学習通信080606
◎許容しがちな風潮に……

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争論
「スピリチュアル」をどう見る

 前世を探ったり、オーラを見たりするスピリチュアル(心霊)がブームだ。火付け役的な江原啓之氏が登場した番組に放送倫理・番組向上機構(BPO)が意見書を出すなど社会問題化している。スピリチュアルとどう向き合うべきかニ人の論者に聞いた。

宗教的音痴、ブーム拡大
 大正大教授
 弓山犬達也氏

──スピリチュアルブームをどう思うか。

 「批判している方々の念頭にはメディアに登場して霊視を行う自称『霊能者』があると思う。そこでは前世やオーラを売り物にするなど非常に偏った内容になっている。私もスピリチュアルに関する授業を持っているが、学生の最初の反応はやはり『私の前世は何だったのか?』『オーラはどんなものか?』というようなものが圧倒的に多い」

 「死の恐怖と向き合う患者の苦悩に対応するターミナルケアの一角には『何のために生きているのか』という実存的な問いに応えるスピリチュアルケアなど確固とした基盤を持つスピリチュアルシーンはある。その人たちからすればうさんくさいとみられている今の状況は迷惑だろう」

──ブームが本来の意味のスピリチュアルをゆがめていると。

 「そうだが、目に見えないものに向き合うという姿勢を持つ人のすそ野を広げる社会的意義はあるかもしれない。私の授業でも一年間やっていると前世やオーラというレベルから脱し、自己と他者・自然・宇宙とのつながりなど目には見えないが、重要な間題に向き合うようになる学生かいる」

──ゆがんだスピリチュアルブームが生まれた背景は。

 「戦後の宗数的音痴という状況が一つある。明治以降の神道国教化という、行きすぎた状況への反動からか宗教にまともに向き合うことをやめてしまった。同じ過ちはしないという理想だったのだろうが、目に見えない何かに向き合うという宗教の正の側面も否定してしまった。そこに生まれた空白に入りこむ形でブームが生まれている」

──メディアの影響が大きいのか。

 「スピリチュアルは目に見えない。ここには無限の市場が広がっている。誰にでも悩みはあるから。霊能者も市場原理にのみ込まれる形で祭り上げられる。祭り上げられればいつかは攻撃される。そういう不幸がある」

 「宗教者の責任も大きい。オウム真理教や霊能者を『あれは宗教ではない』と言い張るだけ。そこから先がない。むしろ宗教にはああいうおそろしい、あるいは愚かな面もあるということも知らしめるべきだ」

──目に見えないものに向き合えと。

 「目に見えないものはすべて非科学的であるという教育も生命観、死生観を浅薄なものにしている。精子と卵子から人間は生まれ、死んだら土に帰る、それ自体は正しいが、それだけだ、というのも違うだろうと思う。人類は、人は死んだらどうなってしまうのだろう、魂はどうなってしまうのかという問いかけを何千年も受け継いできた。それを考え続けることから命を大切にするという姿勢も生まれる」

──宗教教育ほどのような形で可能か。

 「公立校にお坊さんが来て説教、というのは無理があるだろう。学校という組織の外に父母、地域でつくる第三者機関をつくってそこでいろいろな宗教者から話を聞くということはできるのではないか」

 「父母が一緒というのがポイントだ。父母がいないところで宗教者と児童、生徒が直接向き合うことは許されないから。あるいは総合的な学習の時間で宗教を学ぶという手もあるかもしれない」

カルトへの敷居低くした
 弁護士 紀藤 正樹氏

──スピリチュアルがブームになっている。

 「これまで霊感商法の被害に遭わなかった層の被害が目立っている。中でも二十〜三十歳代の若者が被害を受けるようになっている。スピリチュアルブームは霊界の存在を強調し、同時にヒーリング(癒やし)の要素を取り入れている。霊界、占い、ヒーリングが一緒くたになって大量の情報が発信されている。その結果、非科学的なものに警戒感が薄れ霊感商法の被害に遭いやすくなっている」

 「霊感商法は霊界があるなどという前提を信じ込ませて成り立つ。統一教会などの団体は占い、ヒーリングなどの手段を使って何とか引きずり込もうとしている。現在のスピリチュアルブームは霊界があることを前提としている。本来、立ち止まって考えるべき霊界はあるのかないのかという議論を飛び越え存在している」

