学習通信080421
◎彼はその時代に、動物の雌が……

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朝の風
ダーウィンの思想

 東京・上野の国立科学博物館でダーウィン展が開かれている。

 ダーウィンが採取した標本の展示とともに、ダーウィンの祖父が、すべての生物は一本の糸から生じたとする進化の本を出版していたこと、母親が世界的陶磁器メーカーのウエッジウッドの創始者の娘だったことなど、その家庭環境も紹介されている。また、ダーウィンが長年温めていた進化論を発表する契機になったのは、ウォレスという若い学者が同様の論文を書いていたためで、二人の論文が同時に発表されたことなど学問的探究ヘの態度として興味深い。

 展示の最後に、社会ダーウィニズムヘの批判があったことは大事だと思った。社会における強者は弱者よりも生まれつき優れた存在であり、成功がその証拠であるという主張は、勝ち組・負け組の単純な二分化といった今日の論調に重なる。展示では、社会ダーウィニズムは、ダーウィン自身が社会の不正や抑圧に断固として反対していたことからいっても、誤読、悪用と断じている。

 同展カタログには、マルクスが「心からの賞賛者として」と献辞をつけ『資本論』を贈り、ダーウィンが礼状で「政治経済学という重要で重いテーマについてもっと理解を深めることで、もっと御著書をいただくにふさわしい人間になりたい」と書いたことが記されている。科学的真理を追究した者同士の心の通い合いが、そこにある。(豊)
(「赤旗」20080416)

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ダーウィンのおもしろさ

 「ダーウィンの進化論」というと、古色蒼然、たいへん古めかしい響きである。「アインシュタインの相対性理論」というと、どうだろう? こちらはべつに古めかしくは聞こえない。それどころか、現代物理学の最先端だ。でも、チャールズ・ダーウィンが、その進化理論の一部である性淘汰の理論というのを発表したのは1871年、アインシュタインの相対性理論が最初に発表されたのは1905年。実は、それほどの差はないのである。しかし、この感覚的違いは何なのだろう? やはり、ダーウィンは19世紀の人で、アインシュタインは20世紀の人だ。二つの世界大戦と原爆、水爆の世界を知っているのと知らないのとでは、大きな違いである。

 アインシュタインは現代物理学の礎の一つを築き、現在の研究でも彼の考えはたいへん大事である。ダーウィンはどうだろうか? 実のところ、彼は現代進化生物学の礎を築き、現在の研究でも彼の考えはたいへん重要なのである。が、そのことは、一般にあまり知られていないかもしれない。ダーウィンの進化論は過去のもので、今はゲノム研究だという感じだろうか?

 いやいや、とんでもない。ダーウィン先生はとても「現代的」なのである。もちろん、ダーウィンの時代には、DNAどころか、遺伝の仕組みがまったくわかっていなかった。とこが、進化の説明には、遺伝の話が不可欠である。そこがわからないというのは決定的、致命的弱みであった。そこで、ダーウィンは、遺伝の仕組みとしてあり得そうな話を考えるために、苦労して頭を絞っている。さんざん頭を絞ってみたのだが、彼の考えた「パンジュネシス」という遺伝の仕組みは間違っていた。しかし、まさにその同じ時期、チェコのブルノの修道院にいたグレゴール・メンデルが、遺伝の本当の仕組みを示唆するデータを発表していたのである。ダーウィンは残念ながらそれを知らなかった。気づいていたら、飛び上がって喜んだろうに!

 そういう欠点はあるものの、ダーウィンの考察はたいへん深く、集めた事実の集積は驚異的で、結局のところ、現代進化生物学を築く礎となった。そして、彼が考え、著作の中にちりばめたさまざまな疑問には、今でもまだ解けていない、おもしろい問題がふんだんに含まれているのである。

 だいたい、ダーウィンというと、ひげもじゃで眉毛ももじゃもじゃの老人の肖像が出てくる。アインシュタインの白髪とひげは、なんとなく愛嬌があるが、ダーウィンのこういう肖像はおもしろみがないし、まさに古色蒼然である。でも、ダーウィンだって若いころもあったのだ。おまけに彼は、自分があまりハンサムでないことをひどく気にしていた。

