学習通信080428
◎お前の代わり、いくらでもいるんだ……
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《潮流》
いまの日本で、会社の仕事はもうけの追求にあると決まっています。ところが、あえて営利に反する行いに熱中する大企業も少なくありません
▼鈴木登美夫さんの仕事は、製品検査です。「職場は鈴木らでもっている」といわれるほど。部長や課長が取引先からの質問に答えられないとよびだされ、代わりに説明します。上司に仕事を教え、講師もつとめました
▼しかし会社は、能力がないからと管理職にしません。羽田和人さんも昇進を阻まれました。羽田さんは、ワープロの大ヒット商品「RUPO(ルポ)」設計者の一人。会社が表彰したとき、羽田さんだけ授賞式からはずされました
▼二人とも、電機大手の東芝の社員です。「仕事ができる」人の力を生かさないだけではありません。会社は、鈴木さんや羽田さんを尾行したり職場のつきあいから排除するため秘密組織をつくり、警察出身者を多く雇い入れました。経歴が分かっている神奈川県警の元警察官だけでも八人
▼リストラに走る会社が、わざわざ警察の天下り先のような組織をつくり、余計に人件費をつぎこんだのです。鈴木さんや本田さんは、まともな賃上げ、過労死や事故のない安全な職場づくりを求めてきました。それを会社は、「問題者」とよんで差別しました。会社の利益を見失って
▼共産党員や労働者への差別をやめるよう求めていた九十六人が、会社と和解を結びました。公正な処遇や再発の防止をうたう協定。四十年ごしの差別とのたたかいが、いま実りました。
(「赤旗」20080426)
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第1章 キツーイー言 《仕事編》
ケース 1
「お前の代わりは
いくらでもいるんだよ」
「おい、明日シフト入って」──ファミレスのバイトのあがりぎわ、店長が言った。フロアと洗い場を延々一〇時間続けてクタクタになった足が、どっと重くなった。
「あの、オレ昨日も今日も深夜まで入ったし、明日は夕方から約束が……」。日付の変わった時計を見ながらそう返すと、店長はにらみ返してきた。
「お前フリーターだろ? 時間都合つけろよ。いや、イヤならいいよ。辞めたっていいよ。お前の代わり、いくらでもいるんだから」
一年くらい前からバイトが減らされて、フロア係は減った。でも時給は九〇〇円のまま。辞めるやつもいたけど、俺は生活費稼がなきゃだし、どこのバイトも時給は変わらないから続けている。くっそ──、店長のやつ、ムカつく。こっちの足もと見やがって……。
「オレ」がたじろいだのは……
ファミリーレストランの店長は、アルバイトの「オレ」に、勤務時間が終わった段階で、翌日、予定外のシフトに入ることを求めています。翌日の予定がすでに入っていて戸惑う「オレ」は、店長に「お前の代わりはいくらでもいるんだよ」といわれて、ぐっと詰まる、そんな場面です。
ここで「お前の代わりは……」という時の「お前」とは、当然ながら、このアルバイトの店員である「オレ」という個人を指しています。この人と同じ人は、世界中探してもほかにいないわけですから、原理的にいえば「代わり」のいるはずがありません。ですから、店長は意識していないでしょうが、この「代わり」という言い方は比喩として使われているのです。
この場合、「代わり」という言葉は、「オレ」と同じように、アルバイト店員として働ける人という意味に限って使われています。その点においてのみ、「オレ」に代わる者という意味であって、そのほかの「オレ」の特徴を持っていようがいまいが、そんなことはどうでもいいわけです。したがって、ここでいう「代わり」とは、「オレ」と同じようにアルバイトとしてこのレストランで働いている人、あるいはアルバイトを募集すれば応募してくるであろう人々のことを意味しています。
そういう人々を「代わり」という言葉で表現するこの比喩は、本来なら個別的で置き換え不可能な人間を、その他大勢のアルバイト店員、あるいは今後アルバイト店員になる人びと一般に置き換えるものになっています。個人ではなく、抽象的な「アルバイト店員」という形で、「オレ」という個人が一般化された瞬間、個人の抱える個別性は一切排除されてしまいます。ですからある意味で、この言葉には、それを発した店長が「オレ」から、個別的な人間の顔や名前などを奪いとっているという側面があるのです。これは、この言葉に内在する暴力性といってもいい側面です。
個人対個人の人間関係であるにもかかわらず、相手の個別性を奪うような言い方は、言われた側に、自分の都合や条件を主張できなくさせる潜在力を持っているのです。この事例で「オレ」は、翌日の約束(それは久々のデートかもしれませんし、病気のおばあちゃんのお見舞いかもしれません)について言いかけながら言葉をのみこんでいます。それは、この言葉に内在された暴力性に、「オレ」が気づいてたじろいだからです。
