学習通信080502
◎「最後まで自分で政治責任を果たそうとした」……

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オピニオン・解説
政考 政読

リーダーの資質とは

 久しぶりに激論となった九日の党首討論で、福田康夫首相は「一つ一つの大事なことについて結論が遅いですよ。民主党と申しますか、野党は遅い」と決め付けた。首相は公明党の女性議員と会食した際、リーダーの資質を尋ねられ「政治家にとっては信義が一番大事だ」と話したという。日銀総裁人事で振り回された民主党の小沢一郎代表への当てこすりだろうが、確かに「決断力」と「信頼感」はトップに立つ政治家に不可欠の資質に違いない。

 それで思い出したのは、共産党の不破哲三氏が二〇〇三年二月、衆院議員引退を表明した記者会見だ。当時議長だった不破氏は、一九七〇年代の首相について「最後まで自分で政治責任を果たそうとした」と話し、田中角栄氏らを評価した。メモを取りながら、何とも面妖なと思ったが、不破氏が披露したエピソードを聞いて得心した。

 一九七四年一月、不破氏は衆院予算委員会の総括質疑に立った。当時は第一次石油ショックのさなかだった。トイレットペーパー買いだめ騒ぎや物価急騰が社会問題化する中、政府は業者の売り惜しみなどを監視する三百四十一人の価格調査官(物価Gメン)を「兼任」で任命したが、不破氏は党独自の調査でほとんど機能していない実態を突きつけ、「専任」の調査官を置くよう求めた。

 当時の中曽根康弘通産相ら閣僚は「事務官や技官を補助として使える」などと釈明したが、最後に答弁に立った田中首相は「大変よく分かりました」と引き取り、直後に専任の調査官設置を閣議で決定。六日後には七十五人を新たに任命し、兼任も五百三十三人に増員したのだった。不破氏は著書で「一週間以内に実行に移した素早さはみごとなものでした」と述懐している。

 今月中旬、新宿御苑で恒例の「桜を見る会」が開かれた。主催した福田首相は、女優やタレントらを前に「先は明るい。物価が上がるとか、しょうがないことはしょうがない。耐えて工夫して切り抜けていくことが大事」とあいさつした。

 花見という状況を割り引いても、いかにものんびりし過ぎている。「後期高齢者医療制度」を「長寿医療制度」と言い換えても、わずかな年金で生活する高齢者の気持ちを逆なでしては台無しだ。首相には内閣支持率に一喜一憂しない「鈍感力」も必要だろうが、せめて国民の暮らしや心情に「想像力」を働かせ、思い切った決断をしてほしい。(共同通信政治部次長高橋茂)
(「京都」080501)

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 田中角栄首相の場合

 前の章でも言いましたが、田中首相との論戦は、結構楽しいものでした。第五章で紹介したベトナム戦争などの外交問題では、成功と言える答弁ぶりではありませんでしたが、論戦が終わると、質問者である私の席に寄ってきて、「今日はやられたよ」とか、論戦の印象について話し合う、これは、私の場合には、田中首相とともに始まった予算委員会のよき慣行≠ナした。この慣行≠ヘ、少なくとも七〇年代の歴代首相には、引き継がれていったと記憶しています。

石油ショックと価格調査官問題

 一九七四年一月の論戦は、政府に突きつけられた問題がどんなにきびしい問題であっても、そして突きつけた相手が共産党であっても、そこに重大問題があると分かったら、機敏に対応する、そういう点では、田中角栄らしさを彼なりに発揮した質問戦でした。

 問題は、二つありました。

 一つは、「石油ショック」のもと、全国に広がった「売惜しみ」と「買占め」、モノ不足と物価急騰への対応の問題です。

 田中内閣は、この非常事態にたいして、三四一名の「価格調査官」(物価Gメン)を緊急に任命・配置し、そのことを、政府が物価対策に本気で取り組んでいる現れとして、当時、大きく宣伝していました。

 調査官たちは、本来の職務との兼任の形で任命されていましたが、いったいこの「調査官」は、その機能を果しているだろうか。私たちは、国会で手分けをして、任命された調査官の人たちに面会したり、電話取材をしたりして、実際の活動状況を調べ上げ、私は、その上で総括質問にのぞみました。

