学習通信080704
◎母親についての日本の文学の描写の中でもっとも光りかがやく一節……

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梵語

「蟹工船」
 その本に出会ったのは、四十年以上も前のことだった。祖父の本棚に分厚い本にまじって赤茶けた表紙の薄い小説本があった

▼ページをくると、随所に「××××」があった。検閲で伏せ字になった語句だ。思春期ならではの妄想や想像をたくましくして解読に努めたが、さっぱり要領を得なかった。それでも重苦しい時代の空気は理解できた

▼その小説、小林多喜二の「蟹工船(かにこうせん)」は昭和四年の作だ。新潮社が戦後、復刻し、文庫本で毎年約五千部が出るロングセラーという。それが今年初め、全国紙の対談記事で現代のフリーターとの類似性が指摘されたころから、急速に関心が高まった

▼三月下旬から三カ月で三十五万部が出たという。新潮文庫のカバーは初版本を出した戦旗社版の表紙からとっている。確かに見覚えがある図柄だ。今では行方不明になってしまった祖父の本の伏せ字部分はどこだったか

▼「ストライキ」や「赤化宣伝」などの語句は「××××」に違いない。ページごと削除された部分もあったそうだから、読んでも分からなかったはずだ。そうまでして、表現の自由を押さえ込んだ国家権力の怖さを思う

▼蟹工船の奴隷的労働の世界と現代は同一視できない。でも検閲の歴史も含め、権力を持った側が考えることは似ているとの読後感が残る。仕事の中身や待遇は違えど、「疎外された労働」という点でも通底するものがありそうだ。
(「京都」20080626)

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ブックマーク
 昭和初期の作家・小林多喜二の小説

『蟹工船』を読みつつ
プロレタリアートを考えてみた

 小説『蟹工船』が売れている。これまでは年に5000部程度の売り上げだったのが、今年はすでに35万部以上を増刷し「異例の売り上げ」(新潮社・文庫営業担当・本間隆雅さん)を叩き出しているとか。過酷な労働の様子や、労働者が資本家に虐げられる内容が読者の共感を呼んでいるそうだ。国語や歴史の授業で「プロレタリア文学」の代表として習ったから、なんとなく題名ぐらいは知っているものの、内容についてはよく知らない。いったいどんな小説なんだろう。実際に読んでみた。

「おい、地獄さ行くんだで!」…という強烈な書き出しからはじまる本作。ざっくり内容を説明すると、「過酷な環境の蟹工船(カニを捕まえてその場で缶詰に加工する船)で働く労働者たちが団結し、労働環境改善を求めて立ち上がる」という話。登場人物たちは冒頭の言葉どおり「地獄」のような環境の蟹工船で働かされる。雪が降り、波の高い、危険なオホーツク海で漁夫たちは作業を続ける。漁は過酷を極め、遭難や懲罰(暴行)で死人も出るほどだ。しかし漁の監督は「お前らの命より、川崎(作業用の小船)一艘の方が大事だ」と言う。漁夫たちは十分な栄養も摂れず、逃げ出せない閉鎖環境のなかで、栄養不足から脚気にかかり、次第に追い詰められていく。仕事を怠けようものなら、厳しい罰が与えられ、徹底的に働かされる。その様子が実に悲惨なのだ。働いても働いても、自分たちは決して楽にならず、監督や船長の利益が増えるだけ。79年前の小説ながら、確かに現代のワーキングプアに通じるものがある。

 「プロレタリア文学」っていうと難しく感じるけど、作中の人物が言うには、「あなた方、貧乏。だからあなた方、プロレタリアート」ということになるそう。

 つまり「プロレタリア文学」とは、言いかえると「貧乏文学」ってことになるのかも。そんな小説が売れちゃうのが今の社会か…。でもなんだかなぁ、やるせない。(堅田智裕/verb)
(「R25」リクルート 20080626)

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「落葉をまく庭」の作者について

 私は最後に、これは生きて皆さん方の前に、きょう多喜二・百合子賞の受賞を発表された手塚英孝君について一言ふれたいと思います。彼は多喜二の同僚であったあの地下活動中に、お互いのアジトをたずねあうというような、きわめて近い関係にあった人であります。多喜二全集の編纂という立派な仕事をやりましたし、彼の多喜二伝は立派なものであります。皆さん方が多喜二の生涯を知るためには、この全集と、手塚君の伝記をぜひ読んでいただきたい。私どもがここでふれることはごくわずかなものであります。

