学習通信080709
◎人間の求めるものに答はかならず……

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 一 勇気と力

 当時の東ベルリン市。
 一人住いのエディット・ヴェッヒヤーを訪ねたとき、その廊下で見た言葉。

〈夢みる勇気のない者には、
たたかう力はない〉

希望を捨てない勇気

 一九八九年春、東ドイツの同世代の女性たちを訪ねるテレビ番組に出、エディットにも会った。彼女は一九二〇年生れの六十九歳。
 婚約者のハルトマンは軍隊にとられ、帰っては来なかったという。
 最初の訪独から三年後の九二年春、予期せぬベルリンの壁崩壊、西独との統一という試練を経た女性たちの再訪に出かけた。

 エディットはフィルム公文書館の勤務に終止符を打たれ、失業していた。引き倒されたレーニン像のあとへ、同じ形のシルエットを立て、座りこみもして、警官に殴られたという。

 ドイツが敗北し戦争が終って、男たちが戦線から故郷へ帰って来る日々、エディットは駅に立って婚約者を待ちつづけた。ハルトマンはスターリングラード戦線にいて、そこから抜け出すことへの希望を恋人に書きつづけている。「マイン・リーベ、エディット」ではじまるその手紙を、はじめて会ったとき読んでもらった。痛ましい手紙を読みながら、エディットは泣かなかった。五十年近い年月が過ぎていた。

 再会の翌日、民主社会党(PDS)に参加してデモ行進をするというので、元ゲシュタポ本部近くのデモの集合地点へ会いに行った。

 黒ずくめの服装、歩くのに適した足ごしらえのエディットは、胸にボール紙をさげ、そこには、「レーニン! 一度考えてみよう」の文字とレーニンの写真が貼ってある。

 「多くの人びとは、歴史への知識・見識もなしに社会主義はダメ≠ニ言っている。破壊することで歴史を検証したことにしてしまう人びとの行為にわたしは反対です」とエディットは言っていた。

 「わたしは思想自身の正しさを信じる。わたしにとってかけがえのない人はマルクスであり、レーニンではない。レーニンは理想のなかの一人だ」

 これも彼女の言葉。社会主義が終焉をむかえ、西側世界へ、市場論理の世界へと怒涛のように世情が動いているとき、エディットはベルリンの寒気のなかで、若々しく笑った。

 「勇気と力」──旅さきで気がつき、書きとめて来たという言葉通り、七十代のエディットは、自分の立場を守り、行動をつづけている。

 わたしたちのクリスマスカードのやりとりは、ドイツ語と英語で、理解困難だった。ある年には、Peaceと五つも六つも書いてきた。わたしの立場を理解してくれたエディットの、真摯な気持が伝わってくるようだった。

夢みる勇気のない者には、
たたかう力はない。

 彼女は女として、恋人の死により夢を打ち砕かれ、「盲目の鶏だった」と語ったヒトラー時代の体制追随のあやまりを慣わされ、生涯を賭けたに違いない社会主義の退場にも出会った。

 しかし、デモのなかに消えたエディットは、若い仲間の声に明るく応じ、晴れやかに見えた。

 いつか、もっといい社会が生れる。人間の求めるものに答はかならずある──。エディットは夢、希望を捨てない。その勇気から、たたかう力が生れてくると信じて生きている。

 夢、希望、理想、平和。これらは抽象的で「これ」といって手でつかまえることはできない。しかしこの漠然としたものにつながって、人生はあるのだと思う。

 わかちがたい「希望と勇気」を確かで実感のあるものにするのは、それを求める人間の、意志といとなみなのだ。
(澤地久枝著「希望と勇気、この一つのもの」岩波ブックレット p2-4)

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 そこにも現われているように、科学的社会主義の理論とは、なによりもまず、変革の立場で世界を認識し、考察する理論です。ですから、その理論では、哲学、経済学、社会主義論などとならんで、革命論(階級闘争の戦略・戦術)が、全体の一つの柱をなす重要な構成部分となっています。実際、この分野でマルクス、エンゲルスが残した理論的遺産は膨大なもので、そこには、いま活動する私たちに「導きの糸」として役立つものが、くみつくせないほどの豊かさでふくまれています。

■革命論でのマルクス、エンゲルス研究はおくれた分野になっていた

 しかし、革命論というのは、マルクス、エンゲルス研究のなかでも、おくれた分野になってきました。それには、歴史的な理由があります。

 一八九五年にエンゲルスが死んだあと、理論面でマルクス、エンゲルスのあとを継いだとする人たちのあいだでは、経済学や哲学はさかんに論じられましたが、革命論を研究するということはほとんどない状態が続きました。

