学習通信080701
◎資本は、あらゆる力と意識とをもって……

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温暖化への挑戦こそが
日本と世界を元気にする
加藤三郎
NPO法人環境文明21共同代表、環境文明研究所所長

 日本は今、経済力だけでなく教育力などさまざまな分野で世界における地位がズルズルと後退しているが、私にとって特に残念なのは、温暖化をめぐる環境力の後退だ。資源が少ない、政治のリーダーシップが弱い、世界を魅了する独創的な思想や人物も少ないと言われる中にあって、日本がかろうじて誇れるものは、省エネや環境技術だと思っている人は多い。

 しかし、日本の昨今の動向はその期待を裏切りつつある。温暖化対策でこそリーダーシップを取れるはずなのに、国際会議ではEUに後れを取り、抵抗勢力とさえ見られがちだ。なぜなのかといらだつ人も多いと思う。その理由と対応策を、洞爺湖サミットの開催を直前にして、私なりに述べてみよう。

「脱化石」の不可避性を告げた
──IPCCレポート

 CO2が大気中に溜まると気温が上がることに科学者が気づいたのは、一世紀以上も前のこと。大気中のC02濃度変化を精密に測り始めて、半世紀。国連がこの問題の重大性に気づいてIPCCと略称される政府間の専門家パネルを設けて二〇年が経った。そのIPCCは一九九〇年から五、六年ごとに最新の知見を公表してきたが、昨年第四回目の、そして、温暖化科学の根幹については決定的とも言うべきレポートを出した。

 それまでは、温暖化が本当に発生しているのか、その原因は太陽活動など自然の変動によるものなのか、それとも化石燃料使用や森林破壊など人為的な活動のせいなのかなどをめぐって論争が続いてきた。今回のIPCCレポートは、温暖化は、確実に起こっていることを明確にし、その原因は、人間の活動によるとほぼ断定した。気候専門家だけでなく、エネルギーや環境の専門家、政治家、企業家、NGOなどを巻き込んで続いていた論争に大筋で決着がついたのだ。

 しかし、異論を唱える「学者」は依然としている。たとえば太陽黒点数や宇宙線量の変化によるものでC02説は誤りであるとか、温暖化どころか数年前から寒冷化が始まっているとか、気温上昇はヒートアイランドの昇温を計上したにすぎないなどの説を述べ立て、また、IPCCは偏った専門家集団と見たがる人もいる。しかしながら、厳密な学問のプロセスと長年にわたる観測やシミュレーション、そしてその検証作業を経てたどり着いた科学の結論はもはや、大筋では動くまい。

 今むしろ心配すべきは、さまざまな異常気象や生態系の異変が世界各地ですでに発生しているが、これらはまだ「序ノロ」にすぎないということだ。実際、大気中のCO2濃度は上昇を続けており、過去六五万年間存在したことのない高濃度に達し、すべての海洋で三〇〇〇メートルの深海に至るまで水温が上昇。また海水の酸性化も進んでいるなど戦慄に値する事実が明らかにされている。

 このように、科学が明らかにした温暖化の脅威は「脱化石」文明の必要性・必然性を決定的にしたということができるだろう。なぜならば、人類社会が気候変動のもたらす異常気象、食糧・水の不足、医療・治安や安全保障といった面で破局に陥ることを避けようと思えば、温室効果ガスの排出を世界全体で大幅に削減する必要があることを浮き彫りにしたからだ。特に、過去二世紀余に及ぶ排出の累積によってその原因の大部分を作った先進国が八割前後の削減を成し遂げようと思えば化石燃料に依存したこれまでのやり方では不可能で、いや応なしに「脱化石」に向かわざるを得ないことを明示しているからだ。