 私は、31歳のときの、ジョージ・リッチモンドによるダーウィンの水彩の肖像画が一番好きである。結婚した翌年、奥さんのエマの肖像とともに対で描いてもらった絵だ。ここには、早くも溥くなってきた髪を気にしている、しかし結婚生活に満足した、お行儀のいい紳士がいる。すでにこのとき、生物の進化という考えを練り始めていて、それが当時のイギリスではとうてい受け入れられない物質主義的考えであるということにも、十分気づいていた。どうやって、そのような「危険な」考えを発表するか、それともしないか、いずれ仲間が出てくるのか、ダーウィンは、このころすでに周到にこれらのことを考え始めていたのである。画家をまっすぐに見つめる彼の澄んだ瞳の奥には、さまざまな秘密の思索が秘められていたに違いない。

 私が、チャールズ・ダーウィンに本当に興味を持ったのは、1987年、ブリティッシュ・カウンシルの奨学金をもらってイギリスのケンブリッジ大学に行ったときである。私は日本の大学で、人間の進化という、まさにダーウィンが一生かけて考えたテーマが基礎であるところの人類学を専攻したのだが、日本の教育の中でダーウィンの影はきわめて薄かった。ところがケンブリッジの動物学教室に行くと、ダーウィンの著作を読んでそこから何かヒントを得るという作業は、院生たちの間でごく普通に行われていた。

 おまけに、そのとき私が所属することになったのがダーウィンの名を冠しかダーウィン・カレッジであり、その建物は、ダーウィンの次男の家であったものと、その隣の屋敷とをつないだ建物だったのである。こうして、急にダーウィンの真っ只中に放り込まれた私は、遅まきながら進化理論をまともに勉強するとともに、チャールズ・ダーウィンという人物そのものにも興味を惹かれていった。

 ちなみに、ケンブリッジ大学は、ダーウィンが学んだ大学である。ダーウィンの所属したカレッジは、クライスツ・カレッジであり、ケンブリッジの町の中心近くにあるそのカレッジは、今でも当時そのままの面影をとどめている。それを言えば、ケンブリッジの建物の多くぱ、いずれも「当時そのまま」の面影をとどめているものばかりなのだが……。

 ケンブリッジに行く前、私がダーウィン自身について読んでいたものといえば、アラン・ムーアヘッドが書いた『ダーウィンとビーグル号』という、きれいな挿絵がふんだんにはいった伝記と、ギャヴィン・ド・ビアによる『ダーウィンの生涯』のみであった。どちらも、とてもおもしろかった。

 ムーアヘッドの『ダーウィンとビーグル号』は、動物行動学会かなにかが開かれたときに、本郷の近くの古本屋さんが会場に店を出していて、そこで買ったのを覚えている。大判の本で、かなりな値段であった。院生だった私は、かなり奮発して決心して買ったのを覚えている。ド・ビアは生物学者で、彼によるダーウィンの伝記は、私が学生のころに日本語訳が出たばかりであった。ダーウィンの妻になるエマ・ウエッジウッドが、かの有名なショパンその人からピアノを習ったことがあるなどという事実、つまりは、さまざまなダーウィン・トリビアはこの本を読んで知った。

 しかし、当時、ダーウィンに関する私の興味は、それ以上は進まなかった。実は、もっと以前、高校生の冬休みにこたつの中で、ダーウィンの『ビーグル号航海記』を、しかも父親の書棚から引っ張り出してきた古臭い岩波文庫で読んでいた。そのときは、なにもよくわからないまま、「航海記」とか「探検記」とかにあこがれていたというだけで、読み通した。まあ、おもしろかっか。でも、それ以上は、進まなかったのである。

 普段の現実の生活の中でも、人との出会いというのは不思議なものだ。会ったとたんに惹かれる人もいる。最初はそれほど印象はないのだが、そのうち、これはおもしろいと気づいて、とたんに惹かれるようになる人もいる。書物の著者との出会い、歴史上の人物との出会いも、同じなのだろう。知ったとたんに興味のわく人もあれば、徐々に、おもしろみがわかってきて、興味がつのってくる人もいる。私にとってのダーウィンは、まさに後者の典型であった。

