学習通信080717
◎何も知らないうちはいい……
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まど
『女工哀史』と『蟹工船』
群馬県富岡市には日本の官営工場第一号として一八七二年(明治五年)に設置された富岡製糸場が、ほぼ当時の姿のまま残り、世界遺産への登録を待っています。
〇……日本で最初の賃労働者は富岡製糸場の伝習生と綿糸紡績業の年若い女性たちです。最低限の労働条件を定める工場法もない時代、製糸工場の労働時間は一日十六時間を超え、人権無視の寄宿舎生活が強いられました。「生糸で軍艦を買った」といわれる日本の「富国強兵」「殖産興業」政策は、女性たちの命を削る労働であがなわれたのです。
〇……細井和喜蔵が『女工哀史』を著したのは一九二五年です。繊維産業を底辺で支える女性労働者の過酷な実情を暴き、当時頻発していた争議にも注目しました。一九二二年創立の日本共産党は、当初から八時間労働、最低賃金制の実施をかかげていました。党員作家である小林多喜二は『女工哀史』から四年後の『蟹工船』で「この奴隷労働を断ち切るのは労働者自身の団結とたたかいによるしかない」と高らかに宣言します。いまむき出しの資本主義の搾取と抑圧にさらされる若者が、苦しみをなげくだけでなく、『蟹工船』のたたかいに未来の展望を見いだし、共感を寄せはじめています。
〇……富岡製糸場は、当時の日本の建築技術の粋を集めた特徴あるレンガづくりの建物です。そのかけらを手にとりました。そこには日本資本主義の礎石とされた女性たちの血と涙が結晶しているようでした。(竹)
(「赤旗」20080717)
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労働学校における教育活動
当時の労働学校の大要を述べれば、三ヵ月を一期として、週二〜三回、夜二〜三時間くらい行なわれ、新進の大学教授、講師を中心とする知識人が社会科学の諸分野について講義するというものであり、科目は経済学、政治学、社会学、労働組合論、労働運動史などを中心として組みたてられているというものであった。会場は組合の事務所の一室を使ったり、他に場所を借りたりした。
労働学校の物的条件は貧しかったが、講師と学生=労働者の熱意によって、そこではまさに生きいきとした教育と学習が展開され、そこからは、後の労働組合運動・労働者政治運動の指導者や活動家が数多く生みだされていった。労働学校がそこで教え、あるいは学んだ人びとの熱意や意欲にあふれていた、その模様を伝えるいくつかのエピソードを紹介してみよう。
紡績女子労働者の悲惨な状態を詳述し、告発した、有名な『女工哀史』の著者である細井和喜蔵は、東京モスリン亀戸工場で働きながら、日本労働学校で学んでいた。かれは講義の時は、いつも最前列に座っていたが、途中でしきりにヒザのあたりをたたくようにしているので、講師の北沢新次郎(早稲田大学教授)が「それは君のクセなのか」とたずねたところ、昼間の労働でつかれていて、講義中つい眠くなってしまうので、その時はキリでひざを刺して睡魔をおいはらっていると答えた。かれのズボンは、そのためにヒザのあたりがボロボロになっていたといわれている。
つぎに、全国の大学・高専などの学生によって組織された学生社会科学連合会(一九二四年九月に、それ以前の学生連合会から発展して組織された)は、各地の労働学校にチューターや講師として学生を派遣したが、日本労働学校に参加した学生のなかに慶応大学在学中の野呂栄太郎がいた。かれはのちに、日本近代史のマルクス主義による分析としてわが国の社会科学の水準をたかめた『日本資本主義発達史』を執筆したが、同書のもとになったひとつは、日本労働学校における講義であった。
