学習通信080602
◎子ども時期の最終章……

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はじめに

 今の私(もう四〇代なかばですが!)の八割は、一〇代のころにできたと思っています。小学校に入ってから高校を卒業するくらいまでのあいだに考えたこと、覚えたこと、決めたことなどは、今も十分、役立っています。

 というより、一〇代のときに比べたら、その後の二〇代や三〇代なんてほとんど居眠りをしながらすごしたようなもの、と言ってもよいかもしれません。

 もちろん、二〇代になって大学を卒業し、精神科医という仕事についたのは、私にとって大きなことでした。医者の仕事をしながら、経験したことや身につけたこともたくさんあります。

 でも、私はときどきふと思うのです。「精神科医の仕事で経験したことって、実はほとんど一〇代のうちにすでに想像したり、小説で読んだりしていたんじやないだろうか?」いまだに私は人間の心の不思議さや手ごわさに日々、驚いたり苦労したりしているのですが、頭のどこかでは「これって、一〇代のときに予想したことの確認作業みたい」とも思っているのです。

 これは、私がとくにいろいろなことを考えるのが好きな一〇代だったから、ではありません。私はマンガやプロレスが大好きだけど運動は苦手な、いまでいえば「オタク」っぽい子どもでした。本を読むのはきらいじゃありませんでしたが、いわゆる名作は大きらいで、笑えるエッセイとかスポーツ選手の伝記とか、そんなものばかり読んでいました。
(香山リカ著「10代のうちに考えておくこと」岩波ジュニー新書 p3-4)

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中学生はモンスター!?
実は分かりやすい思春期のココロ
 埼玉・公立中学校養護教諭
 金子由美子さんに聞く

──思春期の子をもつ親たちから「自分も通った道だけど、何を考えているのか分からない」という声を聞きます。

金子……だれもが思春期を体験しているのに、おとなになった途端忘れてしまうものなのですね。それに、何でもそうですが、自分の体験って限られたもの。おとなは自分の経験だけから思春期の子どもたちに接しないでほしいですね。

思春期の特徴理解して

 思春期についての社会的理解はほんとうに不足していると思います。本屋さんに行くと、乳幼児期や学童期についてはカラフルで読みやすい本がたくさん出ています。でも思春期の本って、衝撃的な事件を扱ったものや「思春期の危機」みたいなテーマのものばかりです。私もよく「中学生って怖くないですか」と言われます。最近は地域の人から「公園で中学生がたむろして怖い」との声も届きます。世間では中学生はまるでモンスターと思われているようで、残念です。

 でも、思春期の子は怖いどころか、その特徴を理解すればとても分かりやすいし、支援しやすい年代なのです。

 親がそれを理解し、穏やかな気持ちで向き合えば、親子のボタンの掛け違いや無用なトラブルを避けられるだけでなく、子どもたちは驚くほど心を開いてくれるものです。

──「思春期は分かりやすい」というのは意外です。

金子……思春期は乳幼児期とはちがってボキャブラリーが豊富になり、思っていることをきちんと表現できるようになります。喜怒哀楽の表情が豊かで、心のうちが読み取りやすく、趣味や志向がはっきりしてくるので会話のきっかけもつかみやすい。それに、おとなや社会に関心が向かうので、共通の話題も探しやすいのです。

体のリニューアルエ事中

──そもそも思春期の特徴とはどういうものですか。

金子……まず体に大きな変化が起こります。男性ホルモンや女性ホルモンが活性化し、そのバランスの調整がむずかしく、うまくコントロールできません。中高年の更年期障害と同じ状態です。これまで好きだったことにも興味がもてない鬱状態が出ることもあります。

 体も急に大きくなり、身長が一年に二十センチ近く伸びる子もいます。脳、神経、細胞、血液量、心臓、免疫機能や内臓などすべてが子どもからおとなの体に変わるためのリニューアルエ事中なのです。心臓の大きさやポンプ機能はまだ子どもなので、急に大きくなった体の末梢まで血液をいきわたらせるのは大変です。中学生は「だりぃ (だるい)」とよく言いますが、血流が悪いために、ほんとうにだるいのかもしれません。食事の量も増えますが、消化器の発達が追いついていないので、すぐにお腹が痛くなったりするのです。