──略──

科学を直視しないリーダーたち

 日本が温暖化問題の重要性に気づいたのは、決して遅い方ではない。IPCCの動きを見て、一九九〇年秋には、政府は「地球温暖化防止行動計画」を取りまとめている。この計画を作る際にも当時の通産省や経済界から強い抵抗があったが、それは日本だけの特殊事情ではない。アメリカを含め多くの国が、温暖化問題の出現に戸惑ったのも無理もない。なぜなら、当時も今もそうだが、化石燃料を使い、経済の量的な成長を良しとする政策をほとんどの国が取っているからである。その中で、温暖化の脅威を可能な限り小さくし、社会の持続性を確保しようとすれば、文明の抜本的な修正が必要となるが、その必要性や道筋についての本格的な議論は、特に日本ではほとんどされていない。なぜなら、CO2を抑制することは、経済活動の抑制とほぼ同義と受け止められ、そんなことはできないと今の経済人がハナから考えたとしても無理はないからだ。

 それにしても、経済人も政治家も、そして市民自らも地球温暖化問題の意味するもの、そして私たちが依拠している化石経済の現在と未来とを真剣に検討すべきであった。それが十分にできなかったのは多分、「成長」を基本とする経済のロジックと、科学で明らかにされた温暖化の危機に関する結論と警告とが、あまりに乖離しており、受け止めかねたところに根本的な原因があるのではなかろうか。従来の経済の回し方以外の方法を考えようとしない人にとっては、温暖化問題は「不都合」でやっかいなものなのだ。

 昨年末に日本経団連と環境省の幹部懇談会が開催され、ここには、鴨下一郎環境大臣も経団連の御手洗冨士夫会長も出席した。その席上で、御手洗会長は、「京都議定書のような不合理な総量規制が設定されると、国際競争力の弱体化は避けられない」、また「排出量取引制度や環境税に頼らず、民間の自主的な取り組みが重要」と述べ、これに対し、鴨下大臣は二〇一三年以降の「枠組み交渉が本格化すれば、京都議定書より数段上の削減目標を迫る動きは一層高まる」と指摘した上で「排出量取引や環境税の手法は、世界の方向になりつつある」と反論したと報道されている(『朝日新聞』二〇〇七年十二月十一日付)。

 一方、経済産業省の北畑事務次官は、週刊『エネルギーと環境』本年一月三十一日号のインタビュー記事において「排出量取引は、一見理念はよいのですが、大きくは三つの問題があります」と言い、一つは官僚統制が強い点、二つ目は、排出量取引をやればマーケットメカニズムのもとで解決するという意見は全く学者の議論、三つ目は、個々の企業がCO2排出量を減らす手法が何も明示されない点、と述べた上で「排出量取引と環境税では決め手になりません。他のことであれば、環境省とも一緒に考えましょう、ということです。排出量取引と環境税をやれば問題が解決するというのは現場を知らない学者の議論、私は『空想的社会主義者』のようなものだと言っています」と驚くべき発言をしている。もっとも、経団連会長も経済産業省も、これらの発言からニカ月ほどで、排出量取引については、「検討容認」へ方針転換していくのであるが。

 しかし、経済界のリーダーたちがこのような認識を待っていたのでは、温暖化に真正面から立ち向かう力が出てこなかったのも当然だ。前述したように、EU諸国は、早くから重大性に気づき、次々と手を打ち、リーダーシップを発揮しているが、いったいなぜ、EUはかくも積極的に取り組めるのであろうか。その理由はEUの政治家や経済界のリーダーたちがほとんど本能的に持っている戦略性はもとよりだが、最終的には科学に信頼をおいていることに尽きると私は思っている。

 ヨーロッパは近代科学を「創った」地域であればこそ、人々の科学に対する信頼もまた厚い。一方日本は科学を「学んだ」国である。私はその差を強く感じる。エセ科学が結構人気を博するのも、一因はそこにあるように思う。それでも明治維新以来、真剣に学んだ人たちの中から、世界に通用する業績を出した科学者が何人も現れたことは誇りであるが、近年、学習の真剣度にもかなり問題が出てきたように思う。それは単に学童の数学の力が落ちたとか、理科離れが進んだというだけの問題ではない。この問題について評論家の立花隆氏は、繰り返し危機を表明しているが、特に『脳を鍛える』(新潮社、二〇〇〇年三月刊)の中で、日本人の科学技術に対する教養が著しく低下しつつある危機を憂えて、次のように述べているのは傾聴に値する。

