学習通信080708
◎「演歌」は演説歌の略語で自由民権運動の産物……

■━━━━━

「演歌」をめぐって

佐々木 光

 「演歌」は好きですか? という記事が過日、朝日新聞(五月十日be版)に載った。アメリカ人ジェロといううまい歌い手の登場などを機にとりあげたようだ。

 賛否両論のアンケートの集計では
否定56%、是認44%
で、賛否は二分されており、否定派がやや多い。男、女別にすると
肯定は男性6対4
   女性3対7
で、女性では否定派が大きくリードしている、という。

 もともと、演歌は明治中期の自由民権運動から生まれた反権力の社会風刺だったが、世俗の大衆芸能の波をかぶり、大正期には商業主義にうまく利用され、次第次第に今日のような姿に変貌してしまった。

 今日の「演歌」にもいい歌が散見するが、現在マス・コミにもてはやされているものには多くの問題点を感じさせる。そのことが上記の「演歌否定」の原因にになっているのであろうが、著者なりにその問題点や課題を考えてみた。

 第一に、その歌詞である。今日の社会からかけ離れた世界、男女の間の限られた愛、生活感から脱け出た人生、時には後ろ向きの意識をたたえたものが多い。

 第二に、曲には伝統的な日本音楽(邦楽風な)の小ぶしを多用し、情緒をくまどり、強調する。これに安直な洋風な音の合成とリズムで造形している。

 第三に、これを歌う歌手たちは、往々にして歌詞と旋律のもつあくの強さを、故意に誇張するかのように、媚び、その技巧のある、なしによって優劣を競う。

 こういう要素から成立している世界には、正常な生活意識よりも、停滞した人間のままの、ある種の麻痺的な効果さえ感じさせる。

 アンケートのなかに出ている、演歌について、イメージとして
日本人の心  二二一七人
ワンパターン 一二六〇人
暗い     一二〇四人
カラオケ   一〇七九人
という回答が出ている。

 筆頭にのぼったイメージを解析すると、旋律の、小ぶし、短調系の内向的フレーズがあり、歌詞では日本人の感性に訴える、なみだ、別れ、任侠、港、悲しみで触発される、個的な心情、孤独感への共鳴などがかなりの比重を占めている。

 日本の伝統音楽にも、こういう内向的なものが多い。だが、封建社会の長い間に醸成された後天的な人間性を、そのまま引き継ぐものが、たんに日本人の心と、いい得るものであろうか。疑問は多い。

 現代はそうした認識世界を脱出して、社会的、政治的に大きく成長しつつあり、新しい人間を目ざしているのだ。

 「演歌」は、その成分をまた、今日の大衆的な「歌謡曲」、に強い影響を与えているのも大きな問題点である。ここにはカラオケ文化の中心になる、日本のうたの姿があるが、生活意識の外的、内的な変化により、もっと、歌詞、表現方法を変革することは不可能ではあるまい。フォーク系の新しい現実を反映した前向きの人間の歌だって参考になるはずだ。
 音楽評論家
(「前衛 08年8月号」日本共産党中央委員会 p181-182)

■━━━━━

演歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

歴史

創生期
 もともと「演歌」と称される歌は、演説歌の略語であり、自由民権運動の産物だった。藩閥政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段である。つまり、政治を風刺する歌で、演説に関する取締りが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが「演歌」という名称のはじまりといわれる。これ以前にも政治を風刺する歌はあったが、これ以後、「演歌」という名称が定着する。明治後半から、心情を主題にした社会風刺的な歌が演歌師によって歌われるようにもなり、次第に演説代用から音楽分野へとシフトするようになった。

大正になると演歌師の中から洋楽の手法を使って作曲する者も現われた。鳥取春陽の登場である。彼の作曲である『籠の鳥』は一世を風靡した。ただしこのような歌は「はやり唄」と呼ばれ、通常「演歌」には入れない。

流行歌の時代へ
昭和に入ると、外資系レコード会社が日本に製造会社を作り、電気吹込みという新録音システムも導入され新しい時代を迎えた。しかし、昭和3(1928)年の佐藤千夜子や二村定一、昭和6年の藤山一郎の登場により「流行歌」と呼ばれる一大分野が大衆音楽の世界をほぼ独占し、しばらく「演歌」は音楽界から退場することになる。

