学習通信080515
◎アンペイドワーク……

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主婦業は年俸1200万円
「母の日」米社試算

 【シリコンバレー=時事】米人材情報会社サラリー・ドット・コムは十一日の「母の日」に合わせ、子どもがいる専業主婦がこなす家事や育児は合計で年俸十一万六千八百五j(約千二百万円)に相当するとの試算を発表しました。

 同社は「ママの仕事の重大さを認識してもらうきっかけに」と期待し試算をまとめました。

 同社はまず、主婦約一万八千人の作業時間を集計し、分類。その上で、料理を「コック」、子どもの世話を「保育士」、車での送迎を「運転手」などにそれぞれ依頼したと仮定し、外注費用を積算しました。

 専業主婦の母親の作業時間は平均で毎日十三・五時間に上ったため、超過勤務手当がかさみ、年俸が膨らんだといいます。
(「赤旗」20080514)

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『資本論』は家族や家事労働を分析していないのか

1 資本主義的再生産への家族の組み入れ

 同じアネット・クーンは別の論文で次のようにも述べている。

「(マルクスには)資本にとって労働力の再生産の必要性は認識されてはいるが、他方で、労働力の再生産の場であるプロレタリア家族の場合となるとそうなっていない、これは、純枠な形態でのプロレタリア家族が資本制下において直接には交換価値を生産せず、使用価値しか生産しないということに由来するのかもしれない。だからこそ、家族は、資本の蓄積作用についての分析の範囲外にあるものとみなされるのである。マルクスは労働力の再生産を問題にしてはいるが、そのさいに労働力の再生産の制度に内包されている全般的な意味合いを考察の視野におかなかった」。

この文章だけではわかりづらいかも知れないが、ここでのマルクス批判の論点は大きく、@マルクスの理論にとって家族は「分析の範囲外にある」、Aその理由は家事労働が「交換価値」を生産しないことによるのかも知れないという二点にわけられる。

そしてこの第二の論点については、ポール・スミスも次のように述べている。「家事労働は、マルクスの価値論からは問題とならない。というのは、家事労働は価値論の対象、すなわち商品の生産と交換に含まれないからである。その結果、家事労働は、商品の資本制生産様式の、部分とならず、むしろそれが継続的に再生産する外的存在条件の一つとなる」。これも概ね同様の論点といって良いのだろ。

 まずマルクスが労働者家族を資本蓄積の「分析の範囲外」におき、それを資本の分析にとっての「外的存在条件」に追いやったという批判から見ていきたい。この種のマルクス批判を根拠づけるものとして、「マルクス主義フェミニズム」が度々引用するのは『資本論』の次の文章である。

「労働者の個人的消費は、それが作業揚や工場などの内部で行なわれようと外部で行なわれようと、労働過程の内部で行なわれようと外部で行なわれようと、資本の生産および再生産の一契機であって、それはちょうど機械の掃除が労働過程中に行なわれようとその一定の休止中に行なわれようと、資本の生産および再生産の一契機であるのとまったく同じである。労働者はその個人的消費を自分自身のために行なうのであって、資本家のために行なうのではないということは、事態になんのかかわりもない。たとえば、役畜の食うものは役畜自身が享受するとはいえ、役畜の消費が生産過程の必要な一契機であることには変わりはない。労働者階級の不断の維持と再生産は、資本の再生産のための恒常的条件である。資本家はこの条件の実現を、安心して労働者の自己維持本能と生殖本能にゆだねることができる」。

 クーンやスミスは、とりわけ最後の「安心して労働者の自己維持本能と生殖本能にゆだねることができる」という箇所を強調し、だからマルクスは労働者家族の分析を研究の範囲外に追いやったのだという。だが、事実は逆ではなかろうか。

この文章のすぐ後で、マルクスは「社会的観点から見れば、労働者階級は直接的な労働過程の外部でも、死んだ労働用具と同じように資本の付属品である。彼らの個人的消費でさえも、ある限界内では、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない」と書いている。

つまりここでマルクスが明らかにしているのは、家庭の中での食事や休憩や睡眠などの個人的な生活は、それが「労働過程の外部」にあるにもかかわらず労働力を再生産する役割を果たしており、実質的には資本主義的再生産の不可欠の構成要素に組み込まれているということである。

これはフェミニズムによる「近代家族」の研究にとっても、重要な論点として位置づけられるべきものであろう。それは資本主義の成立に伴う生産手段の集中によって家族経営の解体が進み、それまでの「家」から労働の場としての公的性格が失われ、職住分離の結果として純粋な私的空間としての「家庭」が生まれることを強調する。そのような「家庭」の形成は確かに、一面の真理であろう。

しかし、マルクスの先の議論は「近代家族」の分析に対して、一見「私的」と見える労働者「家庭」が、実は資本主義的再生産の拠点という新たな「公的」役割を担わされており、それによって子どもたちや専業主婦を含むすべての家族構成員がその社会的生産関係の中に包み込まれていることを指摘するものとなっている。これは現代の労働者家族を考えるうえで欠かすことのできない重要な見地ではなかろうか。

2 家事労働論の土台と残された課題

 次に、マルクスは家事労働を論じていないという批判についてである。これについては確かにマルクス自身による明示的な展開があるわけではない。しかし、その賃金や労働力価値の分析は、家事労働への一定の分析視角をすでに含んだものとなっている。先ずマルクスは労働力の価値について次のように述べていた。