かれは同書の冒頭に、日本労働学校での講義において「労働者の質疑が常に日本歴史の現実問題に向けられており」、その科学的要求が自分の研究をすすめたと書いている。また、野呂の出身中学校(北海中学)の後輩にあたる島木健作が、ある夜、かれを訪れて夜遅くまで話しこんだ時、その話のなかで、労働学校での講義について語り、労働者のすぐれた理論的能力に心からの喜びをもっていると語った、と島木健作はその思い出を書いている。
(花香実「労働者教育運動の歴史」労働者教育論集 学習の友社 p321-322)
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六
柔かい雨曇りだった。――前の日まで降っていた。それが上りかけた頃だった。曇った空と同じ色の雨が、これもやはり曇った空と同じ色の海に、時々和(なご)やかな円るい波紋を落していた。
午(ひる)過ぎ、駆逐艦がやって来た。手の空いた漁夫や雑夫や船員が、デッキの手すりに寄って、見とれながら、駆逐艦についてガヤガヤ話しあった。物めずらしかった。
駆逐艦からは、小さいボートが降ろされて、士官連が本船へやってきた。サイドに斜めに降ろされたタラップの、下のおどり場には船長、工場代表、監督、雑夫長が待っていた。ボートが横付けになると、お互に挙手の礼をして船長が先頭に上ってきた。監督が上をひょいと見ると、眉(まゆ)と口隅をゆがめて、手を振って見せた。「何を見てるんだ。行ってろ、行ってろ!」
「偉張んねえ、野郎!」――ゾロゾロデッキを後のものが前を順に押しながら、工場へ降りて行った。生ッ臭い匂いが、デッキにただよって、残った。
「臭いね」綺麗な口髭(くちひげ)の若い士官が、上品に顔をしかめた。
後からついてきた監督が、周章(あわ)てて前へ出ると、何か云って、頭を何度も下げた。
皆は遠くから飾りのついた短剣が、歩くたびに尻に当って、跳ね上がるのを見ていた。どれが、どれよりも偉いとか偉くないとか、それを本気で云い合った。しまいに喧嘩のようになった。
「ああなると、浅川も見られたもんでないな」
監督のペコペコした恰好(かっこう)を真似(まね)して見せた。皆はそれでドッと笑った。
その日、監督も雑夫長もいないので、皆は気楽に仕事をした。唄(うた)をうたったり、機械越しに声高(こわだか)に話し合った。
「こんな風に仕事をさせたら、どんなもんだべな」
皆が仕事を終えて、上甲板に上ってきた。サロンの前を通ると、中から酔払って、無遠慮に大声で喚(わめ)き散らしているのが聞えた。
給仕(ボーイ)が出てきた。サロンの中は煙草の煙でムンムンしていた。
給仕の上気した顔には、汗が一つ一つ粒になって出ていた。両手に空のビール瓶(びん)を一杯もっていた。顎(あご)で、ズボンのポケットを知らせて、
「顔を頼む」と云った。
漁夫がハンカチを出してふいてやりながら、サロンを見て、「何してるんだ?」ときいた。
「イヤ、大変さ。ガブガブ飲みながら、何を話してるかって云えば――女のアレがどうしたとか、こうしたとかよ。お蔭で百回も走らせられるんだ。農林省の役人が来れば来たでタラップからタタキ落ちる程酔払うしな!」
「何しに来るんだべ?」
給仕は、分らんさ、という顔をして、急いでコック場に走って行った。
箸(はし)では食いづらいボロボロな南京米に、紙ッ切れのような、実が浮んでいる塩ッぽい味噌汁で、漁夫等が飯を食った。
「食ったことも、見たことも無えん洋食が、サロンさ何んぼも行ったな」
「糞喰え――だ」
テーブルの側の壁には、
一、飯のことで文句を云うものは、偉い人間になれぬ。
一、一粒の米を大切にせよ。血と汗の賜物(たまもの)なり。