 それを理解せずに、「怠けている」「サボり」などと否定的な言葉をかけてはいけません。そうした症状が出たときは、まずゆっくり休ませてあげてください。

 心理面では、体の不安定さから心の安定が保てず、落ち着かなかったり、攻撃性がつよくなったりします。一方、これまで依存していたおとなへの反発心や対立感情が生まれるので、素直に甘えたりできず、つねに不安や孤独と向き合っているのです。

 こうした特徴や科学的な仕組みを子ども自身が理解することで安心しますので、周囲のおとなは子どもたちに伝えてあげてほしいですね。

 思春期の子たちは目いっぱい自分と向き合っています。だから自分の見ばえにも徹底してこだわります。二時間お風呂に入っていたり、全身にデオドラント商品を使ったり、おしやれにこだわるのもそのせいです。

人生の哲学期

 思春期は子ども時期の最終章、自分探しの時期です。それまでは親や周囲のおとなの価値観を受け入れて生活していれば、親からもほめられ、自分も満足していました。思春期は自分にふさわしい生き方を探し、自己顕示しながら、未来を展望し始める時期です。その過程でコンプレックスや嫉妬に悩まされることもあるでしょう。しかしそれをバネにしてチャレンジ精神がわくこともあります。自分を承認してくれる仲間を求め、お互いに評価し合い、共感し合うことで自己認識を深めていきます。

 これほど真剣に自分らしさを追求している時期は、人生のうちでほかにはないですね。私は「人生の哲学期」だと思います。そんな子どもたちと向き合い、成長を見守るのは親の醍醐味でもあると思いませんか。

怖さ≠ヨの共感を

 ところで、私は、思春期だけでなく子どもを理解する上でとても大事なものは、「怖い」という感覚だと思っています。

──「怖い」というのは?

金子……子どもってどんなに憎まれ口をきいても、親や学校から見放されたら生きていけない弱者なのです。だから心の奥にいつも「怖い」という思いをもっています。

 家庭では親に叱られるのが怖い。暴力を振るう親ならなおさら怖い。親に捨てられるのではないかと怖い。最近は貧困が広がる中で、子どもたちの経済的な不安感も非常に強くて、「高校に行かれないかもしれない」と怖い。

 学校では、先生に授業中に当てられるのが怖い。勉強ができる子でも成績が下がったらどうしようと怖い。何か失敗したらと怖い。先生が内申をちらつかせながら叱るのが怖い。こうした感情は不登校のような子だけではなく、一見「普通」に見える子たちももっています。

 先生は心を開かない生徒を「かわいげがない」「何にも考えてない」と決めつけがちです。そうすると子どもはなおさら本音を話しませんし、自分の領域に入ってほしくないとつっぱねます。

 そういう中で毎日を生きている子どもたちへの共感力をおとなたちは磨いていく必要があると思います。

格差と貧困の中で

──格差と貧困がひろがっています。そんな時代に生きる思春期の特徴はありますか。

金子……私が勤める中学校区域は、超高層の高級マンションがそびえる日かげに昭和三十年代の古びたアパートが並びます。親たちはすぐ近くに住んでいながら、買い物する場所も違うような歴然とした格差が存在しています。

 親がリストラをきっかけにアルコ一ル依存になっている家庭、親の都合で突然転校先も告げずに学校を去る生徒、出て行った親が時折生活費を置いて行くのを頼りに生活するきょうだいもいます。

 また、最近は家族のかたちもさまざまで、家にいる人が誰か学校では把握できないことも少なくありません。生徒が熱を出して家に連絡すると電話口に出た若い男性に「ぼくには関係ない」と言われたこともあります。また母親の彼氏がくる夜は家に帰れないという生徒もいました。

 こうした状況は子どもにとっては当然ストレスですし、「怖い」という感覚も増大します。

 ところが、家庭状況が大変であればあるほど、子どもたちはそれを見せません。家庭で虐待を受けていても学校ではにこにこと楽しそうに生活している子もいれば、他人と違うコンプレックスを隠すために他人と距離を置いてつっぱる子もいます。子どもの表面的な表情の裏に隠された、悲しみ、孤独、焦燥、怒り、息苦しさなどを読み取る、おとなの想像力が求められています。

──思春期の子どもと向き合ううえで、何か大切ですか。

金子……まずは、急に近づかないで、ということですね(笑い)。メディアを騒がせる事件が起きると親が急に「いじめにあってないか」とか「不満があったら何でも言ってね」と言うらしいのです。急に心配になり子どもとの接点を探そうとしているのでしょうが、自立への階段をのぼり始めている子どもたちは、おとなと一線を画したがったり、内心を悟られまいとガードしています。