 手塚君は、奇しくも私と同郷でありまして、私の中学の二、三年上でありました。中学時代に汽車で私は徳山中学に通学いたしましたが、そのときは私は彼とはまだ友達でありませんでしたが、たいへんおしゃれの中学生でありました(笑い)。さっき皆さま方の前にあいさつしたときの手塚君は、いかにも村の村長さんか(笑い)、あるいはいまの村長さんはもっとスマートでしょうけれど(爆笑)、昔の村夫子(そうぶし)という言葉が当たるような風貌でしたが、この人も多喜二と苦労をともにした人であります。

こんど受賞した「落葉をまく庭」も立派な短編でありますが、この本には「父の上京」という作品がおさめられています。これはあの短編集の一番初めにおさめてあります。

この父は、いなかのお医者さんです。近所に軍医あがりの売りこみのうまい医者ができて、だんだんはやらなくなってくる。それにからだも悪い。息子は地下活動に入って警察に追及されている。その息子に一目会いたいと思って上京してくるわけです。この父に会うくだり、この父についての描写も非常に胸うつものであります。

小林多喜二が母について書いた「党生活者」の一節、これはおそらく母親についての日本の文学の描写の中でもっとも光りかがやく一節でありますが、手塚君の「父の上京」の父の描写、これもそれに劣らないということを私ははっきりと申し上げていいと思います。
(「宮本顕治青春論」新日本新書 p204-205)

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 須山はそっちの方に用事があると、時々私の母親のところへ寄った。そして私の元気なことを云い、又母親のことを私に伝えてくれた。

 私は自分の家を出るときには、それが突然だったので、一人の母親にもその事情を云(い)い得ずに潜(も)ぐらざるを得なかったのである。その日は夜の六時頃、私は何時(いつ)ものレンラクに出た。私は非合法の仕事はしていたが、ダラ幹の組合員の一人として広汎(こうはん)な合法的場面で、反対派として立ち働いていたのである。ところが六時に会ったその同志は、私と一緒に働いていたFが突然やられたこと、まだその原因はハッキリしていないが、直接それとつながっている君は即刻もぐらなければならないことを云った。

私は一寸(ちょっと)呆然(ぼうぜん)とした。Fの関係で私のことが分るとすれば、それは単にダラ幹組合の革命的反対派としてゞは済まない。オヤジの関係になるのだ。私は一度家に帰って始末するものはして、用意をしてもぐろうと思い、そう云った。それだけの余裕はあると思った。するとその同志は(それがヒゲだったのだが)

「冗談も休み休みに云うもんだ。」

と、冗談のように云いながら、然(しか)し断じて家へは帰ってならないこと、始末するものは別な人を使ってやること、着のみ着まゝでも仕方がないことを云った。「修学旅行ではないからな」と笑った。ヒゲは最も断乎(だんこ)としたことを、人なつこさと、一緒に云い得る少数の人だった。彼は、もぐっている同志がとうとう行く処がなくなって、「今晩はよもや大丈夫だろう」と云うので自分の家に帰り、その次の朝つかまった話や、大切なものを処分するために、張り込んでいる危険性が充分に考えられる理由があるにも拘(かかわ)らず、出掛けて行って捕かまったという例を話した。彼はあまり、どうしてはいかぬとは云わない。そんな時は、それに当てはまる例を話すだけだった。色々な経歴を経て来ているらしく、そんな話を豊富に知っていた。

 私はヒゲから有り金の五円を借り、友達の夫婦の家に転げ込んだ。――ところが、次の朝やっぱり私の家へ本庁とS署のスパイが四人、私をつかむためにやってきたそうである。何も知らない母親は吃驚(びっくり)して、ゆうべ出てから未だ帰らないと云った。すると、その中で一番「偉そうな人」が風を喰(く)らって逃げたのかな、と云ったそうである。

 私はそのまゝ帰らなかったのである。それで須山が私の消息を持って訪ねて行ったときは、あたかも自分の息子でも帰ってきたかのように家のなかにあげ、お茶を出して、そしてまずまじまじと顔を見た。それには弱ったと須山は頭を掻(か)いていた。彼は私が家を飛び出してからのことを話して、それが途切れたりすると、「それから? それから?」とうながされた。母親は今まで夜もろくに寝ていなかった、それで眼の下がハレぼッたくたるんで、頬(ほお)がげッそり落ち、見ていると頭がガクガクするのではないかと思われるほど、首が細くしなびていた。

 終(しま)いに、母親は「もう何日したら安治は帰ってくるんだか?」と訊(き)いた。須山はこれには詰まってしまった。何日? 然し今にもクラクラしそうな細い首をみると、彼はどうしても本当のことが云えず、「さア、そんなに長くないんでしょうな……」と云ってきたという。

 私の母親は、勿論(もちろん)私が今迄(いままで)何べんも警察に引ッ張られ、二十九日を何度か留置場で暮すことには慣らされていたし、殊(こと)に一昨年は八カ月も刑務所に行っていた。母親はその間差入に通ってくれた。それで今ではそういうことではかえって私のしている仕事を理解していてくれているのである。ただ何故(なぜ)今迄通り、警察に素直につかまらないのかが分らなかった。逃げ廻っていたら、後が悪いだろうと心配していた。