 その時、マルクス、エンゲルスの革命論の研究に本腰でとりかかったのが、レーニンでした。レーニンは、若い時代から、階級闘争の学説であるマルクス、エンゲルスの理論の革命論の部分に非常に注目しました。この分野での理論的遺産で、当時公刊されていたものは非常に少なかったのですが、レーニンは、遺稿の管理にあたっていたドイツの人たちがマルクス、エンゲルスの文献を発表すると、ただちにそれを手に入れ、そのなかから教訓を汲みだして、ロシアや世界の革命運動に生かす、そういう仕事に懸命に取り組みました。

 たとえば、一九〇二年にドイツで『K・マルクス、F・エンゲルス、F・ラサール遺稿集 一八四一〜一八五〇年』(メーリング編)という形で、マルクス、エンゲルスの初期の論説を集めた三巻本が出たことがあります。マルクス、エンゲルスと二人がきびしく批判したラサールを同列に扱って共同の遺稿集を出すあたりには、当時のドイツ社会民主党および編集者メーリングの理論的な状況がよく現われていますが、レーニンはそこに収められたマルクス、エンゲルスの文献──『新ライン新聞』の論説などをただちに徹底的に研究しました。当のドイツでも、この『遺稿集』をレーニンほど読みこんだ人はいなかったのではないでしょうか。

その研究の成果は、レーニンが一九〇六年に書いた『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』(一九〇五年)に大きく生かされました。また、「クーゲルマンヘの手紙」(一九〇二年に『ノイエ・ツァイト〔新時代〕』に連載)、『ゾルゲ書簡集』(一九〇六年刊)、『マルクス、エンゲルス往復書簡集』(全四巻、一九一三年刊)などが出ると、すぐ読んで詳しい内容紹介を書き、ロシア語訳の出版の手配をしたりします。『往復書簡集』については、全巻の摘要をつくり、その後の理論活動に大いに活用したものでした。

 こういう調子でしたから、一九一四年に、ロシアの百科事典の編集部から依頼されて、「カール・マルクス」というマルクスの活動と理論の紹介を執筆したときにも、革命論を重視し、これを独立の項目として取り上げました。それまでのマルクス理論の紹介では、哲学、経済学、社会主義論で終わるのが普通でしたが、レーニンは、最後に「プロレタリアートの階級闘争の学説」という項目をたて、簡潔なものですが、マルクスの戦略戦術論の本格的な紹介をおこなったのです。その冒頭の文章は、私たちのこれからの勉強にも参考になるものなので、紹介しておきます。

 「マルクスは、一八四四─一八四五年ごろにもう、古い唯物論の根本的欠陥の一つが革命的実践活動の諸条件を理解できず、その意義を評価できなかった点にあることを明らかにしており、マルクスはその全生涯をつうじて、理論的な活動とともに、プロレタリアートの階級闘争の戦術の諸問題にたゆみなく注意をはらった。この点では、マルクスのすべての著作が、とくに一九一三年に出版された彼とエンゲルスとの四巻からなる往復書簡集が膨大な資料を提供している。この材料は収集がおわり、まとめられて、研究がおこなわれ、検討が終わったといえるところまでにはまだまだいっていない。したがって、われわれはここで、ごく一般的な、簡単な意見を述べるだけにかぎらなければならないが、マルクスが、正当にも、この側面を欠けば唯物論は中途半端な、一面的な、死んだものになると考えていたことを、われわれは強調しておく」(古典選書七〇〜七一n 全集E六二〜六三n)。

 このように、革命論の分野でのマルクス、エンゲルスの遺産を研究するという点で、レーニンの功績にはたいへん大きいものがありました。ただ、レーニンの時代には、いまと違って、マルクス、エンゲルスの全文献を研究するという条件がなかったのです。全集などはもちろんなく、理論的遺産といっても、遣稿を管理しているドイツの党や関係者が公刊するものしか読めなかったのですから。

 その点で、レーニンのマルクス研究がある種の限界をもち、いくつかの点で誤った解釈や不当な一般化をおこなうなどの弱点をもったのは、避けられないことでした。しかし、革命論が、マルクス、エンゲルスの理論──科学的社会主義の学説のきわめて重要な構成部分であることを自覚的につかみ、それを「収集」し「総合」し「研究」し「仕上げ」る道を切り開いた点で、この分野におけるレーニンの功績にはまさに画期的なものがあったのです。