一、不自由と苦しさに耐えよ。
振仮名がついた下手な字で、ビラが貼(は)らさっていた。下の余白には、共同便所の中にあるような猥褻(わいせつ)な落書がされていた。
飯が終ると、寝るまでの一寸の間、ストーヴを囲んだ。――駆逐艦のことから、兵隊の話が出た。漁夫には秋田、青森、岩手の百姓が多かった。それで兵隊のことになると、訳が分らず、夢中になった。兵隊に行ってきたものが多かった。彼等は、今では、その当時の残虐に充ちた兵隊の生活をかえって懐(なつか)しいものに、色々想(おも)い出していた。
皆寝てしまうと、急に、サロンで騒いでいる音が、デッキの板や、サイドを伝って、此処まで聞えてきた。ひょいと眼をさますと、「まだやっている」のが耳に入った。――もう夜が明けるんではないか。誰か――給仕かも知れない、甲板を行ったり、来たりしている靴の踵(かかと)のコツ、コツという音がしていた。実際、そして、騒ぎは夜明けまで続いた。
士官連はそれでも駆逐艦に帰って行ったらしく、タラップは降ろされたままになっていた。そして、その段々に飯粒や蟹の肉や茶色のドロドロしたものが、ゴジャゴジャになった嘔吐(へど)が、五、六段続いて、かかっていた。嘔吐からは腐ったアルコールの臭(にお)いが強く、鼻にプーンときた。胸が思わずカアーッとくる匂いだった。
駆逐艦は翼をおさめた灰色の水鳥のように、見えない程に身体をゆすって、浮かんでいた。それは身体全体が「眠り」を貪(むさぼ)っているように見えた。煙筒からは煙草の煙よりも細い煙が風のない空に、毛糸のように上っていた。
監督や雑夫長などは昼になっても起きて来なかった。
「勝手な畜生だ!」仕事をしながら、ブツブツ云った。
コック部屋の隅(すみ)には、粗末に食い散らされた空の蟹罐詰やビール瓶が山積みに積まさっていた。朝になると、それを運んで歩いたボーイ自身でさえ、よくこんなに飲んだり、食ったりしたもんだ、と吃驚(びっくり)した。
給仕は仕事の関係で、漁夫や船員などが、とても窺(うかが)い知ることの出来ない船長や監督、工場代表などのムキ出しの生活をよく知っていた。と同時に、漁夫達の惨(みじ)めな生活(監督は酔うと、漁夫達を「豚奴(ぶため)々々」と云っていた)も、ハッキリ対比されて知っている。公平に云って、上の人間はゴウマンで、恐ろしいことを儲(もう)けのために「平気」で謀(たくら)んだ。漁夫や船員はそれにウマウマ落ち込んで行った。――それは見ていられなかった。
何も知らないうちはいい、給仕は何時もそう考えていた。彼は、当然どういうことが起るか――起らないではいないか、それが自分で分るように思っていた。
二時頃だった。船長や監督等は、下手に畳んでおいたために出来たらしい、色々な折目のついた服を着て、罐詰を船員二人に持たして、発動機船で駆逐艦に出掛けて行った。甲板で蟹外しをしていた漁夫や雑夫が、手を休めずに「嫁行列」でも見るように、それを見ていた。
「何やるんだか、分ったもんでねえな」
「俺達の作った罐詰ば、まるで糞紙よりも粗末にしやがる!」
「然しな……」中年を過ぎかけている、左手の指が三本よりない漁夫だった。「こんな処まで来て、ワザワザ俺達ば守っててけるんだもの、ええさ――な」
――その夕方、駆逐艦が、知らないうちにムクムクと煙突から煙を出し初めた。デッキを急がしく水兵が行ったり来たりし出した。そして、それから三十分程して動き出した。艦尾の旗がハタハタと風にはためく音が聞えた。蟹工船では、船長の発声で、「万歳」を叫んだ。
(小林多喜二「蟹工船」新潮文庫 p91-97)
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格差社会の思わぬ落とし子!