 私は今迄母親にはつら過ぎたかも知れなかったが、結局は私の退(の)ッぴきならぬ行動で示してきた。然し六十の母親が私の気持にまで近付いていることに、私は自分たちがこの運動をしてゆく困難さの百倍もの苦しい心の闘いを見ることが出来る気がする。私の母親は水呑(みずのみ)百姓で、小学校にさえ行っていない。ところが私が家にいた頃から、「いろは」を習らい始めた。眼鏡をかけて炬燵(こたつ)の中に背中を円るくして入り、その上に小さい板を置いて、私の原稿用紙の書き散らしを集め、その裏に鉛筆で稽古(けいこ)をし出した。

何を始めるんだ、と私は笑っていた。母は一昨年私が刑務所にいるときに、自分が一字も字が書けないために、私に手紙を一本も出せなかったことを「そればかりが残念だ」と云っていたことがあった。それに私が出てからも、ますます運動のなかに深入りしているのが、母の眼にも分った、そうすれば今度もキット引ッ張られるだろう、又仮りにそんなことが無いとしても、今は保釈になっているのだから、どうせ刑が決まれば入るのだから、その時の用意に母は字を覚え出しているのだった。

私が沈む少し前には、不揃(ふぞろ)いな大きな字だったが、それでもちアんと読める字を書いているのに私は吃驚(びっくり)した。──ところが、母親は須山に「会えないだろうか?」と訊(き)いて、さア会わない方がいいでしょう、と云われると、「手紙も出せないでしょうねえ」と云ったそうである。私はそれを須山から聞いたとき、そう云ったときの母親の気持ちがジカに胸に来て弱った。

 須山が帰るときに、母親は袷(あわせ)や襦袢(じゅばん)や猿又や足袋(たび)を渡し、それから彼に帰るのを少し待って貰って、台所の方へ行った。暫(しば)らく其処(そこ)でコトコトさせていたが、何をしているのだろうと思っていると、卵を五つばかりゆでゝ持ってきた。そして卵は十銭に三つも四つもするのだから、新しいのを選んで必ず飲むように云ってくれと頼まれた。私はその「うで卵」を須山や伊藤などゝ食った。「な、伊藤、俺等一つでやめよう。後でおふくろにうらまれると困るから」と須山は笑った。伊藤は分からないように眼を拭(ふ)いていた。

 その後須山が私の家に寄るときに、私は四年でも五年でも帰られないことをハッキリ云ってもらうことにした。そして私を帰られないようにしているのは、私が運動をしているからではなくて、金持ちの手先の警察なのだから、私をうらむのではなくて、この倒(さかさ)になっている社会をうらまなくてはならない事を云ってもらうことにした。うやむやのことより、ハッキリしたことが分らせれば、かえってそこに抵抗力が出てくる。

それに、私の知っている仲間が警察につかまって、それが共産党に関係があると云われると、残された家族の妻とか母親とかが、私の夫とか息子にはそんな「暗い陰」が無いとか、「罪にひッかけようとして」共産党だなどと有りもしない事実を云っているのだとか、そんなことを云っていたものがあった。だが若(も)しもそうだとすれば、共産党というものは「暗い影」であり、又共産党なら罪にひッかけてもいいのだということを、これらの仲間の残された人たちが自分の口から云っていることになる。私は、六十の母親だが、私の母親がそれと同じように考え或(ある)いは云ったりしてはならないと思った。私の母親はその過去五十年以上の生涯を貧困のドン底で生活してきている。ハッキリ伝えれば、理解出来ると思ったのである。

 須山によると、私の母はそれを黙って聞いていたそうである。そしてそれとは別に、自分は今六十だし、病気でもすれば今日明日にも死ぬかも知れないが、そんな時は一寸(ちょっと)でも帰って来れるのだろうか、ときいた。須山はそんなことは予期もしていなかったので、どう答えていゝか分らなかった。私は後で、そういう時でも帰れないのだ、ということを云ってやった。

「オラそんなこと云えないや!」
と、須山が困った顔をした。

 私はこれらのことが母親には残酷であるとは思わぬでもなかったが、然し仕方のないことであるし、それらすべての事によって、母の心に支配階級に対する全生涯的憎悪を(母の一生は事実全くそうであった)抱かせるためにも必要だと考えた。それで私は念を押して、私が母の死目に会わないようなことがあるのも、それはみんな支配階級がそうさせているのだということを繰りかえすことを頼んだ。──だが、さすがにその日私は須山と会う時には、胸が騒いだ。

