学習通信080723
◎そこへ向かって一歩ふみ出した……
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朝の風
学校の靖国訪問解禁の動き
靖国問題は、ほとぼりがさめるどころか、なかなかどうして、反動勢力側の執念は、しつこい。
一般紙や本紙は報道していないが、「神社新報」(六月二日付)によると、「占領下の昭和二十四年に出された国公立学校の靖国神社・護国神社訪問などを禁止する文部事務次官通達をめぐり、政府は五月二十三日、『我が国が完全な主権を回復するに伴い覚書(神道指令)が効力を失ったことをもって、失効したものと考える』とする答弁書を閣議決定した」という。
これは平沼赳夫議員の質問主意書──渡海文科相が、今年三月、参院文教科学委員会で「靖国神社等の取扱いについては既に失効している」と答弁しているが、「失効しているとするならば、学校が主催して靖国神社、護国神社等を訪問してよいということになるが、そうした理解でいいか」──に対して、「訪問してよい」という政府答弁なのである。
かつて「靖国法案」推進のある自民党議員は、「法案」成立のあかつきには、「大鳥居の前に自衛隊員の歩しょう。春秋には自衛隊音楽隊の演奏。むろん修学旅行のコース」(「朝日」一九七〇年八月二十六日付)と語っていたが、靖国神社等への訪問解禁は、そこへ向かって一歩ふみ出したようである。
(「赤旗」20080723)
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靖国神社と天皇
靖国神社は、東京九段の招魂社を一八七九年(明治一二)に改称したもので、帝国陸海軍の管轄下におかれ、大元帥としての天皇がその最高祭記者となっていた。靖国神社は、明治維新における戊辰戦争の勝利者=官軍と敗戦までの大日本帝国の皇軍の名誉の戦没者の霊のみをその祭神として祀るもので、賊軍、反乱軍、敵軍、「不忠」の兵士と政府がみなした者の霊は捨ててかえりみなかった。つまり、天皇のために忠義・忠勤を尽し名誉の戦死=忠死をした軍人の英霊・忠魂を祀りなぐさめ、その勲功を顕彰することを目的としていた。
また、靖国神社は地方分社として全国各地の招魂社をその系列下におさめた巨大な神社体系を構成しており、一九三九年四月一日、全国の招魂社は内務省の命令で道府県あたり一社を基準に護国神社と改称した。「護国」は「靖国」と同義で、その祭神にはその道府県に関係する靖国神社の祭神(戦没者)を合祀することが規定された。靖国神社と護国神社は、天皇のために国民が生命を投げ出して武功をあげること、まさに日本軍国主義の象徴であった(大江志乃夫『靖国神社』)。
戦後の靖国神社と護国神社は、一九四五年一二月の宗教法人令、一九五二年一月の宗教法人法によって民間の一宗教法人となったが、戦前の目的、性格を改めようとはしなかった。したがって、靖国神社と天皇と自衛隊が結合することは、単に憲法の政教分離原則に反するばかりでなく、戦後の日本国が十五年戦争と軍国主義を公式に肯定し、自衛隊が天皇のために忠死する軍隊であることを意味するといえよう。
次のように、戦後天皇自身が靖国神社を参拝したのは八回、境内まで訪れたのは一回である。
@一九四五年一一月二〇日(最後の国営臨時大祭)
A一九五二年一〇月一六日(講和独立奉告)
B一九五四年一〇月一九日(秋の例大祭)
C一九五七年四月二三日(春の例大祭)
D一九五九年四月七日(戦後初の臨時大祭)
E一九六四年八月一五日(第二回全国戦役者追悼式、境内)
F一九六五年一〇月一九日(敗戦二〇周年)
G一九六九年一〇月二〇日(神社創立百年)
H一九七五年一一月二一日(敗戦三〇周年)
カッコ内は参拝理由である。BCはいわゆる逆コースの動向の一環で、日本遺族会と靖国神社奉賛会の結成、非宗教施設「無名戦没者の墓」のちの千鳥ヶ淵戦没者墓苑と靖国神社との関係をめぐる靖国神社・遺族会と政府との対立などを要因として、天皇に靖国神社を参拝させようとする圧力が高まった結果であろう。Dは靖国神社が一五年戦争戦没者の合祀もれ九万余柱を合祀完了したことを記念する臨時大祭である。当時の『朝日新聞』の報道は「お使い」の参拝としているが、数年後の同紙はそれを天皇自身の参拝と書いている。これにつづいて、一九六〇年八月二五日、全国の護国神社代表は靖国神社で全国護国神社大会を開いた。戦後一五年をへて、護国神社が一五年戦争戦没者の合祭をほぼ終了したことを記念するものであった。翌二六日、天皇は護国神社五一社に金一封を贈った。Eについては後述する。
