学習通信080528
◎私たちはバラバラにされ……
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朝の風
「蟹工船」──若い世代の発奮と評論
小林多喜二没後七十五年、文庫本『蟹工船』が空前のブームーと各紙報道があいつぐ。八年前、多喜二と「蟹工船」初版本表紙が20世紀デザイン切手に出た当時、誰が今のブームを予測したか。
若年層対象の小樽商大・白樺文学館共催「蟹工船」エッセーコンテストの入賞作品集『私たちはいかに「蟹工船」を読んだか』(二月十日刊)はその貴重な契機だ。非正規労働渦中の青年層は、八十年前の過酷な「蟹工船」労働者の姿に、現代の非人間的労働と生活を如実に自覚し、理不尽にたいし決起した果敢な行動に目を開いたのだ。
三月、民主主義文学会「多喜二の文学を語る集い」の青年トーク「『蟹工船』を語る」でも、コンテスト入賞の女性二人の発言が光った。司会は彼女らのたたかいを支援してきた作家浅尾大輔。
浅尾は『民主文学』二月号の「『蟹工船』──その可能性の中心」で、同誌七三年二月号発表の右遠俊郎「『蟹工船』私論」を読んだ感銘を記していた。蟹工船の決起は「整然とした組織的なたたかい」で、「強力な指導性」、「少なくとも前衛の影を、その慎重な工作の行程を読む」とのくだりで「溢れる涙を止めることができなかった」と。
右遠評論は新刊『小林多喜二私論』(本の泉社)に「『蟹工船』論の試み」と改題して収録されている。若者の多喜二読みと行動を広げ深めるためには、気骨の評論も強力な手引きなのだ。(土)
(「赤旗」20080527)
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インタビュー
派遣労働とセクハラ、いじめ
セクハラ、いじめに泣いた友人たち
「蟹工船」エッセー
コンテスト大賞受賞者
山口さなえ さん
私の世代は就職氷河期にあたり、友人たちはほとんどパート・請負・派遣という非正規の雇用形態で働いています。はじめて「蟹工船」を読んだとき、小林多喜二の時代から搾取の構造はなにもかわっていないこと、むしろもっと複雑で巧妙な仕組みのもとに私たちは苦しめられていると実感しました。
セクハラがきっかけでホームレスに
私の友人が深夜、ファストフード店で見ず知らずの女性に「家も仕事もない」と声をかけられた。それが同い年ののぞみさん(仮名)との出会いでした。友人は男性だったので困って私に連絡し、しばらく私のアパートに泊まってもらいました。のぞみさんは、派遣社員として東北地方から上京して一週間目に、正社員の男性から「肉体関係をもったら五万円の寮費をただにしてあげる」といわれて逃げ出し、それがきっかけで路上やネットカフェで寝泊まりするようになったということでした。
のぞみさんは母子家庭で、新聞の奨学生をしながら大学を卒業したがんばりやです。アパレルの仕事について、親に頼らずに自立したいと願っていました。大学卒業後いったん正社員として雇用されましたが、精神的な病気もあって解雇され、その後は仕事が続きませんでした。
のぞみさんは、幼いころから親に虐待されており、母親からは「努力が足りない」といわれ続けて家に居場所はありませんでした。登録型派遣をして食いつなぎながら、東京と東北をいったりきたりしていたのです。
のぞみさんは私たちに声をかける前に、区役所に生活保護の申請にもいき、警察にも相談していたのですが、相手にしてもらえなかったそうです。その後のぞみさんは、生活保護の申請をし、同時に精神病院に入院しました。重い統合失調症になっていたのです。今は小康状態を取り戻しているということです。
正社員と引き換えに社長の「愛人」に
はるかさん(仮名)は、アパレル会社にアルバイトとして採用され、正社員にしてやるといわれて関係を強要されました。その会社は、社長といっしょに出張するとホテルで同じ部屋に泊まらなければいけない、という不文律≠ェあるそうです。
同僚たちも同じ目にあっており、出張後に必ず誘ってくるから拒否するように、と忠告されたそうですが、はるかさんは関係を受け入れて正社員となり、今は社長の「愛人」として職場近くのマンションに住まわされています。
