学習通信080516
◎蟹工船は最もいゝ舞台だった……

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《潮流》

ことし、小林多喜二の『蟹工船』がブームとよばれるほど読まれています。『蟹工船』の書き出しは、「おい地獄さ行ぐんだで!」のせりふです

▼地獄の搾取に耐えかねた漁夫たちが果敢にたたかいを挑み、追いつめられる。ストライキ成功の望みも捨てきれない彼ら。一人がいいます。「本当のこと言えば、そんな先の成算なんて、どうでもいいんだ。──死ぬか、生きるか、だからな」

▼「日経」の「ベストセラーの裏側」という欄が、『蟹工船』人気について考え、書いています。「作家は拷問で不慮の死を遂げたが、彼が残した小説は現代に生きる幸福な作品となった」(十四日付夕刊)。残念ながら、『蟹工船』が共感をよぶ時代に生きる人々の生活が幸せとはいえません

▼十年ほど前。ある飲食店の店長の話をききました。未明におよぶ仕事。残業代なし。ノルマが達成できないと自腹をきる。当時、彼は二十歳そこそこのフリーターでした。「名ばかり管理職」という言葉は、まだありませんでした

▼二十四時間営業の安売りチェーンSHOP99の名ばかり店長、清水文美さん(二八)は、健康を害し休職に追い込まれました。残業代なしに二十九日間の連続勤務や四日間八十四時間の連続労働。彼は先日、残業代などの支払いを求め訴訟を起こしました

▼がんばれ清水さん。『蟹工船』の漁夫はたたかうすべを知ったものの人権の保障がなく、『蟹工船』が今ほど本屋になかった十年前のあの店長は、まだたたかうすべを知りませんでした。
(「赤旗」20080516)

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 多喜二は、十月十四日から「防雪林」の改稿にとりかかったが、まもなく中止し、二十八日から「蟹工船」を書きはじめていた。

 この作品は、一九二六年(大正十五年)の蟹工船漁業でじっさいにおきた事件が題材にされている。

 北洋漁業の蟹工船は、缶詰工場の設備をそなえた工船を母船にし、川崎船という付属の小型漁船で底刺し網をつかってとった蟹を加工して缶詰にする、海上の移動缶詰工場のような船であった。一九二〇年から試験的にはじめられたが、二五年頃になると、しだいに規模も大きくなり、大型船にかわっていった。千五百噸前後の中古船で、なかには病院船を改造したものもあった。

 二五年には九隻、二六年は十二隻、二七年には十八隻になり、乗組みの漁夫、雑夫は四干人をこえた。生産高も二五年の八万四千箱から、二六年には二十三万箱、二七年には三十三万箱に増大していた。蟹の缶詰は工船をつかうまでは漁場に比較的近い陸地の工場でつくられていたが、しだいに工船でつくられる量が多くなり、二六年には総生産高四十万箱のうち、二十三万箱が工船でつくられていた。

 その頃、北洋漁業は日魯漁業と大洋漁業の独占が促進されながら国家産業として毎年拡大されていた。二六年には、汽船三百九十二隻、帆船百七隻、五十三万噸の船が出漁し、一万九千の漁業労働者がおくりこまれた。二八年一月の日ソ漁業条約成立前だったから、漁業権をめぐって、唯一の社会主義国であったソビエトとのあいだに複雑な対立があって、国際的にも注目されていた。

 なかでも蟹漁業は、十ヒロから六十ヒロぐらいの水深のあさい砂地の漁業で、十二海里を領海とするソビエトの法規を無視して、海防艦の護衛をうけながら、三海里外は公海として自由に獲っていたから、とくに警戒された。

 また、蟹工船には小業者の船が比較的多く、北洋漁業のなかでも労働条件がもっとも苛酷で、監獄部屋制度の奴隷労働が強制されていたから、たえず紛争がおき、自然発生的な闘争もおきていた。四月から八月までの漁期がおわると、基地の函館には、最初にカムチャッカの東海岸の漁場労働者、つぎに西海岸、オホーツク海、沿海州、蟹工船の順で帰ってきたが、九一金という歩分けの支払い問題でたえず紛争がおきた。函館には漁業労働組合が組織されてい
た。

 二六年には、蟹工船秩父丸の遭難事件や、博愛丸と英航丸でおきた漁夫、雑夫の虐待事件が「小樽新聞」や「北海タイムス」でかなりくわしく報道された。

 秩父丸は、その年の四月二十六日、北千島の幌莚島沖で暴風雨にあって坐礁し、二百五十四人のうち百七十人が行方不明になった。しかも同月十七日に秩父丸と前後して函館を出港して、近くを航行していた英航丸や、二、三の蟹工船は、救助信号をうけながら救助に赴かなかった。「小樽新聞」は五月二日号で、「英航丸が見て見ぬ振り、同船が救助したらこの惨事は起らぬ」、また六日号には、「秩父丸の遭難に醜い稼業敵、救助信号を受けながら知らぬ顔の蟹工船」という見出しで、この事実を糾弾した。