「どうだった?」
と訊いた。
「こう云ってたよ――」

 私の母はこの頃少し痩(や)せ、顔が蒼(あお)くなっているらしかった。そして一度会えないものかどうか、ときいたというのだ。

 私はフト「渡政(わたまさ)」のことを思い出した。渡政が「潜ぐ」ったとき、彼のお母さんは(このお母さんはいま渡政ばかりでなく、全プロレタリアートのお母さんでもあるが)「政とはモウ会えないのだろうか」と同志の人にきいた。同志の人たちは「会えないのだ」ということをお母さんに云ったそうである。で、私はそのことを須山に云った。

「それは分るが、君の居所を知らせるわけでなし、一度位何処(どこ)かで会ってやれよ。」

 実際に私の母親の様子を見てきた須山は、それにつまされていた。
「が、それでなくても彼奴等は俺を探がしているのだから、万一のことがあるとな。」

 が、とうとう須山に説き伏せられた。充分に気をつけることにして、何時も私達の使わない地区の場所を決め、自動車で須山に連れて来てもらうことにした。時間に、私はその小さい料理屋へ出掛けて行った。母親はテーブルの向う側に、その縁(ふち)から離れてチョコンと坐っていた。浮かない顔をしていた。見ると、母はよそ行きの一番いい着物を着ていた。それが何んだか私の胸にきた。

 私たちはそんなにしゃべらなかった。母はテーブルの下から風呂敷包みを取って、バナナとビワと、それに又「うで卵」を出した。須山は直ぐ帰った。その時母は無理矢理に卵とバナナを彼の手に握らしてやった。

 少し時間が経つと、母も少しずつしゃべり出した。

「家にいたときよりも、顔が少し肥えたようで安心だ」と云った。母はこの頃では殆(ほと)んど毎日のように、私が痩(や)せ衰(おとろ)えた姿の夢や、警察につかまって、そこで「せっかん」(母は拷問のことをそう云っていた)されている夢ばかり見て、眼を覚ますと云った。

 母は又茨城にいる娘の夫が、これから何んとか面倒を見てくれるそうだから安心してやったらいゝと云った。話がそんなことになったので、私は今迄須山を通して伝えてもらっていた事を、私の口から改めて話した。「分ってる」と、母は少し笑って云った。

 私はそれを中途で気付いたのだが、母親は何んだか落着かなかった。何処か浮腰で話も終(しま)いまで、しんみり出来なかった。──母はとうとう云った、お前に会う迄は居ても立ってもいられなかったが、こうして会ってみると、こんなことをしている時にお前が捕かまるんじゃないかと思って、気が気でない、それでモウそろそろ帰ろうと云うのだった。道理で母は時々別なテーブルにお客さんが入ってくると、その方を見て、「あのお客さんは大丈夫らしい」とか、又別な人が入ってくると、「あの人は人相が悪い」とか云っていた。私がかえって知らずに家(うち)にいた時のような声でものをしゃべると、母がもう少し低くするように注意した。母は、会っていて、こんなに心配するよりは、会わないでいて、お前が丈夫で働いているということが分っていた方がずッといゝと云った。

 母は帰りがけに、自分は今六十だが八十まで、これから二十年生きる心積(つも)りだ、が今六十だから明日にも死ぬことがあるかも知れない、が死んだということが分れば矢張りひょっとお前が自家(うち)へ来ないとも限らない、そうすれば危いから死んだということは知らせないことにしたよ、と云った。死目に遇(あ)うとか遇わぬとかいうことは、世の普通の人にとってはこれ以上の大きな問題はないかも知れぬ。しかも六十の母親にとっては。母がこれだけのことを決心してくれたことには、私は身が引きしまるような激動を感じた。私は黙っていた。黙っていることしか出来なかった。

 外へ出ると、母は私の後から、もう独(ひと)りで帰れるからお前は用心をして戻ってくれと云った。それから、急に心配な声で、

「どうもお前の肩にくせがある……」
と云った。「知っている人なら後からでも直ぐお前と分る。肩を振らないように歩く癖をつけないとね……」
「あ、みんなにそう云われてるんだよ。」
「そうだろう。直ぐ分る!」
 母は別れるまで、独り言のように、何べんも「直ぐ分る」を云っていた。

 私はこれで今迄に残されていた最後の個人的生活の退路──肉親との関係を断ち切ってしまった。これから何年目かに来る新しい世の中にならない限り(私たちはそのために闘っているのだが)、私は母と一緒に暮すことがないだろう。
(小林多喜二「蟹工船・党生活者」新潮文庫 p188-198)

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私の母はこの頃少し痩(や)せ、顔が蒼(あお)くなっているらしかった。そして一度会えないものかどうか、ときいたというのだ。