)

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一 チューリップ恐慌と一八二五年以降の恐慌

 資本主義がまだ十分に広く深く生産過程を支配していない時代でも、ある程度の商業、信用制度が生まれていれば、恐慌現象が起こった。たとえば一六三七年のオランダの「チューリップ恐慌」などはその代表的なものであった。これは、その当時チューリップの栽培がブームとなって一世を風扉し、球根が投機対象となってべらぼうな高値をよび、巨万の富をつかむ者もあらわれた。しかし熱がさめるにつれて球根の値は暴落し、買方に回っていた人々は支払いができず、連鎖反応でバタバタと破産がひろがった事件である。

 一七二〇年のイギリスの「南海泡沫事件」というのもあった。実体は何もないのに、南の海で何か大きいことをしているという噂が立って南海会社という会社の株が暴騰した。やがて株は暴落、会社は破産して多くの人が財産を失った。

 こうした商業投機の破綻による恐慌現象以外に、戦争による国庫債務の支払停止や、戦局が不利になったことによる政権の動揺などが原因となって生じた恐慌もあった。

 一八世紀末から一九世紀初頭にかけて起こった恐慌は、それ以前のものと異なって過剰生産の要素を含んでいたが、それ自身の足で立ち上がって周期的循環を描くほどにはとてもまだ充実していない過渡的性質の恐慌であった。

 しかしこれまで分析した景気循環の一局面としての恐慌は、そうしたたんなる商業投機の破綻や政治的原因で起こった昔の恐慌現象や一八世紀〜一九世紀初期の過渡的恐慌とは異なって、経済そのもの、近代産業の生産過程そのものの内部から合法則的に現われ出るのである。そのような、景気循環の一局面として規則性を帯びて勃発する全般的過剰生産の恐慌は、歴史上、一八二五年のイギリスの恐慌が最初であった。「一八二五年の恐慌をもって大工業がはじめてその近代的生活の周期的循環を開始している」のである。

 一九世紀の二〇年代は、第一に、産業革命をつうじて機械制大工業が大きく発展し、第二に、アメリカ、アジア、オーストラリアが新たに資本主義の市場にひきこまれ、世界市場が形成されたときである。機械制大工業のもつ巨大な生産力は広大な世界市場という販路に支えられて熱病的な生産をうみだした。だが大工業は短い期間のうちに商品を市場に充満させてしまう。恐慌が勃発し、市場は収縮する。一八二五年の恐慌以後、このような膨張・収縮がくりかえされたのである。
(林直道著「恐慌・不況の経済学」新日本出版社 p53-54)

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チューリップ・バブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 チューリップ・バブルのパンフレット(1637年出版)チューリップ・バブル(蘭:Tulpenmanie、英:Tulip mania または Tulipomania、チューリップ狂時代とも)とは、オランダで1637年に起こった世界最初のバブル経済事件である。オスマン・トルコから輸入されたチューリップの球根に人気が集中し、異常な高値がついた。その後価格は100分の1以下にまで下がり、オランダ諸都市は混乱に陥った。チューリップ・バブルは南海泡沫事件(イングランド)やミシシッピ計画(フランス)と並んで、近世ヨーロッパの三大バブルに数えられる。


■バブルの前提
バブルをもたらした原因が何であるのか、いまもって明らかにされていない。後述するような民衆の狂気と貪欲さに求める偶発説や、このような価格の乱高下は日常的であったとする説などがある。オランダは当時、経済大国であったが、バブルの担い手となった民衆は貧しい暮らしにあえいでいた。

 オランダの北部7州は八十年戦争に勝利し、17世紀の始めには実質上独立を獲得していた。そこからオランダは一躍、オランダ海上帝国としてヨーロッパに君臨した。これには、ポルトガルから香料貿易を奪ったこと、三十年戦争により中部ヨーロッパが混乱してアムステルダムに商取引が集中したこと、オランダ東インド会社がバタヴィア経営から利益をあげていたことなどが背景にある。結果、所得は最高水準になり、海外の美術品がオランダに集中してきていた。

 そのいっぽうで、物価もまた、他地域にくらべて割高になっていた。賃労働者や職人らの年収はおよそ250フロリンと推定されている。これは家族4人が食べていくだけで精一杯な収入であり、肉を口にすることはめったになかったといわれる。かれらがバブルに参入するとき、家財道具や家畜など換金できそうなものを取引に投じた。