さなぎは必ず羽化する

 思春期はさなぎ≠ナす。それまでの体や手足のすべてを溶かして、殼の中で再び新しい形を創生しています。そのときに周囲のおとなたちが「いったい中はどうなっているのだろう」とつっついたりすれば、新しい細胞が変形したり、成虫になることがむずかしくなります。

 最近は仲の良い親子が増えたからか、「子どもがいままでのように親と話してくれない」とか「買い物に一緒に行ってくれない」と保健室に相談にくる親もいます。私は「いまは触らないで、羽化するまで見守って」とアドバイスしています。

 羽化のきっかけはそれぞれです。ただ、さなぎは必ず自分に似合った衣装を身につけて羽化し、ふさわしい飛び立ち方をするのです。それを信じることがおとなの役割だと思います。

おとなを確かめようと

──親を避ける態度も正常な成長のあかしなのですね。

金子……「うるさい」「ほっといて」「お母さんってダサい」というような思春期の子どもの言葉を、本気で嫌っていると勘違いする親がいます。思春期の子は身近にいるおとなに自分の成長したときのイメージを重ねています。とくに親は性格や容姿が似ていることから自分の将来像と重なってしまうため、だからこそすてきなモデルであってほしいという要求が高いのです。また、社会の仕組みや政治の問題など自分ではよく分からないことを、身近なおとなに質問をぶつけておとなの力量を確かめようとする言動も見られます。本気で人生や社会について考え、まじめに生きようとしているからこそ、おとなを批判し、反応を見て洞察する力を高めているのです。

 思春期の特徴をよく理解し、表面的な言葉に単純に反応せず、人生の先輩として向き合い、社会でともに生きる仲間としての知恵や教養を伝えていきましょう。

 また、おとなにとってはささいなことが悩みになる時期です。「そんなことぐらい」と受け流さず、心から聴き取り、元気が出るような言葉がけをしてあげましょう。

 親も忙しいと思いますが、手がかからないからといって思春期の子をほうっておいてはいけません。せめて一緒に食事をしてほしいですね。

 おとなへの反抗や、喫煙や万引き、夜遊びなど社会からの逸脱行為も思春期に起きる特有の現象です。こういうとき、権力をもつ親や教師は力でねじ伏せようとしたり、規則でしばったり、脅迫したりします。ときには家から出された子どもが、ほんとうにチェーン鍵をかけられ、帰れなくなった例も聞きます。子どもが親に愛されているかどうかを確認するための反抗や逸脱もあるのです。おとなの側がゆとりをもって受けとめてほしいものです。

地域で見守って

 家庭と学校、地域が連携して、子どもがゆっくり豊かに生きる環境を整えられるといいですね。私の学校では民生委員や児童相談員、保健師などと連携して、子どもの心と体の健康を考える講座を開いたり、生徒自身が発表したり、保健師さんに来てもらって薬物乱用の怖さを講義してもらったりしています。学校は、そうした活動の中核的役割を担うことができるのですね。

 おとなの世界に飛び立とうとしている思春期の子どもたちを、その親たちだけでなく、地域や社会が見守ることは、未来にかかわる大きな仕事ではないでしょうか。
(「女性のひろば 08年4月号」日本共産党中央委員会 p100-105)

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ケース2
「〇〇ちゃんはできるのに……」

 うちの子、仲良しの理沙ちゃんと一緒に中学受験の塾に行ってるんだけど、どうも成績が伸びないのよね。毎週の小テスト、半分くらいしかできてないの。でもこの前、理沙ちゃんのママとランチしたとき、理沙ちゃんは算数も英語も、いつもだいたい満点なんだって言ってたから、ちょっとショック。思わずうちで娘に、「テスト、どうしてできないの? もう少しテレビ見る時間減らして勉強した方がいいんじゃないの? 理沙ちゃんはできるっていうじゃない」って言ったら、急に黙りこんで自分の部屋から出てこないの。いったい何考えてるのかしら。受験はもう来年のことなのに。
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「生殺与奪の権」への自覚は

 お母さんが、娘の友だちの理沙ちゃんのお母さんとの会話をきっかけに、自分の娘に向かって、理沙ちゃんと比較し、もっと勉強しろといっているわけですね。娘さんは中学受験をめざしている小学生です。