 博愛丸や英航丸の漁夫、雑夫の虐待事件は、九月にはいってからくわしく報道された。仮病とみなされて、病人の雑夫をウインチに高くつりさげたり、麻縄で旋盤の鉄柱に縛りつけ、胸に「この者仮病につき縄を解く事を禁ず、工場長」とボール紙にかいて結びつけ、一杯の水もあたえなかったことや、仕事場で監督たちが梶棒や青竹を持って監視をし、欠伸一つしたり、ちょっとでも手を休めると、殴りつけ、酷使に疲れはてた漁夫を縛りあげ、アルコールをひたした綿に火をつけて股間にほおりこんだりする惨状が、「この世ながらの生地獄」、「あくび一つに唸り飛ぶ梶棒」などの見出しで報じられた。

 秩父丸を見殺しにした英航丸では、虐使にたえかねて脱走をくわだてた四人の雑夫を、監督たちが鉄の蟹かきで半殺しにした事件から自然発生的なストライキがおきた。「北海タイムス」九月十三日号には「各蟹工船内はあたかも闘牛場の観あり」という、水産講習所の調査報告をのせているが、こうした漁業労働者の闘争の記事はくわしく発表されなかった。

 「蟹工船」の執筆まで、多喜二は二七年三月いらい、綿密な調査をつづけていた。

 彼は、拓殖銀行の資料用の新聞から関係記事の切りはりをしていた。織田勝恵や笠原キヌらが居残りをして、彼の切りはりを手伝ったりした。また、土曜から日曜にかけて、函館の乗富道夫を訪れ、乗富の案内で停泊中の蟹工船の実地調査をした。蟹工船の漁夫とも直接会って、話を聞き、漁業労働組合の人たちからも多くの具体的な知識をえたが、長年、北洋漁業の資料の収集と調査をしていた乗富の援助は、彼の調査を正確にふかめることができた。彼はまた、小樽海員組合の木下卯八らから、船内生活や作業状態のくわしい調査もしていた。

 「蟹工船」を執筆中の十一月末、彼は風間六三にたのまれて、北方海上属員倶楽部から発行を計画されていた「海上生活者新聞」の文芸欄をうけもつことになった。稲穂町東五丁目にあるこの倶楽部は、その年の一月、総同盟系海員組合の刷新派組織のために創立されたものであったが、三月十五日の弾圧いごは、労働者クラブと消費祖合をかねた海員の休息所になって、沖売業者の上野彦右衛門が経営していた。階下の倶楽部は十二畳ぐらいの広さだった。板じきの部屋で、両側の棚には日用品の雑貨類が並び、ストーブをかこんで、チャーター船の乗組員たちの憩いの場になっていた。多喜二は、銀行からの帰途、四、五日おきにここによって、仲間に加わっていた。

 編集会議は、稲穂町の木下卯八の家でひらかれていた。笹谷金吾が主筆になり、風間が記者、小林が文芸部、経営を木下がうけもって、二九年一月五日、第一号を発行した。半裁四ページの新聞で、部数は二千であった。多喜二は「郷利基」という署名で、葉山岳樹の小説集を紹介した「海員は何をよまねばならないか」という感想をのせた。

 一九二八年三月末いご、日本のプロレタリア芸術運動はナップと労芸の二派にわかれたが、ナップの成立によって、革命的な芸術運動はその主体が基礎づけられ、プロレタリア・レアリズムの提唱についで、芸術大衆化の問題、芸術価値、内容と形式などの問題をめぐって、プロレタリア芸術運動の内外をふくめた論争を展開しながら、十二月末には、全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)への再組織がおこなわれた。ナップの組織は、それまでの地域的な支部単位の総合組織から、専門団体別の全国的な独立した組織にあらためられ、二九年一月から二月にかけて、日本プロレタリア作家同盟、劇場同盟、美術家同盟、映画同盟の各団体が、協議会の連絡統制のもとに成立した。

 この時期は、理論的にも創作的にも一つの発展期にあった。佐多稲子の「キャラメル工場から」、立野信之の「軍隊病」、中野重治の「春さきの風」 「鉄の話」、小林多喜二の「一九二八年三月十五日」、片岡鉄兵の「綾里村快挙録」などが発表された。