 まず各省の大臣たちにその省の調査官の活動ぶりを質問しました。どの大臣も、わが省の価格調査官は、兼任でも新しい仕事に全力であたっていると、答弁をします。それらを聞いた上で、私は、調査官自身へのアンケート調査にもとづく実態を詳しく報告しました。アンケートヘの答えはたいへん正直なもので、調査官への任命とは形だけのこと、任命された当人たちにもその任務への自覚がないし、そもそも本気で仕事に当たる条件も保障されていないという実態を、浮き彫りにしたものでした。

 おそらく、私たちの実態調査を聞いて、もっともショックを受けたのは、田中首相ではなかったか、と思います。その場では、「政府のテンポがおそい、ということであれば、これはもうピッチを上げてやらなければならない、と考える」という答弁にとどまりましたが、その実行は果断でした。

 なんと、その日のうちに、閣議で専任£イ査官の設置を決定し、六日後には、七五名の専任調査官を新たに任命、兼任の調査官も三四一名から五三三名に増やすという措置に踏み切りました。国会で議論してから一週間以内にそれを実行に移した素早さはみごとなものでした。

「日本分析化研事件」は科学技術行政をゆり動かした

 この日、取り上げたもう一つの問題は、政府にとって、もっときびしい問題でした。

 アメリカの原子力潜水艦を一九六四年に初めて受け入れてからちょうど一〇年、横須賀、佐世保、沖縄などへの原潜の寄港は、いよいよひんぱんになっていました。その都度、原子力艦船による汚染を監視するために、海水と海底土の放射能調査がおこなわれます。政府が、この調査を独占的に委託していたのが、「日本分析化学研究所」という東京・板橋にある研究機関でした。この研究所は、科学技術庁がお墨付きをあたえたように位置づけられており、全国の原子力発電所の環境放射能調査をはじめ、多くの自治体からの公害調査なども、その大きな部分がここに集中していました。

 前の年に、この「分祈化研」で科学技術庁の原子力局もからんだ収賄事件が発覚、調査内容についても、引き受けている仕事量が多すぎる、手抜きがあるのでは≠ニいった噂も流れていました。しかし、政府は、この研究所を信頼して、原潜監視体制を「分析化研」に事実上丸投げ≠オた状態で、ことをすませていたのです。

 私は、これはこのままほうっておけない問題だと思い、焦点を原潜寄港のさいの放射能調査にしぼり、「分折化研」による観測データを記録した報告書を、科学技術庁から取り寄せました。

 放射能の観測データというのは、その海水に含まれている放射性元素の量を、ガンマ線のエネルギー・スペクトルという波形グラフで表したものです。原潜の寄港にともなう異常放射能が出ていれば、そのことがグラフの波形の異常に表れますから、これで汚染の監視ができるわけですね。このグラフは、別の場所で測定した結果が同じ波形になることはないし、同じ場所の海水を分祈しても、測定の時点が違えば、必ず違いが出てきます。別のものを分祈して、波形のすべてが一致するということは、絶対にありえないのです。

 ところが、科学技術庁で、そのグラフを百数十枚見せてもらうと、波の形がよく似ているものが何枚かずつあるのです。よく調べたいと思って、渋る相手を口説いて、ようやく十数枚のコピーをもらい、それを机の上にならべて、にらめっこをしました。どこかに、疑惑を解くカギがあるに違いない、と。

 そうすると、十数枚のなかの、七二年八月に横須賀にホークビル号という原潜が入港したときの波形と、そのニヵ月後の一〇月、同じく横須賀にパファー号が入港したときの波形が、まったく同じだということに気がつきました。さらにほかのものを見ると、波形がよく似ているけれども、完全には一致しないというものがある。これには、タテとヨコの縮尺を変える操作がしてありました。縮尺をもとへ戻すと、二つの波形が完全に一致しました。

 これで、たまたまの作業ミスではなく、意図的な捏造であることも、その手口もすっかり分かりました。ある原潜が入港したさい、海水の測定をやり、分析結果を波形のグラフにしたら、そのグラフから、縮尺を変えたり、時には同じものも混じえて、何枚ものグラフを作成し、ほかの原潜が入港したさいのデータを創作≠オていたのですね。一回の調査でだいたい一〇隻分の原潜の調査データを複製していました。測定データの大規模な提造でした。