 ところが、この仕事は、レーニンの死とともに、乱暴なやり方で中断されます。レーニンが死んだのは、一九二四年三月ですが、その直後の四月〜五月、スターリンが、『レーニン主義の基礎』という有名な論文を発表し、そのなかで、マルクス、エンゲルスの革命論は時代おくれになった、「レーニン主義」こそがそれにかわる現代のマルクス主義だと宣言したのです。

 「レーニン主義は、帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義である。……マルクスとエンゲルスが活躍したのは、発達した帝国主義がまだなかった革命前(……)の時期、プロレタリアを革命のために訓練する時期、プロレタリア革命がまだ直接的、実践的に不可避的なものでなかった時期であった。ところが、マルクスとエンゲルスの弟子であるレーニンが活躍した時代は、発達した帝国主義の時期、プロレタリア革命の展開期、プロレタリア革命がすでに一国で勝利をおさめ、ブルジョア民主主義をうちくだいて、プロレタリア民主主義の時代を、ソビエト時代をひらいた時期であった。
 だからこそ、レーニン主義はマルクス主義のいっそうの発展なのである」。

 科学的社会主義を「マルクス・レーニン主義」とする呼称が広まったのは、これ以後のことで、そこでは、マルクス、エンゲルスの革命論を時代おくれのものとするこの見方が重要な内容となっていました。しかも、スターリンがマルクス主義の現代的発展だと位置づける「レーニン主義」なるものも、レーニンの理論的な展開のすべてをふくむものではなく、「レーニン主義の基礎」でスターリンが乱暴に整理づけた「レーニン理論」であって、スターリン的にねじまげられ、都合の悪い部分はすべて削りとったスターリン流「レーニン主義」でした。

 もちろん、スターリン時代にも、マルクス、エンゲルスの革命論は、ある程度は問題にされ、あれこれの文章が引用されたりもしました。しかし、その場合にも、マルクス、エンゲルスをレーニンの目で読むというのが支配的な風潮でした。レーニンのマルクス解釈を絶対のものと見て、レーニンがこう読んだのだから、それに間違いはないという読み方です。そうなると、原典にあたってマルクス、エンゲルスの革命論をあらためて研究しなおしたり、新しい論点を発掘したりする必要はなくなるのです。

 私は、革命論がマルクス、エンゲルス研究のおくれた分野となってきた最大の原因は、レーニンの死の直後に起こった、スターリンのこの理論的介人にあったと考えています。

■日本共産党の革命論研究

 日本共産党が、党の綱領路線を確立したのは、第七回党大会(一九五八年)と第八回党大会(一九六一年)を通じてのことでした。この綱領路線に立って党の活動を発展させてゆく過程で、解決をせまられる理論問題がいろいろと提起されてきます。その過程で、これが道理ある解決だと私たちが考えることと、当時国際的に定説となっていた命題(これは、多くがレーニンのマルクス解釈を根拠にしたものでした)とが矛盾する場合に、しばしばぶつかりました。そういう時、私たちはどうしたかというと、マルクス、エンゲルスの革命論そのものに立ち返り、彼らの本来の立場では、この問題はどう扱われていたかということを研究したのです。

 マルクス、エンゲルスの文献については、レーニンの時代にレーニンが読めたよりも、私たちははるかに充実したものを読み、彼らの理論と思想の発展をたどることのできる条件をもっています。そして、その問題についてのレーニンの解釈や理論もあらためて研究し、マルクス、エンゲルスの本来の立場との矛盾や違いが明らかになったときには、その原因がどこにあるか、レーニンの側に、情勢の変化に対応した有意義な発展があったのか、それともマルクスの立場の誤った解釈があったのかを究明する──私たちは、綱領路線の確定以来、さまざまな問題でこういう研究をずっとやってきました。

 こうして、長い間、科学的社会主義の革命論の定説とされてきたことで、私たちが、そこにある誤りをただし、マルクス、エンゲルスの本来の立場を全面的に復活させることで問題を解決した、ということは、かなり多くあります。

 たとえば、革命の方法の問題で、長く定説となっていたのは、マルクス、エンゲルスの革命論は、武力による革命(強力革命)を基本的な立場とし、議会の多数を得ての革命というのは、ごく例外的な場合に認めただけだ、というものでした。また、革命は多数者の支持をえてこそ成功するものだが、革命の前にあらかじめ多数をえるのは無理なことで、政権の獲得後に革命の実績を事実で示してこそ多数者への道が開かれる、こういう命題も一つの定説になっていました。