 さらにバブルをおこすためのマイナス材料として、カルヴァン主義の浸透があげられる。勤勉と倹約を美徳とするカルヴァン主義が広まっていた当時のオランダでは、華美な服装などが慎まれた。富める者も貧しい者も同じような服装をしており、街なかで人の貧富を見分けるのは難しかったといわれる。こうした信条のオランダ人たちがなぜ投機に走ったのか、いまのところ解明されていない。

■オランダへの伝播
チューリップの発祥は天山山脈と伝えられる。オスマン・トルコは勢力を広げるなかでチューリップと出会い、たちまちのうちに魅了されてしまった。やがてコンスタンティノープル(イスタンブール)を陥落させると、トルコ人たちは荘厳な宮殿を建立した。そこで幾種ものチューリップが栽培・品種改良され、衣服の模様や絵画に登場した。16世紀になると、商人によってヨーロッパ各地に伝えられた。

 膨大な品種が系統だてられてチューリップが認識されるようになるのは、植物学者カロルス・クルシウスの研究による。フランクフルトで細々と球根植物を研究していたクルシウスは1593年、ライデン大学に招聘された。彼は豊富なチューリップの球根とともにライデンに移り、そこでチューリップの研究・栽培をすすめた。このことが、オランダにチューリップを伝えることになった。

 クルシウスが発見した特性のなかに、のちにブレーキングとよばれる突然変異がある。ブレーキングをおこした球根は、美しい縞模様の花をつけた。これはウィルスに感染した球根がモザイク病に罹患したためであったが、その仕組みが解明されるのは20世紀になってからである。

■チューリップの特性
 チューリップは短期間に増やすことが難しい種であり、それが後述するように品薄状態をおこして高値がついた。チューリップは種子から育成する方法と母球(球根)からクローンの子球を育成する方法とがある。種子から育てると、交配で新種が生まれる可能性があるものの、花を咲かせるまで3−7年かかる。母球から育成する場合は、その年にすぐ花が咲くが、母球が作り出す子球は2−3個程度になり、子球を母球に成長させるのにしばらくかかる。さらに発芽しない種子・母球も少なくなかった。こうした事情から、急激な需要の増大に生産が追いつかなかった。

■ブームの到来
 センペル・アウグストゥスバブルの進展は三段階に分けて説明できる。需給の不均衡による高値がついた第一段階、投機家が参入してきた第二段階、そして元手をもたない庶民をまきこんだ第三段階である。この第三段階に至ってバブルの様相を呈し、暴落と混乱を招いた。

■愛好家たち
 1610年代、最初にチューリップの美しさに心を奪われたのは、ゆとりのある植物愛好家たちであった。手に入りにくいチューリップの球根は、当初から高値で取り引きされた。また園芸家・愛好家たちは自分で品種改良や栽培も行い、多様な名のチューリップが生まれた。「リーフキン提督」(Admiral Liefken)「ファン・デル・アイク提督」(Admiral Von der Eyk)「フィセロイ」(副王、Viceroy)「フェネラリーシモ」(大元帥、Generalissimo)などが代表的な高級品種である。なかでも愛好家たちが絶賛したのは、ブレーキングを起こして紫と白の縞模様の花を持つ「センペル・アウグストゥス」(無窮の皇帝、Semper Augustus)であった。単色の品種は安く売買されたが、こうした美しい花の球根は少なくとも1000フロリンの値がついていた。そしてチューリップの人気が高まるにつれ、値上がりしていった。

■投機家の参入
 チューリップの人気に投機家が目をつけたのは、1634年ごろと伝えられる。かれらはチューリップを栽培することや花の美しさに興味はなく、その値上がりを目的として市場に参入していった。チューリップ人気がライデンからアムステルダム・ハールレムなど他都市に伝わり、需要の増大を見込んで球根の売買を行った。彼らの目論みははたして当たり、一攫千金をなす者も現れた。高級品種の球根ひとつと邸宅が交換されることもあった。

 高価な球根はエース(aas、1エース=0.05g)単位で量られ、値がつけられた。そうでない品種は個数売り、さらに安いものは袋づめで量り売りされた。

 このときはまだ、チューリップ取引は球根が現物で売買されていた。また現物取引のため、チューリップ売買が行われるのは冬の間にとどまっていた。しかし過熱するチューリップ人気は、季節を問わず取引できる仕組みを希求していた。