長岡義幸
[インディペンデント記者]
ブームの『蟹工船』は
実際どのくらい売れているのか
最初は冗談かと皆が思ったに違いない。小林多喜二の『蟹工船』が社会現象と言えるほど売れているという。格差社会と政治の無策を反映した現象だろうが、それにしても……。現状を探ってみた。
再び脚光を浴びる
『蟹工船』
富める者がさらに儲けるならば、貧しい者もそれに引きずられて豊かになる──。小泉政権以来、そんな幻想を振りまく新自由主義的な政策が大手を振っている。ところがその実態はといえば、金持ちはより肥え太り、貧乏人はいっそう貧困にあえぐ、弱肉強食・優勝劣敗ともいえる格差社会を招来してしまった。ワーキングプア、ネットカフェ難民と呼ばれる若者、あるいは大阪府警と対峙する釜ガ崎の日雇い労働者・野宿者といった、行き場のない者たちの怒りや諦めの感情が大きな渦を巻いている。
そんな時代の閉塞感にずばりはまったのが79年前、1929年に刊行されたプロレタリア作家・小林多喜三の『蟹工船』だ。とりわけ、新潮文庫版の『蟹工船・党生活者』は今年4月以降、6月末までに35万7000部を増刷した。53年に初版を刊行し、2007年までの54年間で積み上げてきた107万4000部の3分の1もの部数を3ヵ月間で販売したことになる。しかも、まだまだ勢いは衰えない。さらには、岩波の文庫版、マンガ版にも波及し、8月25日には角川文庫版が再刊を予定するなど、蟹工船ブームといった様相を呈しているところだ。
過去の名作に過ぎなかった『蟹工船』がなぜ、再び脚光を浴びることになったのか、出版関係者に事情を聞いた。
きっかけは
毎日・朝日の記事
マスコミをつうじて『蟹工船』が再評価されるきっかけになったのは、本誌でおなじみの雨宮処凛さんが毎日新聞の紙上で高橋源一郎さんと対談し、〈たまたま昨日、『蟹工船』を読んで、今のフリーターと状況が似ていると思いました〉〈蟹工船がリアルに感じられるほど、今の若い人の労働条件はひどい。派遣で働いて即ネツトカフエ難民になる例もある。今の貧困層には、いつどん底に落ちるかわからない不安があります〉(08年1月9日付)と語ったこととされている。
その『蟹工船』のストーリーは、ごく簡単にはしょれば、北洋の海でカニを捕り、缶詰に加工する工場船(蟹工船)で働く労働者が、劣悪な労働条件と現場監督の横暴に対抗するため、ストライキに立ち上がり、いったん勝利した後、資本家と結託した帝国海軍によって鎮圧されてしまうものの、この経験によって、数人だけが先頭に立つのではなく、全体が一体となって闘うべきことを知る、という内容だ。こんな要約では、身もふたもないかもしれない。けれども、「おい地獄さ行ぐんだで!」と諦念しながら船に乗り、「糞紙」のごとく酷使される労働者の姿には、日雇い派遣で糊口をしのぐ若者や「名ばかり管理職」として酷使される中高年らにとって自身の置かれた立場に重なるものがあったに違いない。
ただ、本が売れ出すのはもう少し時間が経ってからだった。
新潮社広報宣伝部次長の町井孝さんによると、2月下旬ごろ、東京・上野駅構内にある書店「ブックエキスプレスディラ上野店」の文庫担当、長谷川仁美さんが『蟹工船・党生活者』を150部仕入れたいと営業部に連絡してきたことにはじまる。営業部員が「なぜいまその作品を?」といぶかって理由を尋ねたところ、朝日新聞が2月14日の文化面に掲載した「『蟹工船』重なる現代 小林多喜二、没後75年」という記事を読み、『蟹工船』を再読したところ、衝撃を受けたと話してくれたという。朝日の記事は、由里幸子記者が毎日の雨宮・高橋対談に触れつつ、多喜二の母校である小樽商科大と、自樺文学館多喜ニライブラリーが共催した『蟹工船』感想エッセーコンテストの受賞作の読後感を書いたものだった。
日程の都合で直接話を聞くことができなかったが、長谷川さんは、出版業界紙「新文化」の取材に「私自身も就職するときは超氷河期時代で、大学卒業後の3年間はフリーターでした。その時の空気と『蟹工船』の内容が重なったんです」(5月1日付)と、この本をプッシュした理由を語っている。
