学習通信080522
◎俺達には、俺達しか味方が無えんだ……

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波音
◇格差と多喜二

 「貧富の格差は広がりすぎている」。英フィナンシャル・タイムズ紙が実施した世論調査によれば、世界中でそんな認識が広がっている。グローバル化が大金持ち層を生む中で、格差は各地で政治論争の種になっているという。

 日本でも小林多喜二の『蟹工船』が静かなブーム。「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」と団結にめざめる工員たちの姿に共感を覚える若者が増えているようだ。

 「働かない人いない」国と登場人物に言わせたソ連が崩壊して17年。勝利者の資本主義世界で、格差への不満が渦巻く。そんな変転を地下の多喜二はどう見るか。(哲)
(「日経 夕刊」20080521)

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 昼過ぎから、海は大嵐になった。そして夕方近くになって、だんだん静かになった。

「監督をたたきのめす!」そんなことがどうして出来るもんか、そう思っていた。ところが! 自分達の「手」でそれをやってのけたのだ。普段おどかし看板にしていたピストルさえ打てなかったではないか。皆はウキウキと噪(はしゃ)いでいた。――代表達は頭を集めて、これからの色々な対策を相談した。「色よい返事」が来なかったら、「覚えてろ!」と思った。

 薄暗くなった頃だった。ハッチの入口で、見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってきたのを見た。――周章(あわ)てて「糞壺」に馳(か)け込んだ。

「しまったッ」学生の一人がバネのようにはね上った。見る見る顔の色が変った。
「感違いするなよ」吃りが笑い出した。「この、俺達の状態や立場、それに要求などを、士官達に詳しく説明して援助をうけたら、かえってこのストライキは有利に解決がつく。分りきったことだ」

 外のものも、「それアそうだ」と同意した。
「我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろう」
「いや、いや……」学生は手を振った。余程のショックを受けたらしく、唇を震わせている。言葉が吃(ども)った。
「国民の味方だって? ……いやいや……」
「馬鹿な! ――国民の味方でない帝国の軍艦、そんな理窟なんてある筈(はず)があるか」
「駆逐艦が来た!」「駆逐艦が来た!」という興奮が学生の言葉を無理矢理にもみ潰(つぶ)してしまった。

 皆はドヤドヤと「糞壺」から甲板にかけ上った。そして声を揃(そろ)えていきなり、「帝国軍艦万歳」を叫んだ。

 タラップの昇降口には、顔と手にホータイをした監督や船長と向い合って、吃り、芝浦、威張んな、学生、水、火夫等が立った。薄暗いので、ハッキリ分らなかったが、駆逐艦からは三艘汽艇が出た。それが横付けになった。一五、六人の水兵が一杯つまっていた。それが一度にタラップを上ってきた。

 呀(あ)ッ! 着剣(つけけん)をしているではないか! そして帽子の顎紐(あごひも)をかけている!
「しまった!」そう心の中で叫んだのは、吃りだった。

 次の汽艇からも十五、六人。その次の汽艇からも、やっぱり銃の先きに、着剣した、顎紐をかけた水兵! それ等は海賊船にでも躍(おど)り込むように、ドカドカッと上ってくると、漁夫や水、火夫を取り囲んでしまった。

「しまった! 畜生やりやがったな!」
 芝浦も、水、火夫の代表も初めて叫んだ。
「ざま、見やがれ!」――監督だった。ストライキになってからの、監督の不思議な態度が初めて分った。だが、遅かった。

「有無」を云わせない。「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」そう罵倒(ばとう)されて、代表の九人が銃剣を擬されたまま、駆逐艦に護送されてしまった。それは皆がワケが分らず、ぼんやり見とれている、その短い間だった。全く、有無を云わせなかった。――一枚の新聞紙が燃えてしまうのを見ているより、他愛なかった。

 ――簡単に「片付いてしまった」

「俺達には、俺達しか、味方が無(ね)えんだな。始めて分った」
「帝国軍艦だなんて、大きな事を云ったって大金持の手先でねえか、国民の味方? おかしいや、糞喰らえだ!」

 水兵達は万一を考えて、三日船にいた。その間中、上官連は、毎晩サロンで、監督達と一緒に酔払っていた。――「そんなものさ」

 いくら漁夫達でも、今度という今度こそ、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く意外にも!)どういう風に、お互が繋がり合っているか、ということが身をもって知らされた。

 毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹罐詰の「献上品」を作ることになっていた。然し「乱暴にも」何時でも、別に斎戒沐浴(もくよく)して作るわけでもなかった。その度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思って来た。――だが、今度は異(ちが)ってしまっていた。
「俺達の本当の血と肉を搾(しぼ)り上げて作るものだ。フン、さぞうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起さねばいいさ」
 皆そんな気持で作った。
「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」

「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」
 それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、と深く入り込んで行った。
――「今に見ろ!」

 然し「今に見ろ」を百遍繰りかえして、それが何になるか。――ストライキが惨(みじ)めに敗れてから、仕事は「畜生、思い知ったか」とばかりに、過酷になった。それは今までの過酷にもう一つ更に加えられた監督の復仇的(ふっきゅうてき)な過酷さだった。限度というものの一番極端を越えていた。――今ではもう仕事は堪え難いところまで行っていた。

「――間違っていた。ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、俺達の急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。俺達全部は、全部が一緒になったという風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てなかったろう。まさか、俺達全部を引き渡してしまうなんて事、出来ないからな。仕事が、出来なくなるもの」

「そうだな」

「そうだよ。今度こそ、このまま仕事していたんじゃ、俺達本当に殺されるよ。犠牲者を出さないように全部で、一緒にサボルことだ。この前と同じ手で。吃りが云ったでないか、何より力を合わせることだって。それに力を合わせたらどんなことが出来たか、ということも分っている筈だ」

「それでも若し駆逐艦を呼んだら、皆で――この時こそ力を合わせて、一人も残らず引渡されよう! その方がかえって助かるんだ」

「んかも知らない。然し考えてみれば、そんなことになったら、監督が第一周章(あわ)てるよ、会社の手前。代りを函館から取り寄せるのには遅すぎるし、出来高だって問題にならない程少ないし。……うまくやったら、これア案外大丈夫だど」

「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生! ッて気でいる」

「本当のことを云えば、そんな先きの成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生きるか、だからな」
「ん、もう一回だ!」

 そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!
(小林多喜二「蟹工船」新潮文庫 p132-137)

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◎「日本でも小林多喜二の『蟹工船』が静かなブーム。「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」と団結にめざめる工員たちの姿に共感を覚える若者が増えているようだ」と。