なおこの時期の大衆音楽をも「演歌」扱いすることがあるが、本来的には演歌・歌謡曲・声楽曲全ての音楽性が渾然一体となった独特の音楽性を持っており、同一視出来ない。ただし上述した古賀政男の作品「吉良の仁吉」、あるいは「こぶし」を利かせた唱法を使った人気歌手上原敏などは、広沢虎造ら浪曲師の影響を受けている。これらの例からも、作者や歌手が一部重複しているのは事実であり、この「流行歌」時代に育まれた音楽性や技巧を基にして現在の「演歌」が生まれているので、演歌を語る上で無視は出来ない時代である。

1950年代(復興期)
戦後も日本の大衆音楽は「流行歌」によっていたが、新世代の台頭と昭和28(1953)年の藤山一郎の引退により音楽性が揺らぎ始め、次第に今の演歌に近い曲が出現し始めた。この時期既にブギウギで流行歌歌手としてデビューしていた美空ひばりも音楽性をシフトさせ、映画スターの鶴田浩二、小林旭らも歌手デビューし、演歌も含め多彩なジャンルで活躍。望郷歌謡の春日八郎、三橋美智也、浪曲出身の三波春夫、村田英雄、そして現在も活躍中である泣き節の島倉千代子らが登場。現在も演歌として分類されるヒット曲は「お富さん」「別れの一本杉」「哀愁列車」「おんな船頭歌」「古城」「チャンチキおけさ」「からたち日記」「無法松の一生」「人生劇場」など。

1960年代
昭和35(1960)年、演歌専門のレコード会社・日本クラウンの独立とさまざまな音楽の流入により「流行歌」が消滅し、多数の音楽分野が成立した。その中で、ヨナ抜き音階や小節を用いたものが「演歌」と呼称されるようになったのである。昭和戦前に途絶した「演歌」分野の再来であるが、演説歌を起源とする旧来の演歌は、フォークソングに引き継がれ、社会風刺的要素は全くなく、名称だけの復活となる。この時期映画スターの高倉健も歌手デビュー、北島三郎、橋幸夫、都はるみ、青江三奈、水前寺清子、森進一、藤圭子、小林幸子(わずか10歳でデビュー)などが登場した。

作曲家は流行歌から転身した古賀政男にくわえ、吉田正、猪俣公章、船村徹、市川昭介、流しから転身した遠藤実、ロカビリー歌手から転身した平尾昌晃が登場、作詞家ではなかにし礼、星野哲郎、岩谷時子、山口洋子、川内康範らが登場、「王将」「潮来笠」「三百六十五歩のマーチ」「北帰行」「港町ブルース」「池袋の夜」「柔」「悲しい酒」「函館の女」「兄弟仁義」などがヒットし、老若男女から支持され演歌は空前の全盛期を迎える。
(ナベプロ所属の歌手に代表される)洋楽指向の歌謡曲と人気を二分した。

ただし演歌と歌謡曲との間に明確な分岐ラインが存在するわけではなく、むしろ歌手(およびレコード会社など)が「自分は演歌歌手」と称するかどうかが分かれ目と見る向きもある。例えばグループサウンズ時代、ど演歌節の旅がらすロックを歌った井上宗孝とシャープファイブは演歌歌手には含まれないと見る向きが多い。

1970年代
1970年代に入ると五木ひろし、八代亜紀、森昌子が登場。「なみだの操」「女のみち」「おやじの海」「ふるさと」「喝采」「せんせい」「与作」「浪花恋しぐれ」「舟唄」「昔の名前で出ています」「北の宿から」「おもいで酒」「夫婦春秋」などのヒット曲が生まれた。1974年には森進一がフォーク歌手の吉田拓郎作の「襟裳岬」でレコード大賞を受賞するなど演歌と他のジャンルとのコラボレーションがはじまる。

1980年代〜1990年代
1970年代後半から80年代にかけて中高年の間でカラオケブームが起こり、細川たかしのようにカラオケの歌いやすさを意識した演歌歌手が台頭した。カラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。若者のポップス志向がより強くなり演歌離れが進む。

1980年代半ば以降、若者と中高年の聞く歌がさらに乖離していく傾向が強まっていった。テレビの歌番組も中高年向けと若者向けが別々になり、年代を問わず誰もが知っている流行歌が生まれにくい時代となった。若者もカラオケに夢中になる様になり、日本のポップスもカラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。演歌が中高年のみの支持に限定されてきたことや、素人がカラオケで歌いやすいことが尊ばれ、北島三郎のように圧倒的な声量や歌唱力を誇る歌手や、森進一のように独特な声質と歌唱法をもつ個性的な歌手が実力を発揮しにくくなり、テレビへの露出が減少した。そのため緩やかな保守化と衰退が始まった。