 子どもにとって、親は、だれよりも、自分のことを大切にしてくれる存在であるわけです。ですから逆にいえば、子どもは、親に見捨てられたら生きていけません。子どもから見て、親は生殺与奪の権を持っているのです。親が新生児を放置したらその子は死ぬわけですし、そのような事件も現に起きています。そんな中で、親が生殺与奪の権を持っているということを、子どもはきわめて敏感に感じながら成長しているのです。

 親の方が自分の子ども時代を忘れているため、この生殺与奪の権を子どもに対して親が持っているということは、大人の世界ではあまり重視されません。けれども、親子関係は、子どもが自力で生きていくまでは、常に権力的な関係の側面を持っていることを忘れてはならないでしょう。

 このケースの女の子は、お母さんが、理沙ちゃんと自分を比較し、自分よりも理沙ちゃんを評価したという事実に直面させられました。中学受験塾という、常に点数や偏差値などの数値結果で一人ひとりの評価が下される競争原理の場に理沙ちゃんと一緒に通っているので、非常に比較しやすいですし、理沙ちゃんとの差は本人もよくわかっているかもしれません。もしそうならなおのこと、この子は、お母さんが、自分ではなく理沙ちゃんを評価していることを深く感じとるでしょうし、お母さんに見放されたという感覚を強く持つのではないでしょうか。ある意味で「捨て子」的な気分になったかもしれません。

 子どもにとって、親との関係は、常に生き死ににかかわる間題として、記憶の中で紡がれてきているわけですから、親が子どもに対して、どういう言葉を使うのか(つまり「どういう関係を結ぶのか」ということ)に関する親の責任というのは非常に重いのです。このお母さんの言葉は、その重さにあまりにも無自覚だといわねばならないでしょう。

点数によるランキングと親子関係

 また、よその子と比較する・されるということは、受験塾のような、点数を競う競争空間では、子どもたちの社会的地位、アイデンティティを明らかにするための日常的行為です。しかしそういう場での成績は、塾や学校といった競争的な社会から、一方的に子どもに張りつけられるものなのです。それは子どもの多様な人間的価値を切り捨ててしまいます。このお母さんは、しかし、その張りつけられた成績をそのまま受け入れ、その価値観で娘に言葉を発しているのです。

その意味で、親が受験競争社会の一部に成り下がっているといっていいでしょう。テストや試験の成績というものは、学校や塾にいくようになって、初めてつけられるものです。点数によって子どもたちはランキングされ、成績が高ければ強者、低ければ弱者になるのです。当然そうした価値観は、弱者ではなく強者になろうとする競争、弱肉強食の競争を引き起こすでしょう。

 しかし親と子は本来、そういう数値化される競争のモノサシでは測れない様々な関係を、それまでに培ってきたはずです。先ほど、親子関係は権力的関係にあるといいましたが、親は圧倒的強者であり、子どもは圧倒的弱者なのです。そして親子関係は、圧倒的強者が圧倒的弱者を常にケアし続けることによって成立しているわけです。

子どもは、まだ言葉を発しえない赤ん坊のときから、「おぎゃあ、おぎゃあ」という泣き声によって、自分の状態を親に知らせ、親たちは、やさしい言葉をかけながら赤ん坊のケア、すなわち心を配り、気遣いをし、そのことに基づき世話をし、いつくしみ、保護をします。このケアの繰り返し──身体の成長にも重なるプロセスを通じて、親と子の間では、この世界にある様々な情報がやりとりされ、子どもは、そこから生きるために必要な知恵や感情を身につけていきます。それを表現するのが言葉です。やがて、子どもはその言葉を使って他者に働きかけるようになります。

 こうしたプロセスの中に生じる個別性が、一人ひとりの子どもの人格に反映していくといえるでしょう。言葉をあやつる生きものとしての人間は、こうして他者──もっとも身近な他者である親を含めて──の存在によって育っていくのです。親子の間に交わされる無数の言葉、その一つ一つによって、子どもが生きる力を獲得していくわけですから、子どもにとって、これほど大事な関係はほかにないともいえるのです。

 子どもが学齢期になったとしても、自立まではまだまだ道は遠いわけですから、そういう関係は大事なものであり続けます。その時に、もっぱら試験の成績という、競争原理社会の数値化された評価を軸に親子の関係がつくられ、本来親子の間で培われてきた人格の全体を育む社会的関係が後景に退いてしまうとすれば、子どもの発達に歪みが生じてしまうでしょう。そしてその家庭は、学校や塾と区別のつかない、競争社会の一部になってしまうのではないでしょうか。子どもを、あらゆる意味で社会化するという、家庭の独自の役割を放棄することになってしまいます。