ディラ上野店では、当初4面積みで週に30〜40冊と初速もよく、12面積みに売場を拡大して積極展開したところ週80冊に伸長。中高年の男性が中心だった読者層が20代にも広がっていった。店頭に掲げたPOPには「ワーキング・プア?ちょっと待って、この現状、もしや……『蟹工船』じゃないか?」と流暢な文字も踊っていた。
書店の反応を受けての
新潮社の対応
これに刺激を受け、新潮社営業部も3月18日に増刷を決め、首都圏の書店を中心に販売促進を掛けることにした。ただ、80年代には毎年1万部ずつ増刷していたものの、この10年ほどは、年に1回5000部ほどに減っていた。これを7000部に増やすという、この時点ではささやかな取り組みだった。
営業部主任の岑裕貴さんは、「長谷川さんが150冊仕入れてくれたので、販売数には注意していました。ほかの書店には、店頭在庫が1冊あるかないかという程度。毎日や朝日に記事が出ても、その結果、1冊が売れたというだけの実績ですから。書店さん自身も、売れるのかどうか把握できない状態で……。後日、POSデータをよくみると、2月14日の朝日新聞の記事によって、全国の書店で動いていたことがわかりました。でも、その段階ではわれわれも気がつきませんでした」と振り返る。
そんなこともあり「ディラ上野店の数字がよかったので、まずは、私たち営業部員がふだん回れる書店で試しに仕掛けてみようか、ということになりました」と経緯を説明する。
増刷分が出来する頃には、東京・丸の内の丸善本店をはじめとして、紀伊國屋書店新宿南店、三省堂書店神保町本店、リブロ大宮店、ブックファ−スト渋谷文化村通り店など東京都内や隣県の書店でも好調な立ち上がりとなった。81年を最後に夏の「新潮文庫100冊」フェアから外していたのを、27年ぶりにラインアップに加えることにしたのも、この頃だ。
そして、4月3日に配本した96刷の7000部は思った以上の販売実績となる。ゴールデンウィーク直前の4月28日には、5月12日出来予定で97刷2万部の増刷を決定。これと併行して、広報宣伝部は、新聞社の文化部などの記者に「『蟹工船』が売れている」という情報を伝えることにした。
「これが非常に反応がよかったんです。単に、新刊の文庫がやたらに売れているというだけの話なら、興味をひいてもらえなかったと思うんです。でも、売れているのが小林多喜二の『蟹工船』であり、しかも、その背景には、格差社会やワーキングプアの問題があるのではないかと話すと、ある種の社会現象として報道できるのではないかと、関心を持ってもらえました」(広報宣伝部・町井さん)
その結果、全国紙では、読売新聞が5月2日の夕刊1面のトップに「『蟹工船』悲しき再脚光 格差嘆き若者共感 古典では異例の増刷」という記事を掲載した。しかも、大きな書影が載った。読者は書店へ買いに走り、全国の書店は『蟹工船』が注目されていることに気がついた。連休明けには、さらに弾みがつくことになる。
「最初の発端は毎日新聞の記事でしたが、ブームといっていい勢いのきっかけは、この読売新聞の夕刊トップの記事でした。カラー写真だったので、読者にとって印象的だったのではないかと思います」(町井さん)
陸続の報道で
売行きはピークに
その後、報道が陸続とする。5月13日には、朝日新聞が社会面で「蟹工船 はまる若者」という見出しで取り上げ、翌14日には、産経新聞に「ワーキングプアの連帯感=v、日経新聞の夕刊コラムに「ベストセラーの裏側」、毎日新聞夕刊に「プロレタリア文学の名作『蟹工船』が異例の売れ行き」という記事が一気に載り、5大紙を席巻した。
これだけでは収まらず、5月18日の朝日新聞「耕論」欄には、『蟹工船』と絡めた雨宮さんのインタビューが掲載され、同日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」では、共産党の志位委員長が『蟹工船』を掲げながら本を推薦し、22日には同社の『週刊新潮』が「小林多喜二は『エリート銀行員』だった!」という少々嫌みな記事を載せた。そして5月27日、フジテレビ「めざましテレビ」で紹介されるに及んで、この時期、売行きの最大のピークが訪れた。