 「現代という時代を過去の時代とくらべたとき、いちばん大きなちがいが何かというと、この時代が基本的にサイエンスとテクノロジーによって支配された時代だということです。(中略)

 現代社会において、それほどサイエンスとテクノロジーが中心的な役割を果たしているというのに、文系の人の知識は、驚くほど低い水準にあります。特に、高校で文系の人に対する理科教育の水準が切り下げられてから、また文系の入試で理科の科目がほとんど無視されるようになってから、それはあきれるほどひどいものになっています。これはとんでもないことです。現代の経済が科学技術によって支えられていることを考えたら、ほとんど、日本を滅ぼすに等しいことといえます。

 文系の人に、理系の専門課程の授業が理解できるような深い知識は必要ないにしても、浅くて広い知識は日々に必要です。社会に出ると、ゼネラルに科学技術のことがわかっていないと適切な判断ができないことの連続です」

──略──

日本の売り「環境力」を鍛え抜け

 日本の省エネや環境技術力は世界一だと国内ではよく言われる。省エネは確かに現状では対GDPでトップクラスであるが、九〇年以降は、横ばいないし、悪化気味だ。そのせいかどうかわからないが、エール大学とコロンビア大学が、ダボス会議の主催団体である世界経済フォーラムの協力を得て発表した、環境力ランキングによると、なんと日本の環境力は総合で二一位、気候変動に関する三つの指標(温暖化ガスの一人当たり排出量、電力業界の排出量、産業界の貢献)に限ると八四位とのこと(『日本経済新聞』本年一月二十四日付)。また昨年の世界銀行の調査によると、一九九四〜二〇〇四年の削減進展ランキングでは日本は七〇カ国中六二位という。このような評価が正当かどうかは疑問なしとはしないが、海外の目は厳しいということだ。

 日本の技術が長けていると言われるのは、七〇年代の猛烈な産業公害を克服するために、政治、行政、経済界のリーダーも、そして当時の被害者も、皆が頑張って公害防止技術の開発を後押ししたことと、その七〇年代に起こった二回の「石油ショック」への対応による。

 当時の雰囲気を知る人も少なくなったので、一つの焦点だった自動車排ガス規制を例にとって述べておこう。一九七〇年にアメリカでマスキー法と呼ばれる、非常に厳しい排ガス規制が導入されたが、日本も同等の規制を業界からの強い反対を抑えて導入することとなった。そこで、日本のメーカーもどう対応するかが重大な経営問題になり、眦(まなじり)を決してこの難題に取り組んだが、その中の一人に本田宗一郎氏がいる。彼は、「マスキー法は天の助けだ。いまや、世界中の自動車メーカーは低公害エンジンの開発で同時スタートを切る。こんなチャンスはない。それはすなわち、世界でいちばん後発のメーカーであるホンダが、この開発競争に勝てば世界一のメーカーとなることである」(中部博著『定本本田宗一郎伝』)と言い切ったという。このように、七〇年代において、日本の経営者も、政治家もそれなりに肝を決めて真剣に対応したからこそ、高度経済成長期に発生した未曾有の難局を乗り越えただけでなく、次の時代を切り開くことができたのだ。

 今のようにトップ経営者や経産省幹部が京都議定書は不公平だ、EUの排出量取引は欠陥だ、などとふれまわり、科学の警告を軽視し、なんとか逃げる方法をさぐっている状態では日本に未来はない。七〇年代の教訓は、「良薬は口に苦し」ということだ。私はその知恵を「環境力」と名づけている。

 この「環境力」こそが、日本の力の源泉であるべきだ。バブル以降、日本の多くの経営者や政治家が昔日の志や胆力、そして未来に対する責任感を萎えさせてしまったことによって、残念ながら今、全般的な「環境力」は衰えているが、いま一度、火をつけ、そして得意技を磨く絶好の機会となるのが温暖化問題だ。もし、本田宗一郎氏が今この世にいれば、「温暖化問題は天の助け」と叫ぶのではないか。
(「中央公論 7月号」中央公論新社 p128-139)