はるかさんの前に「愛人」だった女性たちは、ボーナスを減らされる、無茶な仕事を押し付けられるなどのいやがらせを受けてむりやり退職に追い込まれています。はるかさんもいつか同じ立場に立つでしょう。社長の気持ちしだいで、仕事も生活基盤もなくすのです。これって奴隷と同じではないですか? 私は友人として、はるかさんが何もかも失ったときにどうなってしまうか……とても案じています。
ゆがんだ雇用に苦しむ若者たち
なぜそんな境遇に甘んじているのだ、と歯がゆさを感じる方もいらっしゃるかもしれません。でも今の会社の雇用形態はとても巧妙です。私たちは派遣や請負という不安定な雇用条件で働かされ、となりに座っている人の労働条件も給与体系もわからない。たとえ労働条件の改善を訴えても、会社はすぐに契約を打ち切って別の派遣社員と差し替えるでしょう。私たちはバラバラにされて、どのようにすればよいのかわからないまま「その人生を選択したのはあなた自身なのだから」という自己責任にがんじがらめにされているのです。
いじめで解雇された私
私は大学を卒業後、家の事情もあり残業がないことを確認して、ある会社の正社員として就職しました。実際に働きはじめると夜の十時、十一時は当たり前、休日出勤もありました。それだけ働いても基本給は七万六千円で、諸手当がついて十三万円程度でした。
半年くらいたって社長に「話が違う」と直談判したときから、いじめが始まりました。一人だけボーナスがもらえず、毎日トイレ掃除をさせられました。経理の仕事をしていたのですが、ミスをすると激しく罵倒されました。
さらに半年近くたったころ、取引先のミスで大量の入金がありました。すると上司は「相手が間違ったのだから改ざんして売り上げにしてしまえばいい」と指示したのです。会社の不信につながると思い、また、契約を解除されれば会社が倒産しかねません。「できない」と拒否して即日解雇されました。
解雇は不当だと会社側に認めさせるための孤独なたたかいがはじまりました。労働組合、市役所、弁護士、社会保険事務所、ハローワーク、あらゆるところにいって相談し、結局労働局のあっせんで和解金を得て解決しました。その間三ヵ月あまり、家があって両親がいたからよかったのですが、その溜め≠ェなかったらネットカフエ難民になっていたと思います。
立ち上がる
もう一度!
私は自分が受けたこの理不尽な痛みを共有してくれる仲間を必死に探しました。たった一人で資料を書き、交渉をするのはつらかった。「あなたのしていることは正しい」といってくれる人がほしかったです。「権利意識をふりかざして気持ちワルイ」と去っていった友人たちもいました。解決しなかったら死のうと思っていました。こんな不正がまかり通る社会に生きていたくないと思っていたのです。行き場のない虚無感に私は沈んでいました。
そんなとき個人加盟の労働組合があることを聞き、これだ≠ニ思ったのです。バラバラにされている私のような孤独な若者が、たった一人でも加盟できる組合がある。堂々と権利を主張する、というその一点で多くの人たちと連帯できるということを知ったとき、私は生きていてもいいんだ、まちがっていなかったと思えました。
現代の「蟹工船」に乗っている私たちは、多喜二が描いたように「やはり彼らは立ち上がった──もう一度!」というラストシーンに向かっているようにも思います。
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〇八年一月、白樺文学館と小樽商科大学の共催でプロレタリア文学の代表作「蟹工船」のエッセーコンテストが開かれました。不安定雇用、過酷な労働が広がるなか、資本主義社会の実相を浮きぼりにした「蟹工船」に時代を超えた共感が、とくに若い世代に広がっていることに注目が集まりました。
(「女性のひろば 08年6月号」日本共産党中央委員会 p56-59)
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◎「若者の多喜二読みと行動を広げ深めるためには、気骨の評論も強力な手引きなのだ」と。