──霊感商法だけでなくカルドヘの敷居も低くしたと。

 「霊界はあるという前堤さえ信じてくれれば精神支配、マインドコントロールもしやすい。『霊界で先祖が苦しんでいる』と強迫観念を持たせることが簡単になる。強迫観念や恐怖を利用して入信させ奴隷の状態に置くことが可能になる。そうなってしまえば財産、労働による身体の収奪だけでなく性的にも収奪することが可能だ。それは被害者を長い間、苦しめ続けることになる」

──メディアの責任についても言及しているが。

 「表現の自由はあるが、うそや検証の伴わない断定は許されない。フィクションならフィクションと明示すべきだ。今年初め、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会がスピリチュアルカウンセラーの江原啓之氏を登場させたフジテレビのバラエティー番組に対して『裏付けに欠ける情報の作為』と『スピリチュアルカウンセリングの押し付け』などと間題提起した」

 「すでに全国霊感商法対策弁護士連絡会は二〇〇七年二月、BPO、NHK、民放各社に超能力や心霊現象を扱う番組について行きすぎのないよう要望している」

──スピリチュアルを扱う番組が生まれる背景は。

 「テレビの視聴率優先主義が間題だ。ところが最近、20%を超える番組がほとんどなくなっている。ある特定の層の視聴者を対象にした番組なら一定の視聴率がとれる。江原氏を嫌いな人は絶対見ないが、江原氏を見たい人はいる。番組の『カ
ルト』化だ」

──視聴率だけか。

 「霊能の世界は証明不可能だが、バラエティーとしては成り立ってしまう。報道機関という観点かり見れば、うそや非科学的断定を垂れ流しているという批判が出てくると思うが、テレビ業界は『これはバラエティーですから』と抗弁する。外部から干渉されるときだけは『報道機関への圧力だ』と言う。私はこれを『バラエティーの抗弁』と言っているが、BPOの指摘はこれを排除した」

 「テレビ局は本来的に報道機関だ。バラエティーは付属物にすぎないはず。それがバラエティーが中心になってしまったら本末転倒。もし、そうなったらテレビの規制も構わないということになってしまう。テレビ業界は真摯(しんし)に受け止めて状況を改善してほしい」
(「京都」20080505)

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本と話題
UFO、水商売=Aスピリチュアル……
ニセ科学を考える

 「ニセ科学」についての本が続々と刊行されています。自民党寄りで強面の女性占い師はいまのところ「引退」しているようですが、ひところはほとんど毎日のようにテレビに出て、森羅万象についてしゃべりまくっていました。人気の男性スピリチュアル・カウンセラーのほうは、いまでもテレビでよく見かけます。

 こうした風潮に対抗するように、池内了著『疑似科学入門』(岩波新書・七〇〇円)、竹内薫著『白い仮説 黒い仮説』(日本実業出版社・一二〇〇円)、安斎育郎著『だまし博土のだまされない知恵』(新日本出版社・一四〇〇円)などが出ています。

「売れるが勝ち」と

 『信じぬ者は救われる』(かもがわ出版・一四〇〇円)は、精神科医の香山り力さんと大阪大学サイバーメディアセンターの菊池誠教授の対談集。菊池氏がとりくんでいる、根拠の薄弱な触れ込みで水を高価な売り物にする水商売≠竅A水に「ありがとう」と声をかけると「きれいな」結晶ができると主張する『水からの伝言』などに代表される「ニセ科学」批判を紹介しながら、「ニセ科学」を許容しがちな風潮に疑問を投げかけています。

 たとえ「ニセ科学」であっても、「ある時期から、売れるが勝ちという風潮が広がったと思う」と香山さん。それが「市場原理的な原理のほうから来ている価値観と、どっかリンクしているんじゃないか」「スピリチュアルとか、オカルトとか、二セ科学とか、悪徳商法とか、それらはすべてつながっていて、連続性がある」と語っています。

懐疑精神失う危険

 池内氏の『疑似科学入門』は、より系統的に「疑似科学」金般に切り込み警鐘をならす本です。「疑似科学」を軽視できない理由として、「自分で考え決断して選択するという生き方を忘れ」てしまう体質になる危険性と、真の科学と見分けがつかないことから「科学への不信感が増大していること」をあげています。