「興味深かったのは、読売の政治面『永田町フィールドノート』も5月27日に取り上げ、衆議院のなかにある書店が『蟹工船』を平積みにしたという話までニュースになったことです。まさに社会現象になりました」(町井さん)
この間、増刷した部数は、5月19日に3万部、5月28日に5万部、6月6日に4万部、6月11日に4万部、6月13日に5万部、6月16日に2万部、6月23日に5万部と続き、6月30日には105刷5万部となった。
きっかけをつくったディラ上野店は6月24日現在で1824冊を売り、ついで紀伊國屋書店梅田本店が1643冊となっている。梅田紀伊國屋は昨年、新潮文庫を日本一売った書店だが、その数を上回る部数を販売したディラ上野店は「やっぱり長谷川さんの熱意のもと、最初から取り組んだ結果。すごい数です」(営業部・岑さん)というほどの実績になる。
なぜ、これほどまでの反響になったのだろうか。町井さんはこう考える。
「われわれの側から『ワーキングプアは蟹工船といっしょだ』と言ったとしても、話題にはならなかったと思います。雨宮さんの発言があって、ディラ上野店の長谷川さんが売ろうとしたように、自然発生的に版元の外から出てきたから、こういうふうに大きくなったのだと思うんです」
新潮文庫編集部の副部長佐々木勉さんは、もうひとつヒットの素地があったのではないかと言う。以前の表紙は、青を基調にした暗めの絵だった。03年にこれを改版(文字拡大)した際、赤黒系の現在の装丁に変えていた。
「古いロングセラーは、あるタイミングで活字を大きくしています。8ポイントだったのを9・25ポイントにしました。そのとき、せっかく文字を大きくするんだから、カバーももう少し手に取りやすいものに変えようと、うちの装頓室が初版本の戦旗社版の絵を利用してつくり直しました。カバーの文字も、アジビラのようなといいますか、ロシア・アパンギャルド風といいますか、それらしい感じになり、バランスのいいカバーになったと思います。若い人からはかっこいいという声も聞いています。こういうことで火が付く準備がたまたまできていたのかもしれません」
『蟹工船』をめぐる
各社の動向
他社版の『蟹工船』はどうだろうか。
岩波書店営業部によると、岩波文庫『蟹工船 一九二八・三・一五』は51年の初版以来、累計41万部を発行しているという。1年間の増刷部数は、数年前まで2000部前後だったのが、07年度は例年の2倍、4月からはじまった今年度は、3ヵ月間ですでに8000部になったそうだ。部数は小さいものの、出足は新潮文庫よりもはやかったようだ。
「あの時代の文学は、そうそう売れるわけではないのですが、きっちり残してきました。うちは返品のできない買切扱いなので、書店さんはなかなか新潮文庫のようには置きにくいのですが、思った以上に売れています。特別な仕掛けはしていません。でも、主要な書店では、新潮文庫版といっしょに並べてもらっています。同傾向の本と言えるのかどうかは微妙ですが、岩波新書の『ルポ 貧困大国アメリカ』が18万部になり、『反貧困』が4万3000部売れたりと、格差社会や貧困問題に対する社会的関心は非常に高まっています。『蟹工船』が売れたから、格差・貧困問題に目が向けられたというよりも、格差・貧困社会になったために、これらの本に注目が集まっているのだと思います」(岩波書店社員)
話を聞いた社員は、「こういう本が売れるのは、実はよくない時代なんだと思う」とも語っていた。本が売れるのは、商売としてはありがたいものの、世の中を見渡せば、そうそう喜んでばかりはいられないというジレンマだ。
マンガ版の『蟹工船』も、2種類刊行されている。
東銀座出版社の『マンガ蟹工船』は、「現代の派遣社員やフリーターなどの雇用問題にも共通する社会派小説の国内初マンガ化」を惹句(じゃっく)に、06年11月7日に初版5000部でスタート。直近までに5刷2万部強となった。このうち、今年3度増刷し、1万5000部を発行している。もともと小林多喜二の研究書や評論集をはじめ、プロレタリア文学関連の書籍を刊行してきた出版社だ。