 いよいよ質問の当日です。さきほど話した「価格調査官」などの問題から、原潜入港問題に主題が変わり、「分析化研」の問題に入っても、政府側は、見たところ気楽な構えでの対応でした。主な答弁に立ったのは原子力局長ですが、前年来、科学技術委員会で何度も取り上げられて来たテーマなので、汚職や事務の怠慢などの欠陥はあったが、放射能測定そのものはちゃんとやっている、だから、国民の安全は確保されている∞測定データの確認はきちんとやっている≠アんな答弁で切り抜けられると思っていたようでした。しかし、私の話が測定結果のデータの内容に入り、それを表現する波形の問題に進むにつれ、次第に顔色が変わってきました。そして、二つの違う原潜についての測定データの波形が一致していることを、波形グラフそのものを手にして示すと、言葉がなくなりました。意図的な捏造が、誰の目にも明瞭な形で、完全に立証されたからです。データの確認作業は責任をもってやっている≠ニ言いながら、こういう手口も見技けないようでは、科学技術庁の監督能力はゼロだということですから。

 一週間後の予算委員会に、政府から、原潜関係のデータ全体を点検した結果が報告されましたが、政府に提出されたデータの三六%から四〇%が捏造だった、という内容でした。

 この時も、田中首相は、ことの重大性を、質問の矢面にたった原子力局長以上に、深く理解したと思います。捏造の全貌が明らかになったあとも、科学技術庁長官は、「調査し検討をすすめて、今後については、万遺漏なきを期したい」といった、中身のない官僚風の答弁をしたのに続いて、首相が立ち、「非常に科学的な問題だ。重大な問題として、今後、遺憾のないよう万全の体制をとりたい」と、簡潔ながら決意をこめた答弁をおこないました。

 私は、それから、各分野の大臣にこの研究所との関係を聞きました。科学技術庁は、原潜の放射能監視のほか、全国の大気汚染、死の灰関係の調査。運輸省は原子力船むつにかかわる海水の調査や港湾の水質と汚泥の調査。電力会社は、全国の原子力発電所の安全性の調査。環境庁は魚介類の汚染調査。通産省は、「水銀公害」をはじめ工場排水などの化学分析。これには、さらに農林省、建設省、気象庁なども続くのですが、国民の安全にかかわる調査のほとんどが、「分析化研」に丸投げされていたのです。

 最後にもう一度答弁に立った田中首相は、当座を取り繕うような話はいっさいしないで、自分が問題の重大性を受け止めたことを、人類の歴史にまで触れながら強調し、「『分析化研』の実態を、いまの質問ではじめて知った。現在の体制がどうなっているか、詳しくは知らないが、非常に重大な問題が提案されたのだから、科学技術庁を督励しながら、万全の体制をつくるべく政府として全力をあげたい」と約束しました。

 この事件は、ことの重大性から、日本全体に大きな波紋をひろげました。もちろん、「分祈化研」の業務は即日停止になりましたし、アメリカの原潜の日本入港は、その日からピタリと止まりました。各新聞は、いっせいに社説でとりあげ、原潜問題と同時に、原子力発電所や公害の問題をふくめて、国民の安全を保障できる科学技術行政の抜本的な改革を要求しました。

 政府はまず、原潜監視の新しい体制を確立することに力をそそいだようですが、ともかく新体制ができて、原潜の入港が再開したのは、一八三日たった後でした。それまでの半年間、アメリカの原潜は、一隻も日本に入港できなかったのです。

 ただ、科学技術行政の全体についていうと、このとき一定の改革はおこなわれ、「分析化研」のような原始的な捏造はなくなったかもしれません。しかし、この事件が、公害や原子力の問題を含め、本当に国民の安全を保障できる科学技術行政への転機になったかというと、やはり自民党流のもので、そういう視野に立った本気の改革には手がつけられませんでした。そのことは、原子力関係の事故が起きる度に、多くのみなさんが感じていることだと思います。この事件で提起された宿題の大きな部分は、いまなお、未解決で残っているのです。
(不破哲三著「私の戦後六〇年」新潮社 p167-172)

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◎「政府に突きつけられた問題がどんなにきびしい問題であっても、そして突きつけた相手が共産党であっても、そこに重大問題があると分かったら、機敏に対応する、そういう点では、田中角栄らしさを彼なりに発揮した」と。