人を傷つける言葉の論理破綻
さて、店長の言葉の意味通りに、もう少しつっこんで考えてみましょう。翌日のシフトについて本当に「代わりはいくらでもいる」のでしょうか。もしそうなら、店長は、夜中に突然、「オレ」に対して、翌日働けなどと言いだす必要はないでしょう。ほかにあてがあるならほかの人間に頼めばいいのですから。つまりこの場合、「代わり」はおらず、店長は「オレ」にしか頼めない状況に置かれていることがわかります。ですから「代わりはいくらでもいる」というのは、虚偽であり、現実の事態とは矛盾した表現なのです。むしろ店長こそ、ここでは追い込まれていることになります。
一年ほど前からアルバイト店員が減らされ、店長にとってシフトのやりくりが厳しくなったという事情が、影響しているのかもしれません。シフトを組むことが大変な状況の中で、突然、翌日のシフトの予定者が急病のため出られなくなったなど、緊急の事態が生じて、シフトが組めなくなったのでしょう。アルバイト店員の総数が減らされる中で、店長自身にも大きなストレスが加わっていることがわかります。アルバイト店員を減らすということは、本社が決めることですから、人件費を減らそうとする本社の意図が、現場を混乱させているともいえるでしょう。
いずれにしても、店長にしてみれば、もし「オレ」に断られたら、翌日のシフトが成り立たない、だから絶対に断らせてはならないという事情があるわけです。個別的な事情を考慮していたら、自分が責任をとらねばならなくなる、だから、強圧的あるいは権力的に「オレ」を従わせなければならない──そう考えて店長は、自分の命令は絶対だということを示すためにこのような言い方をしたのではないでしょうか。
つまり、「お前の代わりはいくらでもいる」は、本当に事実がそうだというよりも、「オレ」に断る余地を与えないために、強圧的に、「イヤならクビだ。お前がクビになっても代わりがいるんだ」という趣旨で使われているわけです。ある意味で「オレ」に対する生殺与奪の権を、店長が握っていることを誇示する言葉だといえるでしょう。つまり、この言葉遺いによって、「店長対店員」というよりは、「雇い主対雇われている者」という関係に置いているのです。
翌日に働いてほしい旨を伝えながら、クビをちらつかせる──クビにしたら働けないわけですから、それ自体が矛盾です。人を傷つける言葉には、必ずこうした矛盾や論理破綻がついてまわるものです。
「法の言葉」の持つ意昧とは
さて、ここで「オレ」がシフトに入ることを拒んだとしても、彼は何の責任も問われません。「オレ」は、もともと決められたシフトにしたがってまじめに働いているのですから何の落ち度もありませんし、翌日については、理由があってもともとシフトから外れていたのですから、それを無理に働かせるというのは、法律用語を使えば、権利侵害・不法行為といっていいでしょう。
クビにするという脅しにしても、労働基準法には「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合」の解雇は許されないと明示されているのですから、「オレ」は恐れることはないわけです。明らかに店長の主張の方が不法であり、本来「オレ」はここで、店長のいうことを堂々と拒否してしまっていいわけです。
しかしここで「オレ」は、「足もと見やがって……」とおびえています。「オレ」は労働基準法を知らないのかもしれません。変だ、おかしいと思っても、雇用の場における労働法の基本条項を知らなければ、抵抗できません。法を無視した店長の脅しが効いているわけです。これは、いわば「お前の代わりはいくらでもいるんだ」という脅し言葉によって、この場がいわば「無法状態」になっている、法が宙吊りの状態になったということです。
「お前の代わりはいくらでもいる」という言葉は、最近あちこちで聞かれる言葉です。多くの場合、このケースのように、雇う側の立場の人が、雇われて働いている人に、無理無体な指示・命令──サービス残業のように、場合によっては犯罪になるような内容のこともあります──をのませようとするときに使われる言葉です。本来なら不法・不当なことをおしつけるために「無法状態」をつくりだす言葉なのです。
そしてこの脅し言葉は、すでに見たように比喩を使った言葉のからくりによってもたらされています。このケースで「オレ」は、おそらくそのからくりを見抜けていないと思いますが、これが無法な脅し言葉にすぎないと認識できれば、とりあえず、店長の要求を拒否して帰ることができるはずです。逆にいえば、言葉をよく理解する、とりわけ法的な根拠に基づいて理解するということは、自分の基本的人権を守り、窮状から救う力になるともいえるのです。
