学習通信080707
◎北京郊外の盧溝橋……

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盧溝橋事件71年
忘却できぬ侵略の歴史

 福田自公政権は今、民主党を巻き込みながら、事実上の憲法改悪につながる自衛隊を常時、海外派兵できる恒久法案を来年の通常国会にも提出しようと準備を進めています。しかし、派兵につぐ派兵のすえ、アジアで二千万人を犠牲にした侵略戦争の歴史を忘れるわけにはゆきません。

 今から七十一年前の七月七日午後十時ごろ、中国・北京近郊で数発の銃声が響きわたりました。この盧溝橋(ろこうきょう)事件を口実に、日本政府は中国への派兵を増強しました。日中全面戦争となり、アジア・太平洋に未曽有の惨害をもたらしました。

 日本軍は、義和団事件の「最終議定書」(一九〇一年)を口実に北京や天津の周辺に駐留、満州事変(一九三一年)で中国東北部を侵略、占領。三五年から三六年にかけて中国の華北地方と内モンゴルの一部の経済権益の獲得を計画し、盧溝橋事件の前から、軍事演習を繰り返していました。

 日本軍は、八日未明から中国側への攻撃を開始。九日からは現地で停戦協議が始まり、十一日に停戦協定を結びました。

停戦後に派兵決定

 ところが、同日、近衛文麿内閣は、「部隊を動員してこれを北支(中国北部)に急派するの要あり」(閣議決定)と、五個師団の中国派兵を決定し、事件は「支那(中国)側の計画的武力抗日」との声明を発表しました。

 中国国民党政府は、中国共産党との合作の動きが進んでいたことも大きな力となって抗戦を決意しました。同年十二月、日本軍は、当時の中国の首都・南京を占領。その過程で「戦時国際法」にも違反する大虐殺を引き起こしました。

事件使い領土拡張

 近衛内閣で書記官長(現在の官房長官)を務め、情報統制を進めたジャーナリストの風見章は、盧溝橋事件前年に中国を旅行し、次のような手記を残しています。

 「当時あたかも日本軍部では、あるいは広西省方面に親日反蒋的政権を育て上げようとして画策努力しているという有様で、支那一部の軍閥と結び、行き詰まれる日支国交の打開をはかろうとしていた……」(『風見章日記・関係資料 1936ー1947』)

 日本政府は、軍部のこうした動きを承知のうえで、盧溝橋事件を領土拡張の野心貫徹のために利用したのです。

 日本共産党は、中国などヘの侵略と戦争拡大、植民地支配に反対して、「赤旗」で華北侵略の危険を毎号のように訴え、不屈にたたかいぬきました。

 三五年に政府の弾圧によって党中央の機能は破壊されましたが、盧溝橋事件の翌日には、党員や個々の共産主義者のグループが、東京、大阪、北海道などで反戦ビラをまいて戦争反対を呼びかけ、軍隊の中でも反戦活動を行いました。獄中でも、戦時下の法廷でも、専制と侵略戦争に反対しました。(松田繁郎)
(「赤旗」20080707)

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三、日中戦争
──開戦の責任は双方にあり≠ニする議論

開戦の最初から誰が侵略者かをごまかす

 いよいよ、一九二七年に始まる日中全面戦争の歴史にすすみましょう。
 『歴史教科書』は、日中開戦のいきさつを、次のように書いています。

 「1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には、中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した」。

 この説明で特徴的なことは、「日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員令を発した」(「も」の太字は不破)ことで、日中戦争が始まったと、開戦責任は双方にありとするどっちもどっち℃ョの描き方をしていることです。これは、どちらが侵略者かという、ことの本質をおおいかくし、日中戦争が中国にたいする日本の侵略戦争であったという事実をごまかすための、たいへん卑劣な論法です。

 だいたい、戦争の発端となった虚構橋事件というのは、日本と中国の国境地帯でおこった事件でもなければ、すでに日本が占領して支配下においていた「満州国」あるいは租借地の内部でおきた事件でもありません。北京の近郊、いわば中国の中心部でおきた事件です。そういう地域に出ばって演習をやっていた日本軍が、その国の軍隊との間に部分的なトラブルがあったからといって、それを全面戦争の口実にするというのは、強盗的な侵略者の言い分でしかありません。