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c 労働の強化

 機械設備が資本の手中で生み出す労働日の無際限な延長は、すでに見たように、のちにいたって、その生命の根源をおびやかされた社会の反作用を引き起こし、それとともに、法律によって制限された標準労働日をもたらす。

標準労働日を基礎として、われわれがすでに以前に出会った一現象が発展し、決定的に重要なものとなる──すなわち労働の強化がそれである。

絶対的剰余価値の分析にさいしては、まず第一に、労働の外延的大きさが問題になり、労働の強度の程度は与えられたものとして前提されていた。

いまや、われわれは、外延的大きさから内包的大きさまたは大きさの程度への転換を考察しなければならない。

 機械制度の進歩と、機械労働者という独自な一階級の経験の積み上げとにつれて、労働の速度、したがってまた労働の強度が、自然発生的に増大することは自明である。

こうして、イギリスでは、半世紀にわたり、労働日の延長が工場労働の強度の増大と相ならんで進行している。

とはいえ、一時的な発作でなく毎日繰り返される規則的な画一性が重要である労働にあっては、一つの結節点──すなわち、労働日の延長と労働の強度とが相互に排除し合い、その結果、労働日の延長が労働の強度の弱化とのみ両立し、また、その逆に、強度の増加が労働日の短縮とのみ両立する結節点が、確かに生じるに違いない。

労働者階級のしだいに増大する反抗が、国家に強制して、労働時間を強権によって短縮させ、まず第一に本来的工場に標準労働日を命令させるやいなや、したがって、労働日の延長による剰余価値の生産の増大がきっぱりと断ち切られたこの瞬間から、資本は、あらゆる力と意識とをもって、機械体系の加速的発展による相対的剰余価値の生産に没頭した。

それと同時に、相対的剰余価値の性格に一つの変化が現われる。

一般的に言えば、相対的剰余価値の生産方法とは、労働の生産力の増大によって、労働者が同じ労働支出で同じ時間内により多く生産することができるようにすることである。

同じ労働時間は、相変わらず、総生産物に同じ価値をつけ加える──ただし、この不変な交換価値は、いまではより多くの使用価値で表現され、それゆえ個々の商品の価値が低下するのであるが。

とはいえ、労働日の強制的短縮が、生産力の発展と生産諸条件の節約に巨大な刺激を与えるとともに、同時に、労働者にたいして、同じ時間内における労働支出の増加、労働力の緊張の増大、労働時間の気孔充填のいっそうの濃密化すなわち労働の凝縮を、短縮された労働日の以内でのみ達成されうる程度にまで強制するにいたるやいなや、事情は一変する。

与えられた時間内へのより大量の労働のこの圧縮は、いまや、それがあるがままのものとして、すなわちより大きい労働分量として、計算される。

「外延的大きさ」としての労働時間の尺度とならんで、いまや、労働時間の密度の尺度が現われる。

一〇時間労働日中のより集約的な一時間は、いまや、一二時間労働日中のいっそう粗放な一時間に比べて、同じか、またはより多くの労働すなわち支出された労働力を、含んでいる。

それゆえ、その一時間の生産物は、粗放な一1/5時間の生産物に比べて、同じかまたはより多くの価値をもっている。

労働の生産力の増大による相対的剰余価値の増加を別とすれば、いまや、たとえば、六2/3時間の必要労働にたいする三1/2時間の剰余労働は、以前には八時間の必要労働にたいする四時間の剰余労働が与えたと同じ価値量を、資本家に与えるのである。
(マルクス著「資本論 B」新日本新書 p707-709)

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「労働者階級のしだいに増大する反抗が、国家に強制して、労働時間を強権によって短縮させ、まず第一に本来的工場に標準労働日を命令させるやいなや、したがって、労働日の延長による剰余価値の生産の増大がきっぱりと断ち切られたこの瞬間から、資本は、あらゆる力と意識とをもって、機械体系の加速的発展による相対的剰余価値の生産に没頭した」と。