「労働力は、生きた個人の素質として実存するのみである。したがって、労働力の生産はこの生きた個人の生存を前提する。この個人の生存が与えられていれば、労働力の生産とは、この個人自身の再生産または維持のことである」。

この議論の上に、先に見た「労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子どもたちの生活手段を含む」という論点を重ねるなら、その価値に子どもだけではなく子どもを産む母親や、これを育てる大人たちを維持する労働力の価値が含まれることは明らかである。つまりマルクスの労働力価値の分析は、現役労働者の生産や子どもの再生産に必要な「家事」労働の形で支出される大人の労働力の価値を、すでに含み込むものとなっている。

これはマルクスの労働力価値論から導かれる「家事労働」論の重要な内容となるものである。ただし念のためにいっておけば、ここにいう母親が労働者であるか専業主婦であるか、またこの家庭が父子家庭であるか、母子家庭であるか、あるいは両親同居の家庭であるか、祖父母が同居する家庭であるか、等のことは問われない。なぜなら、ここでも論じられているのは社会的平均的な労働力の価値だからである。

 あらためて先のスミスの文章にもどってみれば、そこにはさまざまな問題がある。

例えば第一にスミスには「労働」の価値か「労働力」の価値かという、マルクスの経済理論の根本にかかかる点での混乱がある。「マルクスの価値論」を問題にする以上、家事労働の価値ではなく、家事労働の形で支出される労働力の価値が問われねばならないはずである。

第二にスミスは家事労働が「商品」に含まれないというが、家族構成員が家事労働の形で支出する労働力は現に労働力の価値を構成しており、したがってすでに労働力商品として売買されている。ただしそれは家事労働として発揮される労働力だけで単独に、誰の目にも見える形で売られているわけではない。それはちょうど「修業費」や子どもの育成費がそうであるのと同様に、職場で発揮される現役労働者本人の「労働の対価」という法的形式のもとで、いわば社会の表層には現われない形で、実態として売られているということである。

第三に家族や家事労働は資本主義的再生産にとっての「外的存在条件」ではなく、マルクスによっても労働力商品の生産と再生産に不可欠の内的条件としてとらえられている。そして、それはすでに見たように「近代家族」が重要な「公的」(社会的)役割を果たすことを明らかにするものである。スミスヘの疑問はとりあえず以上のようにまとめられるが、マルクスの賃金論に対するいささかでも腰のすわった検討は、スミスに限らず「マルクス主義フェミニズム」の全体にとって希薄なように見える。しかし、マルクスの賃金論にはジェンダー視角から見て、注意深く読むに値する内容が豊富に込められていると思われる。ぜひ正面からの検討を期待したいところである。

 なお、右のスミスに対する第三の指摘については、ただちに次のような補足が必要である。先にクーンは「マルクスは……労働力の再生産の制度に内包されている全般的な意味合いを考察の視野におかなかった」と述べていた。クーンがいう「労働力の再生産の制度」とは具体的には労働者家族内部の人間関係のことであり、その「全般的な意味合い」にはおそらく特に専業主婦のいる「近代家族」における男性上位の力関係の仕組みが含まれている。

先に資本主義的再生産の構造に関わる限りでの労働者家族の位置づけについては紹介したが、ここでクーンが期待する家族内部の男女の力関係についてマルクスがまとまった分析を残していないのは事実である。もちろん何もかもをマルクス個人に求めることはできないが、その後今日までの科学的社会主義の歴史を見ても、資本主義の社会や家族における男女の力関係についての研究に大きな立ち遅れがあるごとは否定できない。この領域での理論活動の遅れについては、科学的社会主義の側にもより鮮明で根本的な自覚が必要であろう。

なお、第三章牧野論文における労働者家族の「家長」に関するマルクスの見解の検討は、極めて貪欲な問題提起となっている。

3 「アンペイドワーク」論とのかかわりで

 最後に付け加えておけば、家事の形で支出される労働力ヘの支払いという先のマルクスの見解は、家事労働を「アンペイドワーク(無償労働)」の一つととらえ、その労働の社会的意義や重要性を主張し、ペイドワークとアンペイドワークの適切な時間配分、また男女間でのアンペイドワークの公正な配分を主張する広範なフェミニズムの議論とただちに対立するものではない。

抽象から具体へのマルクスの賃金論を順に追いかけるのなら、専業主婦をも含む労働者家族の維持に必要な賃金の支払いは明確であろうが、その支払いが夫個人の「労働の対価」として現象する日常生活のレベルにおいては、家事労働が「無償」と理解されるのはごく自然で常識的なことである。

この関係は「労働の対価」の本質が「労働力の価値・価格」であるという科学的な暴露が行われても、それによって「労働の対価」をめぐる日常意識での議論が無力になるわけではなく、例えば「労働にふさわしい賃金を」というスローガンが現実的な意味を持ち続けるのと同じことである。

男女間でのアンペイドワークの分析の不公正を告発し、また女性にとって十分なペイドワークが可能となる社会をつくろうという国際的な呼びかけは、男女平等の推進に向けて重要な役割を果たしうるものと思う。
(石川康宏「『資本論』の中のジェンダー分析」 鰺坂真編著「ジェンダーと史的唯物論」学習の友社 p49-55)

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◎「一見「私的」と見える労働者「家庭」が、実は資本主義的再生産の拠点という新たな「公的」役割を担わされており、それによって子どもたちや専業主婦を含むすべての家族構成員がその社会的生産関係の中に包み込まれていることを指摘するもの」と。