昭和末期から平成初期にかけては瀬川瑛子の「命くれない」が87年に最後のミリオンヒットを達成。
また吉幾三や長山洋子など他ジャンルからの演歌転向者も現れ、同じくニューミュージックから演歌に転向した堀内孝雄のように独自のスタイルでヒットを出す歌手も現れ、「ニューアダルトミュージック」という新しいジャンル名も生まれた。
しかし、平成初期を過ぎると演歌の衰退は激化し、1990年代末には演歌の新曲CDが数十万枚単位でヒットする例はほとんど皆無になってしまった。

2000年代
2000年に大泉逸郎の「孫」や氷川きよしの「箱根八里の半次郎」が大ヒットし、一時的ではあったが、久しぶりの大ブームが起こった。ただし「孫」は大泉と同年代かそれ以上の中高年層の間でのヒットであり、10代、20代にも人気を博した氷川きよしの場合は演歌歌手としては規格外のルックスにより若者受けした部分が大きく、歌そのものへの評価は以前とそれほど変わらなかった。

一方で前川清の「ひまわり」(2002年ヒット;福山雅治プロデュース)のように演歌歌手がポップスを意識した楽曲を発表するような動きも増えている。そのため、これまでのジャンルとしての演歌の枠に納まらない楽曲も多くなり、ジャンル名としての呼び名が演歌から演歌・歌謡曲と呼ぶようにもなりつつある。

一時期1人、または2〜3人だった大型新人演歌歌手のデビューも毎年4〜5人まで増えている。また、ランキング上位を占めていたJ−POP全体の売り上げが停滞するにつれ、相対的にランキングでも上位に顔を出すことが多くなっている。

また、2008年にデビュー曲「海雪」がヒットしたジェロは初の黒人演歌歌手として注目され、ヒップホップスタイルのファッションでの演歌歌唱も話題となりヒットとなっている。


演歌の現在・これから
 この節には『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれがあります。解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。 

相変わらず中高年齢層限定のジャンルという認識が強いのは否めず、若い世代のファンは減少している。個性と実力を兼ね備え、演歌というジャンルを築き上げた大御所、春日八郎・三橋美智也・三波春夫・村田英雄や、演歌の女王と称された美空ひばり(「歌謡界の女王」とも呼ばれる)等がすでに亡くなっており、その後に続いた北島三郎や五木ひろし、森進一などのインパクトの強い歌手がいなくなると再び大規模な衰退が起こる可能性がある。大泉逸郎の『孫』以来これと言った大ヒットもなく、低迷が続いている。また、1960年代以降に洋楽のロックや日本製のフォークやニューミュージックなどを聴いていた戦後生まれの世代が中年層になっても演歌に移行せず、ロック等を聴き続けている者が多いことから、演歌ファンの高齢化が顕著になっている。

演歌を聴く世代の人口が高齢化に伴い減少しているため、復活することがあっても以前のような大ブームが起こる可能性は低い。これからの演歌は、氷川きよし・水森かおり等の若手歌手の力量にかかっているが、規模の縮小を回避し、以前のように台頭することは容易ではない。

2008年2月には初の黒人演歌歌手ジェロがビクターよりデビューを遂げた。若者にも演歌を聞いて欲しいという趣旨だそうである。演歌というジャンル自体に新天地を築く可能性もある。

J−POPと総称されるものの中に、民謡を取り入れた楽曲が登場していることから、かつての流行歌・歌謡曲から現在の演歌が生まれたように、J−POPの中から新時代の演歌的なジャンルが生まれる可能性もある。

2007年、ブラジルのサンパウロにて行われた、日本人の移民100周年を記念したイベントでは日本の音楽としてJポップ等ではなく演歌が流された。(大城バネサや南かなこのような南米出身の日系演歌歌手もいる。)
海外では『日本の歌といえば演歌』というイメージが強い一例とも言えよう。

そのほかの演歌の他国における受容を見てみると、アフリカのエチオピアにおける国歌やポップスがヨナ抜き音階や歌唱法などの点で日本の演歌に酷似しているという事実があげられる。これは朝鮮戦争時に日本にやってきたエチオピア兵が演歌に感動してその特徴を研究し、それを自らの音楽に取り入れたためである。エチオピアでは細川たかし、都はるみなどの日本の演歌歌手も広く受け入れられている。

これらの例は、演歌がすでに日本だけのものではなく、また、グローバルな広がりを持った優れた歌であるという傍証となる事実だろう。また、これから数十年後には、大衆娯楽としてよりも文化としての性格を持つ可能性が高いとも言える。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「生活意識の外的、内的な変化により、もっと、歌詞、表現方法を変革することは不可能ではあるまい」と。