 では、いったい、北京の近郊という中国の中心部に、なぜ日本の軍隊がいたのか。『教科書』は、「日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった」と説明していますが、これもあまりにも日本軍びいきの弁明です。たしかに一九〇〇年の義和団事件(北清事変)のとき、この事変に関する「最終議定書」(一九〇一年)によって、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスなどとともに、日本が北京周辺への駐兵権を手にいれたのは事実ですが、この駐兵権というのは、北京と海岸にある港とのあいだの「自由交通を維持」するために特定の地点に駐兵するという、きわめて限定されたものでした。この権利をたてに北京周辺での兵力の増強を勝手にはかり、それを中国中心部に侵略を拡大する足場にすることを企てた国は、この「議定書」の関係国のなかには、日本以外にただの一国も存在しませんでした。

停戦協定を無視してむりやり全面戦争に

 しかも、何者かの発砲≠ニいう偶発事件を、中国全面侵略に足をふみだす絶好のチャンスとしてとらえ、この事件を無理無体に日中全面戦争の口実に仕立てあげたのは、日本政府でした。

 満州事変の場合とちがって、今度は、現地の日本軍は、偶発的なトラブルとして事件を解決する方針で、中国側との交渉にあたり、この交渉は、事件の二日後には妥結点に達して、七月十一日午後六時、日本側の北京特務機関長と中国側の現地師団長とのあいだで「停戦協定」が調印されました。「事件」は、これで解決するはずでした。

 ところが、この日夕刻、日本政府は、現地のこの状況をまったく無視して中国への派兵を閣議で決定し〔資料4〕、「華北派兵に関する声明」を発表しました。この声明は、七月七日の「事件」はもちろん、その後の現地での交渉の経過もすべてねじまげた上で、「以上の事実にかんがみ、今次事件は、まったく支那〔中国〕側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし」と決めつけ、「よって政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支派兵に関し、政府としてとるべき所要の措置をなすことに決せり」と内外に発表したのです。

 これは、事件を意図的に中国全面侵略への転機にしようという日本の政府・軍部の侵略的野望を、むきだしに現したものでした。そして、七月下旬には、朝鮮軍・関東軍の部隊も続々華北に侵攻して、北京・天津地方を占領、八月には、日本から三個師団が海を渡って華北に上陸、中旬には上海方面にも戦線を拡大するなど、全面戦争への道を突きすすみました。

 これにたいして、国民党政府の側には、抗戦に踏み切るかどうか、最初の段階では動揺がありましたが、盧溝橋事件に先立って、国民党・共産党間の合作の動きがすすんでいたことも大きな力となって、八月半ばには、国民党政権も対日抗戦を決意し、全国総動員令が見せられます。

 いったいこの経過のどこを押したら、『教科書』の執筆者たちが描きだすどっちもどっち§_などが出てくるのでしょうか。


〔資料4〕
「盧溝橋事件処理に関する閣議決定」(一九三七年七月)

 盧溝橋事件(一九三七年七月七日)の四日後の七月十一日、現地では停戦協定が調印されましたが、同じ日、参謀本部は関東軍・朝鮮軍の一部に出動を命じ、政府はそれにくわえて、内地の師団の急派を決定するという強硬政策を決定しました。以下が、その時の閣議決定です。


昭和十二年七月十一日
今次事件は、まったく支那〔中国〕側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし。思うに、北支治安の恢復は最も迅速を要するものあるのみならず、支那側が不法行為はもちろん、排日・侮日行為に対する謝罪をなし、および今後かかる行為なからしむるための適当なる保障を得るの必要あり。すなわち、軍はいまやあらかじめ関東軍および朝鮮軍において準備しある部隊をもって急濾支那駐屯軍を増援するとともに、内地よりも所要の部隊を動員して、これを北支に急派するの要あり。しこうして東亜の和平維持は帝国のつねに念願するところなるをもって、今後とも局面不拡大、現地解決の方針を堅持して、平和的折衝の望みを捨てず、また前記支那側の謝罪および保障をなさしむる目的を達したるときは、すみやかに派兵を中止せしむること、もちろんなり。
(不破哲三著「ここに『歴史教科書』問題の核心がある」新日本出版社 p78-82)

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◎「日本政府は、軍部のこうした動きを承知のうえで、盧溝橋事件を領土拡張の野心貫徹のために利用」と。