同社の猪瀬森さんは、「名作である『蟹工船』を若い人たちにも読んでほしかった。そのためにはどうすればいいかと考え、マンガのかたちで、価格も600円と安くして、出すことにしました。今年に入ってから、急激な売れ行きとなりました。読売新聞の記事では、弊社のマンガが『蟹工船』再評価の火付け役ではないかとも書いてくれています」
最初は、子どもや孫に読ませようと中高年が買いはじめ、徐々に若者自身が購入するようになったという。
イースト・プレスは、現在累計17点となる「まんがで読破」シリーズの1冊として『蟹工船』をマンガ化した。「みんな知っているけど実は読んだことはない」ような近代文学をマンガで紹介するという企画だ。『蟹工船』は07年10月に初版を刊行した。
「基本は5万部なのですが、実はほかの読破シリーズよりも少なめの部数からはじめました。『人間失格』や『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』は別格として、それでも、既刊シリーズの真ん中よりは上の売行きになっていました。それが今年の5月になって急に売れ出しました。前月の3倍の売行きです。7月中には累計発行部数が15万部ぐらいになりそうです。もともとターゲットを20代、30代に定め、ローソンやファミリーマート、セブンイレブンなどのコンビニでも販売し、これがうまくいきました」(営業部)
学校図書館のなかには定期で入れてほしいというところも現れ、『蟹工船』だけでなく、シリーズ全体に波及しているそうだ。
東銀座出版社もイースト・プレスも、新潮文庫版が売れたから、二匹目のドジョウ狙いで出版したわけではなく、時代の先を読んでマンガ化していたのは見事だ。しかも、『マンガ蟹工船』も『まんがで読破 蟹工船』も、若者に狙いを定めているのは同じでも、売り方の違いで、異なる読者層を掴んでいるようだ。
ブームは
これからどうなる?
『蟹工船』ブームは、このあとどうなるのだろうか。新潮文庫編集部の佐々木さんは、「社内では、プロレタリア文学つながりで飛び火させることができるのではないかとか、いやプロレタリア文学が見直されているわけではない、いまある文庫のなかで、過酷な労働実態が描かれている作品をプッシュしていくのがいいのではないかとか、様々な意見が出ています。そのなかで、100年前のワーキングプアを描いた夏目漱石の『坑夫』を『大人の時間』という文庫フェアに入れることにしました。近代文学の古典的作品は、必ずしも読みやすいものではありませが、人類の知的遺産ですから、歯を食いしばってでも読んでほしい」と話す。
なかには、革命ロシアを理想化する記述に、白けたという読者もいるという。当然だ。あるいは、「昔も今も同じだ」とため息をつく若者もいる。しかし、『蟹工船』を手がかりに、若い読者もぜひ次の本をみつけてほしいと思う。同時に、現実の世界では、資本家や国家権力と闘った蟹工船の労働者のように、ひとつになって闘い現状を打破するという道行きがあってもいいのではないか。
蛇足ながら、『蟹工船』を再読して思い出したのが、ボリビアの映画集団ウカマウが制作した映画「第一の敵」だ。牛を盗んだ農場主の専横と、その行為を容認した判事に噴った農民が決起し一度は勝利するものの、農民の蜂起を恐れたアメリカ帝国主義者が現われて農民やゲリラを虐殺する。生き残った農民らは、第一の敵≠ニ闘うことを決意して幕を閉じるというストーリーだ。アナクロに過ぎるかもしれないが、そんな決意が必要な時代になってしまったのかもしれない。
(「創 08年8月号」創出版 p110-116)
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◎「いまむき出しの資本主義の搾取と抑圧にさらされる若者が、苦しみをなげくだけでなく、『蟹工船』のたたかいに未来の展望を見いだし、共感を寄せはじめてい」ると。