 血液型占いやUFO、超能力など、ニセ科学は広い領域にまたがります。これが、「個人の趣味に止まっているのみなら問題はなさそうだが、そうでもない。科学の知見をきちんと吟味せず、夢と空想に遊ぶ方を優先させてしまうと、何が真実で何が錯覚に過ぎないかを見分ける懐疑精神を失っていくからだ」という指摘は説得的です。

橋渡しする言葉は

 ただ、ニセ科学の批判本を読んで思うのは、こうした本の読者と、ニセ科学の愛好者とのあいだには深くて広い溝があるのではないかということ。わらにもすがりたい状態の「信じたい」人たちは、二セ科学批判を疎ましく思うだけかもしれません。「神は正義であり、公正であり、愛なのです」「橋が壊れて落ち、ダムが決壊し、飛行機の翼が取れ、人が死んだとしたら、私はそれを神の行為だと考えることができません」と記すのはラビ(ユダヤ教教師)のH・S・クシュナーです(『なぜ私だけが苦しむのか』岩波現代文庫)。こういわれてしまっては、議論になりません。

 書店の「精神世界」コーナーの常連客は、ニセ科学批判には耳を傾けないだろうし、いっぽうでニセ科学に批判的な人は、ニセ科学的なものにたいして一刀両断的になりがちです。ニセ科学がウケる現状と、その危険性の告発と。両者を橋渡しする言葉がいま、求められているように思えます。(金子徹)
(「赤旗」20080511)

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 すべての哲学の、とくに近代の哲学の、大きな根本問題は、思考と存在との関係にかんする問題である。

非常に古い時代──そのころ人びとは、まだ自分自身の身体の構造についてまったく無知であり、そして夢のなかにあらわれるものごとから刺激されて、彼らの思考や感覚を彼らの身体の働きではなくて、この身体に住んでいてその死にさいして身体をみすて去っていく、特別な霊魂というものの働きであると考えるようになったのであるが、

──こういう古い時代から、人びとは、外部の世界にたいするこの霊魂の関係について、いろいろと考えめぐらさざるをえなかったのである。

もしこの霊魂が、人間の死にさいして、その肉体からはなれて生きつづけるとするならば、この霊魂になお特別な死があるなどと考えだすわけはなかった。

こうして、霊魂の不死という観念が生まれたのであるが、この霊魂の不死ということは、人間の発展のこの段階では、けっして慰めとは思われなかったのであって、かえってさからいえない運命だと思われ、ギリシア人にみられたように、しばしば積極的な不幸と思われていたのである。

どこででも人びとが個人の霊魂の不死ということに退屈な想念をもつようになったのは、宗教的な慰めをもとめたからではなくて、身体の死後に、ひとたびみとめられた霊魂なるものをどう扱ってよいかを、同じくどこにもみられる無知のためにわからず当惑したからである。

これとまったく似た道筋で、自然の諸力を擬人化して、そこから最初の神々ができた。

これらの神々は、あれこれの宗教がさらにいっそう発達していくうちに、ますます超世界的な姿をとっていき、ついには、人間の精神が発達するにつれておのずから生じてくる抽象の過程、あるいは蒸溜過程と言ってもいい過程によって、多かれ少なかれ制限され、たがいに制限しあっている多くの神々から、一神教の諸宗教にみられる唯一神という観念が、人間の頭脳に生じきたったのである。

 こういうわけで、存在にたいする思考の、自然にたいする精神の関係という問題、すなわち哲学全体の最高の問題は、宗教すべてにおとらずその根を野蛮状態にあった眼界(がんかい)のせまい無知な考えのうちにもっているのである。

しかし、この間題は、ヨーロッパ人がキリスト教的中世の長い冬眠からめざめたときに、はじめてそれのあますところのない鋭さで提起され、それの意義を完全にあきらかにすることができるようになったのである。

存在にたいする思考の地位にかんする問題は、中世のスコラ学においてもやはり大きな役割を演じており、本源的なものはなんであるか、精神かそれとも自然かという問題、この問題は、教会との関係でいうと、神が世界を創造したのか、それとも世界は永遠の昔から存在しているのか、というふうに先鋭化された。
(エンゲルス著「フォエルバッハ論」新日本出版社 p31-32)

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◎「ニセ科学がウケる現状と、その危険性の告発……両者を橋渡しする言葉がいま、求められているように思えます」と。