この場合、言葉を操る能力は、労働法の知識(ここではそれほど難しいものではありませんが)をきちんと使いこなす能力とも一体のものです。言葉というのは、大きな力を持っており、それを意識していないと、相手が仕組んだからくりによって、こちら側が絡めとられてしまいます。そのからくりは、たとえば比喩や転義(言葉の意味が形を変えていく)といったものです。それは、ここで見たように、言葉を交わしている人間同士の関係や力関係によっておし進められますし、いくつものからくりの連鎖がある場合もあるでしょう。そうしたからくりを暴露し、対等で平等な人間と人間の関係に置き直すのが、法の言葉の大切な社会的機能であると思います。
二人は対立している場合じゃない
さて、このケースの場合、からくりは、個別の事情を抱えた個人から、比喩の言葉によって個別性を奪う点にありました。もちろん、誰かが誰かの個別性を奪う権利などありません。個別性を奪うことは、対等な人間関係ではなく、非対称な支配と被支配の関係になることを意味します。個別性を奪うことは、自分にもある個別性を相手には認めないということです。対等な人間関係というのは、最低限、「あなたも人間だし、私も同じ人間だ」とお互いに承認できる関係であるはずです。しかし、たとえば雇用主や上司が、雇ったアルバイトを自分と同じ人間であると認めなけれぱ、要するに「誰とでも置き換え可能な労働力商品」としてしか見なくなってしまい、対等な関係ではなくなるでしょう。
現実の世の中には、いろんな意味やレベルで、強い立場の人と弱い立場の人、支配する人とされる人がいるともいえます。しかしいずれの立場にあっても、共通して拘束される法やそれに準ずるものがあれば、それを媒介にして対等の関係をつくりうるのです。法的秩序とはそういう対等な相互承認の上に成り立つシステムでなければなりません。法的な秩序をつくり、たとえ支配・被支配の関係があったとしても、また様々な限界があったとしても、何らかの形で対等に相互承認できる関係をつくりだすということです。
この場合の法的秩序は、アルバイトとして雇われた際の契約事項や就業規則であり、さらにさかのぼれば、労働基準法や日本国憲法だといえます。見てきたように、ここでの店長は、その法を壊す言葉を発したわけですが、それはおそらくこの店長自身の首を絞めることにもなる気がします。「無法状態」が容易につくりだされるような職場では、何かの拍子に店長自身も、ここでの「オレ」と同じ立場に立たされてしまうかもしれません。たとえば本社から指示が来て、問答無用で別な店に飛ばされるというようなこともありえるでしょうし、あるいは店長自身が過労死するまで働かされるかもしれません。
その意味で、本来、店長と「オレ」も、職場の人員を減らされることで、同じような厳しい労働条件を強いられているわけです。この二人は本社に対する利害関係という点では、むしろ共通しており、二人が対立すべきところではないともいえます。では、この二人はどうすべきか。そこから先の話は、後の章ですることにしましょう。ここではひとまず、暴力的な言葉にたいして、そのからくりを見抜き、法的な前提に立って考えることの大切さを強調しておきたいと思います。
(小森陽一著「理不尽社会に言葉の力を」新日本出版社 p7-15)
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ワーキングプアと『資本論』
普通、人は誰でも学校を出て働くことになる。働いて賃金(給料、収入)を得て、生活するようになって一人前といわれる。就職できると、まず時間ぎめで賃金(時給、日給、月給)が決まる。実は、経済学は、もう始まっている。リアルな話、資本主義下で人間は、いくらかのお金(マネー)で売買される労働力商品なのだ(ただし賃金は労働力の価値・価格以下に押し下げられる)。マルクス『資本論』は、最初の第一篇「商品と貨幣」から始まり、貨幣が資本となり、資本の生産過程、剰余価値(有名な搾取論)、労賃、資本蓄積の法則へと展開し、蓄積の歴史的傾向が明らかにされる。学生時代にどうしても学習しておきたい。
私たちが労働し生活する日本の資本主義は、小泉政権がすすめたアメリカ仕込みの新自由主義、とくに労働法制の規制緩和によって発達した資本主義国として異常な貧困と格差が拡大し、ワーキングプアの増大が重大な社会問題となった。その根源には大企業による雇用破壊がある。経団連会長企業キヤノンの実態は、正社員から派遣労働者への切り替えがあり、人間をモノのように使い捨てて「優良」企業のレッテルをはった。
これらの問題を批判的に把握する基本的理論は、『資本論』第七篇「資本の蓄積過程」の第二三章、とくに相対的過剰人口の累進的生産、さまざまな実存形態等の諸節で解明されている。青年時代に『資本論』を読んで二一世紀を明るい展望をもって生きる。それこそすばらしい出発点である。(泉)
(「経済」08年5月号 新日本出版社 p5)
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◎「……逆にいえば、言葉をよく理解する、とりわけ法的な根拠に基づいて理解するということは、自分の基本的人権を守り、窮状から救う力になるともいえる」と。