■大衆化
 チューリップで短期間に、莫大な富を得られるという噂が職人や農民などに広がると、かれらが徐々に市場に参入してきた。元手をもたない彼らはまず、自分でも買える程度の球根から始めた。その程度の品種でも値は上がり、転売で利益を得る者が続出した。それに伴い、市場に大きな変化が起きた。通年取引と、それに伴う先物取引制度の導入である。

 こうした取引は、正規の証券取引所ではなく、居酒屋で行われた。取引において現金や現物の球根は必要なかった。「来年の4月に支払う」「その時に球根を渡す」という手形ですませることができ、わずかな内金で売買できた。内金といっても現金とは限らず、家畜や家具など、換金できそうなものなら何でも通用した。その手形が取引をくりかえすうちに幾人かを経由していき、債権者や債務者がどこの誰だかわからないという状況になりつつあった。この先物取引システムによって、元手がない者も投機に参加できた。パン屋や農民までチューリップ市場に参加し、それによって需要がふくらみ、安価な品種でさえ急騰した。しかし、価格の上昇に伴って、本来の買い手である植物愛好家が買わなくなっていった。特に民衆が取引していた安価な球根は、愛好家に見向きもされなかった。

 当時の逸話がいくつか残っている。イギリスから来た植物愛好家が、オランダの友人宅を訪ねた。その愛好家は珍しいタマネギのようなものを発見し、その皮をむいて中を開いてみた。友人が帰ってきて「これは何というタマネギですか」と聞いた。「ファン・デル・アイク提督といいます」「ありがとう」愛好家はノートにメモをとりながら質問した。「これはオランダではよくある品種なのですか」友人は愛好家の襟首をつかみ「一緒に行政長官のところに来ればわかります」と答えた。愛好家は金貨2000枚の賠償金を支払うまで、債務者監獄に監禁された。

■急落
 1637年2月初旬、突然の暴落が起こった。価格が下がったというよりも、むしろ買い手がまったく見つからない状態だった。手形は不渡りとなり、支払いきれない債務を負った者は3000人ともいわれる。オランダ各都市は混乱の淵に叩き込まれ、そこかしこで払え払わぬの押し問答、債務者の雲隠れがおこった。いまや、あらゆる債権者が同時に債務者となっていた。債務履行を求めて裁判を起こす者もいたが、債務者に履行能力がないことは明らかであり、事態の解決に有効な手だてとはならなかった。

 抜き差しならぬ情勢に、議会・市当局もようやく動きだした。債務者と債権者の強烈なロビイング合戦の末「調査が終わるまでチューリップ取引は保留とする」という、その場凌ぎの決定が下された。しかしこれによって一挙に解決に向かった。手形による契約はなし崩し的になかったことになり、少数の破産者と成金を残して、チューリップ狂時代は幕を閉じた。

■バブルの影響
 チューリップ・バブルは、オランダ経済やその後の歴史にほとんど影響を残さなかった。植物愛好家は高価なチューリップを求め続けたし、他の産業が打撃を受けたという史料も見つかっていない。例外的に見てとれるのは、精神文化への影響である。節制・禁欲を旨とするカルヴァン主義的美徳観が復活し、チューリップ相場に参加した者を露骨に批判するパンフレットが出版された。チューリップをローマ神話の女神フロラに喩え「貪欲なフロラに貢ぐ愚か者たち」と批判された。その後オランダ人は一時的にチューリップを憎むようになり、オランダ人の間で教訓として語り継がれた。

■歴史学的見解
 チューリップ・バブルは、大デュマの「黒いチューリップ」や絵画に描かれるのみで、歴史学的視点から研究されることはほとんどなかった。スコットランド人チャールズ・マッケイの著した物語によって1841年世界に伝えられ、この事件は一躍脚光を浴びることとなる。その中で、チューリップ・バブルはスキャンダラスで、大衆の狂気によるものと描かれた。近年までマッケイのバブル像がおおむね受け入れられ、まともな研究対象とはならなかった。しかしE.A.トンプソンおよびJ.トラザード(2002)は、チューリップのみならず、当時の物価は常に不安定であり、大衆の狂気から事件を説明するのは誤りであるとした。これを嚆矢に近年、研究が活発になってきており、チューリップ・バブルの全体像や歴史的位置付けについて、今後の議論を待たねばならない状況にある。

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◎「一八世紀末から一九世紀初頭にかけて起こった恐慌は、それ以前のものと異なって過剰生産の要素を含んでいたが、それ自身の足で立ち上がって周期的循環を描くほどにはとてもまだ充実していない過渡的性質の恐慌」と。