 この女の子が、お母さんの言葉を聞いたあと、自分の部屋に閉じこもってしまったのは、そのことを感じ取ったからではないでしょうか。家庭が多様な社会性を与えてくれる場ではなくなり競争社会の一部になったことをこの子は感じ、自分の部屋にしか自分の居場所がないと感じているのではないでしょうか。

 ですからこの後、何らかの形でお母さんが娘をフオローしない限り、ドアを開けてお母さんの前に出て行くということは、この子にとっては、学校や塾と同じ競争社会に出て行くことを意味するわけです。この母親はそのことを自覚しなければなりません。

子どもの学びに親は何をすべきか

 さらにいわねばならないのは、このお母さんは、子どもが絶対に答えられないことを聞いてしまっているということです。「テストどうしてできないの?」と聞いていますね。どうしてできないのかわかっていればテストはできるのです。どうしてできないかわからないからできなかったのです。

 このお母さんも、自分の学校時代を振り返ってみれば、そんなことはすぐわかるはずでしょう。でも、自分の経験を思い起こして、今の娘の状況を認識しようとはしていないということがよく現れています。当然のことですが、テストで間題ができなければ、そこには何か理解できていないことがあるのであって、それはテストの点数だけを間題にしても見えてきません。できなかった間題の内容を振り返り、なぜできなかったか、どうすればいいか考えるしかないのです。

この場合、小学生を対象にした問題なのですから、それをしさえすれば、普通の大人ならそれが見えてくるでしょう。この母親が「どうしてできないの」と言ったのを、「どうしてここを間違えたの?」という問いにしていれば、どうしてできなかったのかを理解していくような教育の世界が家庭にも開けたはずです。

 実際に間違えたところの原因がわかれば、自分の子が何を理解できてないのか、母親の方もわかるわけですし、場合によっては、今まで通りに塾に通わせることがいいのか、それとも補習塾に変わったほうがいいのかなどといった選択肢も見えてくるでしょう。そうしたことも含め、お母さんは、せっかくの教育的なコミュニケーションのチャンスを自分で壊してしまったともいえると思います。

 逆にいえば、学びに関して自分の子どもに、親として何をなすべきかということを、この母親は十分考えていないといえます。子どもの教育は、学校や塾に「丸投げ」してしまい、親としての教育をどこかですでに放棄してしまっています。もしかしたら、女の子は、親から教育を放棄されたことも感じ取って、傷ついているのかもしれません。

 それとかかわりますが、お母さんは続けて、「もう少しテレビ見る時間を減らして勉強したらいいんじゃないの」と、勉強の時間、量だけを増やせと言っています。教育を放棄しながら、勉強時間は増やせというのは、そもそも矛盾した指示ですが、ここには、この母親が、本当の意味で子どもの教育を考えているのではなくて、自分自身を安心させる材料として子どもの成績をとらえているという、屈折した姿が浮かび上がってきます。

 つまり、中身はわからないけれども、子どもが、テレビなど見ずに勉強していれば、あるいは塾に行っていれば、親の自分としては安心が得られるということです。学びの中身よりも「勉強している」という形がそこにあるかどうかに関心が向いているのです。その意味でも、このお母さんの意識は明らかに転倒しています。

 そこには理沙ちやんのママとの「子ども張り合い」で負けたくないという感情も働いているのかもしれません。母親自身が、この社会の中でどう生きていって良いのかがわからないという不安を抱えていて、それに向き合うことを、子どもの競争で勝利するという間題に、無意識のうちにすり替えているのかもしれません。

しかし、いかなる動機にせよ、自分の子どもを競争の中に投げ込むことは、子どもにとっては一種の暴力ですし、その点について、この人は自覚がありません。女の子は、これまで自分を守ってくれると信じていた母親からさえも身を守らなければならない状況に追い込まれてしまったのです。この点に、まず気づいて、もう一度、親と子の間で、人間と人間としての関係を再構築できるかどうかが問われているのだと思います。
(小森陽一著「理不尽社会に言葉の力を」55-62)

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◎「今の私(もう四〇代なかばですが!)の八割は、一〇代のころにできたと思っています」と。