 「蟹工船」は五か月後の二九年三月十日に、下書きにしていたノート稿がおわった。ノート稿には、「一丸二九、三、一〇、午前一時一五分擱筆す。百三十三日間を要す。約二百枚(百八十枚)」という記入がある。

 彼は清書をしながら、訂正や加筆をして、三月三十日の夜、この小説を完成した。そして、翌日、つぎのような手紙とともにこの作品を蔵原惟人のもとへおくった。

 「別便で、第二作をお送りしました。

 一、この作品には『主人公』と云うものがない。『銘々伝式』の主人公、人物もない。労働の『集団』が、主人公になっている。その意味で、『一九二八・三・一五』よりも一歩前進していると思っている。

 短篇で、集団を書いたものはありますが、この位の長さのものでは恐らく始めてゞあり、色々な点で冒険であり、困難があった。とにかく、『集団』を描くことは、プロレタリア文学の開拓しなければならない、道であると思っています。その一つの捨石にこの作がなれゝば、幸福です。

 二、で、当然、この作では「一九二八・三・一五」などで試みたような、各個人の性格、心理が全然なくなっている。

 細々しい個人の性格、心理の描写が、プロレタリア文学からはだんく無くなりかけている。(中略)然し、そのためによくある片輪な、それから退屈さを出さないために、考顧した筈である。

 三、プロ芸術大衆化のために、色々形式上の努力がなされている。それは重大な努力である。然し、実際に於て、それが結局『インテルゲンチャ風の』──小手先だけの『気のきいた』ものでしかない点がある。現実に労働している大衆を心底から揺り動かすだけの力がない。そんなインテル性に、労働者は無意識に反揆する。

 自分は、(イ)作品が何より圧倒的に、労働者的であること、(ロ)その強力な持ち込み、に、大衆化の原則を見出している。更に、プロ文学の『明るさ』『テンポの速さ』など、良き意図のものが、その良き意図にも不拘、モダン・ボーイ式であり過ぎないだろうか。

 この作には、モ・ボ式の『明るさ』も『テンポの軽快さ』もない、又その意味での小手先の、如何にも気のきいた処もない。何処まで行けているか知らないが、労働者的であることにつとめた。(『戦旗』には、ことにかけていはしないだろうか。)

 四、この作は『蟹工船』という、特殊な一つの労働形態を取扱っている、が、蟹工船とは、どんなものか、ということを一生ケン命に書いたものではない。

 A これは植民地、未開地に於ける搾取の典型的なものであるということ。B 東京、大阪等の大工業地を除けば、まだまだ日本の労働者の現状に、その類例が八〇パアセントにあるということである。C 更に、色々な国際的関係、軍事関係、経済関係が透き通るような鮮明さで見得る便宜があったからである。

 五、この作では未組織な労働者を取扱っている。──作者の把握がルムペンにおち入ることなく、描き出すことは、未組織労働者の多い日本に於て、又大学生式『前衛小説』の多いとき、一つの意義がないだろうか。

 六、労働者を未組織にさせて置こうとしながら、資本主義は皮肉にも、かえってそれを(自然発生的にも)組織させるということ。

 資本主義は未開地、植民地にどんな『無慈悲な』形態をとって侵入し、原始的な『搾取』を続け、官憲と軍隊を『門番』 『見張番』『用心棒』にしながら、飽くことのない虐使をし、そして、如何に、急激に資本主義的仕事をするか、ということ。

 七、プロレタリアは、帝国主義的戦争に、絶対反対しなければならない、と云う。然し、どういうワケでそうであるのか、分っている『労働者』は日本のうちに何人いるか。然し、今これを知らなければならない。緊急なことだ。

 たゞ単に軍隊内の身分的な虐使を描いたゞけでは人道主義的な憤怒しか起すことが出来ない。その背後にあって、軍隊自身を動かす、帝国主義の機構、帝国主義戦争の経済的な根拠、にふれることが出来ない。帝国軍隊──財閥──国際関係──労働者。

 この三つが、全体的に見られなければならない。それには蟹工船は最もいゝ舞台だった。

 以上のことを、一生ケン命に、意図したものです。それが、何処まで、意図通りのものに出ているか、どうか、厳密に批判して貰いたいと思います。若し不満のところ、重大な欠点などありましたら、書き直したい(それだけの価値があるならば)と思います。指示して頂きます」
(手塚英孝著「小林多喜二 上」新日本新書 P184-193)

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◎「『蟹工船』の漁夫はたたかうすべを知ったものの人権の保障がなく、『蟹工船』が今ほど本屋になかった十年前のあの店長は、まだたたかうすべを知りませんでした」と。