 さらに、科学的社会主義の革命論では、革命後の政権を、「労働者階級の執権(ディクタトゥーラ)」と性格づけます。レーニンは、この「執権」という言葉について、もっぱら強力に立脚する権力だという定義をあたえました。つまり、議会での多数などを根拠にせず、強力革命によって生まれる政権だということです。私たちは、この問題についても、マルクス、エンゲルスの立場を詳細に研究し、労働者階級が権力の全体をにぎる、という本来の意味を復活させました。

 私たちの今日の綱領路線には、こうして積み上げられてきた革命論研究の蓄積が、深く反映しています。

 たとえ国際的にどんなに広められた定説であっても、そこに理論的な矛盾や間違いがあれば、十分に研究したうえで大胆にその是正に取り組む、そのさい、マルクス、エンゲルスの本来の立場、科学的社会主義の大道がどこにあるかに必ず立ち返り、それを現代にどう適用すべきか、この大道にたっての現代的な発展はどこにあるかを探究する、これは、日本共産党の理論的伝統ともなってきました。世界を見ても、党として、こういう努力を多年にわたってつくし、党の理論的伝統としてきた共産党というものは、あまり見られないように思います。

 ソ連が崩壊したとき、私たちは、ソ連の覇権主義との長い闘争のなかで、この体制が社会主義とは異質のものになっていたことを、実感していましたから、世界の平和と社会進歩の立場から「覇権主義の巨悪」の崩壊として、これを歓迎する声明をただちに発表しました。

 当時、理論の面でも、マルクス主義の崩壊だ、社会主義は過去のものとなった、などの声が広くあがったものでした。しかし、私たちは、ソ連が代表するとしていた「マルクス・レーニン主義」なるものが、科学的社会主義の立場を多くの点でふみはずした「理論」であったことをよく知っており、われわれが立脚している科学的社会主義の学説というものは、マルクス、エンゲルスの本来の立場を全面的にふまえ、それを現代的に発展させたものであり、自分たちの理論と活動がその大道にたっていることを確信していました。ソ連の崩壊は、その確信にいちだんと大きな裏づけをあたえたものだったのです。

 ソ連が崩壊して十七年、発達した資本主義国である日本で、なぜ日本共産党は元気なのか、ということが、世界でよく話題になります。昨年は、アメリカの新聞で、そういうみだしの論説をのせたものもありました。日本共産党のその元気さのおおもとには、私たちが日本の政党として、日本国民の利益を代表し、日本の未来を開く正当な路線を歩んでいることへの確信と同時に、その路線がマルクス以来の科学的社会主義の大道にたっているという全党的な確信があると思います。

 私たちは世界観的確信を持とうということをよく言いますが、綱領路線という日本社会の進歩的変革の道を明らかにした革命論の面で、世界観的な確信を持つためにも、マルクス、エンゲルスの革命論を深くつかむことはたいへん大事です。

 ですから、こういう講座を開くことについて、以前から考えてはいたのですが、これをやるには、マルクス、エンゲルスの理論と活動についての、広範囲にわたる歴史的な研究が必要になりますから、なかなか手がつけられないできました。

 そういうなかで、二〇〇六年五月から『月刊学習』で「古典への招待」という連載をはじめたのです。マルクス、エンゲルスの代表的な文献を、時間的な順序で、二人の理論と活動の歴史をたどりながら解説する、という仕事です。私自身、マルクス、エンゲルスの文献を彼らの全生涯にわたって歴史的な順序で読む、という読み方をするのは、はじめてでしたが、やってみるとなかなかたいへんな仕事になりました。しかし、この仕事に取り組むなかで、革命論の流れについても、自分自身があらためて腑(ふ)に落ちる思いをする箇所がずいぶんありました。それらの収穫もあって、今回のこの講座を準備する気持ちになったのでした。

 しかし、マルクス、エンゲルスの革命論の全体にわたる講義に取り組むことは、講師をつとめる私にとっても、もちろん、はじめての企てです。講義の内容も、現在における私の理解の到達点での話になることを、ご了解いただきたいと思います。
(不破哲三「講座 マルクス・エンゲルス革命論研究」「前衛 2008年8月号」日本共産党中央委員会 p14-20)

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◎「綱領路線という日本社会の進歩的変革の道を明らかにした革命論の面で、世界観的な確信を持つためにも、マルクス、エンゲルスの革命論を深くつかむことはたいへん大事」と。