 チャールズ・ダーウィンという人物は、何重の意味でもおもしろい。

 まず第一に、進化の理論を初めて提出した科学者で、進化生物学の基礎を築いた人である。後世の学問に、真の意味で甚大な影響を、しかも非常に広範囲にわたって及ぼした科学者というのは、そんなにごろごろいるものではない。アイザック・ニュートンは、そのような科学者の一人だろう。彼は近代物理学の基礎を築き、その全体は、ニュートン力学と、彼の名を冠して呼ばれている。チャールズ・ダーウィンは、それに匹敵する科学者である。進化生物学は、今でも彼の名を冠してダーウィニズムとも呼ばれる。

 第二に、学問の方法、科学の哲学という点で、ダーウィンの思索はたいへん興味深い。彼は演繹的な推論を論理的に緻密に行うとともに、それを支持する経験的証拠を、それこそ山のように集めた。さまざまな実験も考案し、家族ぐるみでそれを行った。統計的な手法がまだ確立していない時代に、定量的なデータを集めようと努力した。さて、そうやって彼が築き上げた理論と実証の集大成は、当時の一流の学者たちにどのように見られただろうか? ダーウィン自身がもっとも理解して欲しいと願っていた大御所たちは、みんな、それを認めなかったのである。なぜだろう?

 第三に、一人の誠実な科学者と、その人物を取り巻く時代の思潮という、科学と社会の関係の問題がある。ダーウィンも、やはり時代の子である。女性は先天的に男性よりも劣っているということが、当然としてまかりとおっていた時代に育った男性であった。その影響はいなめない。ところが、彼はその時代に、動物の雌が、なみいる雄のなかから自分の気に入った相手を選ぶのだという、配偶者選択の理論を考えたのである。

 彼はまた、奴隷制には断固反対であり、エジンバラでは黒人に鳥の剥製の作り方を習い、南米では、投宿先の地主が彼に貸してくれた黒人の奴隷と、ほぼ対等につきあっている。五年かけて世界一周した軍艦ビーグル号には、艦長の「話し相手」という資格で乗船していたが、下士官たちからも絶大な人気を博した、気さくな性格の持ち主であった。世界一周の間に、「未開人」「野蛮人」と当時呼ばれていた、さまざまな異文化の人々と出会い、違和感は感じながらも、みんな同じ人間だということを強く感じることのできる感性の持ち主だったのである。ダーウィンのこのような感じ方、考え方を見ると、人間のものの考え方に対する文化的影響、社会的影響とは何なのだろうかと、改めて考えさせられる。

 第四に、宗教と科学の関係という点でも、ダーウィンは興味深い。彼は、イギリス国教会がまだまだ絶大な力を持っている時代の人だった。なにより、ダーウィン自身、初めは国教会の牧師になるつもりでケンブリッジ大学に行ったのだ。しかし、進化の理論を考えることになり、彼の心の底、奥深くでの葛藤が始まる。しかも、彼の奥さんは熱心なキリスト教徒だった。これはかなり深い対立である。そんな結婚生活とは、いったいどんなものなのだろう?

 あれやこれやで、ダーウィンはたいへん興味深い。しかも、単に歴史上の人物としておもしろいだけでなく、彼が投げかけた問題、レールを敷いた考え方は、今でも重要であるし、いまだに解けない多くの問題を提起している。そんな人がたどった人生はどんなものだったのか、のぞいてみたくなるではないか。

 そんなわけで、私は、ダーウィンの生まれたところから亡くなったところまで、その足跡をなるべく詳しくたどってみたくなった。ダーウィンの行ったところ、住んだところはみんな訪ね、ダーウィンと交流のあった人々についても調べ、ダーウィンゆかりの地をみんな訪れてみたいと思うようになった。もちろん、「みんな」というのは無理である。しかし、行ける範囲で探しあてて、実際に歩いてみた。

 これから、それらの場所をご案内するとともに、チャールズ・ダーウィンという人物について、彼が提起したさまざまな問題について、私も考えてみたいと思う。
(長谷川眞理子著「ダーウィンの足跡を訪ねて」集英社新書 p10-18)

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◎「展示の最後に、社会ダーウィニズムヘの批判があった……社会における強者は弱者よりも生まれつき優れた存在であり、成功がその証拠であるという主張は、勝ち組・負け組の単純な二分化といった今日の論調に重なる」と。