また、天皇は一九五三年秋から例大祭ごとに毎年靖国神社に「お使い」を派遣し参拝させている。各道府県の護国神社への参拝は、一九六四年の長野県植樹祭の時から地方旅行中に「お立寄り」という形で恒例化しはじめ、一九七一年の広島県植樹祭からは「公式参拝」となった。天皇と靖国神社との結合はサンフランシスコ講和条約以後、徐々に着実に復活強化してきたのである。
自衛隊と靖国神社との結合も同様である。自衛隊では、隊員の靖国神社への参拝は「社会研修」の名目で一般化しており、自衛隊の殉職者はその遺族の意志とかかわりなく、各地の護国神社に合祀されている。また、たとえば群馬県に司令部をおく第十二師団では、一九六二年一月から六四年二月までに護国神社への清掃参拝が七五七回、その参拝隊員一九、六五五人であったというから、その結合は自衛隊の日常活動となっていると考えられる。
一九六六年七月には、海上自衛隊の遠洋航海部隊の二百余人が、はじめて、音楽隊を先頭に銃を持った完全武装で隊列を組んで、つまり「儀杖による礼式」によって公式参拝することが司令官によって命令されたが、「世論を刺激するおそれがある」として事前に庁議で中止となった。しかし「世論の動向を見たうえで来年度は実施にこぎつけたい」というのが防衛庁の方針であった。
このような靖国神社と天皇と自衛隊の結合をより公的性格のものに制度化しようとするのが、靖国神社国家護持・国営化運動であった。
この運動は、一九五〇年代の後半から靖国神社、神社本庁、日本遺族会を中心に、右翼的宗数団体や日本郷友連盟の協力のもとで推進されてきたが、一九六〇年に戦没者合祀が終了したこともあり、一九六九年の神社創建百年を目標に活発化していった。一九六三年九月、日本遺族会がまとめた国家護持の方針は、靖国神社が「宗教ではない」と主張し、@靖国神社の称号、諸大祭の行事形態は従来通り、A国が監督し交付金を支給する、B「今後合祀する祭神は内閣において決定し天皇の認証を条件とする」というものであった。
この方針は、強引無理な合憲論、解釈改憲による戦前の国家神道の復活にほかならず、そして、自衛隊が将来戦争をして戦役者が出た場合、それを「英霊」として天皇の手で祭神化することをめざすものであった。同年一二月、自民党の遺家族議員協議会は、右の方針を了承し、現憲法下で「靖国神社の本質、歴史的内容は尊重して変えない」まま国家護持の実現を図ると決定した。
そして、法案化のため靖国神社側や憲法との「調整」をくりかえしたすえ、自民党は一九六九年六月三〇日「靖国神社法案」を国会に提出した。同法案の目的は靖国神社を特殊法人化して国営にする、靖国神社は「戦没者及び国事に殉じた人々の英霊に対する国民の尊崇の念を表わすため、その遺徳をしのび、これを慰め、その事績をたたえる」というもので、やはり英霊顕彰の性格にかわりはなく、侵略戦争を肯定・美化するものであった。さらに国家が「国民の尊崇の念を表わす」行事を主催するのだから、靖国信仰をもつ者だけでなく国民全体に靖国の思想を普及し要求するという思想動員の性格をもつ法案であった。
靖国法案が国会に提出される前後から四野党、大多数の宗教団体が強力な反対運動をくりひろげ、同法案は審議未了、廃案となった。以後、法案提出が毎年つづけられ、一九七四年には衆議院で自民党が単独強行可決するまでにいたったが、結局廃案となった。
その結果、靖国神社国家護持運動は、翌年から形態を再強化し段階的なしくずし的に「国家護持」のなかみを実現していく方向に転じていった。第一が現職首相の公式参拝による国営化へむけての既成事実づくりである。現職首相の靖国公式参拝は、一九五二年一〇月の吉田首相(講和奉告)、一九六四年八月の池田首相(第二回全国戦没者追悼式)の二度の先例があった。しかし、一九七五年八月一五日に三木首相が参拝して以後は、これが恒例化し、閣僚を引きつれた集団参拝が毎年くりかえされている。中曽根首相にいたっては、就任以来一年半の間に、一九八四年八月一五日で六回も内閣総理大臣たる中曽根康弘として参拝している。
第二は「戦没者の慰霊表敬法案」の推進。慰霊表敬は合憲として国家機関の公式参拝を法制化する。第三は「英霊にこたえる会」などによる国民運動の形をとった国家護持の世論づくりである。一九七八年秋には、東条英機ら一四名のA級戦犯が新たに靖国神社に合祀された。一九八一年八月一四日には、中川一郎科学技術庁長官が閣議後の記者会見で、天皇の靖国公式参拝を提唱するまでにいたっている。
(藤原・吉田・伊藤・功刀著「天皇の昭和史」新日本新書 p184-190 1984年出版)
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◎「靖国問題は、ほとぼりがさめるどころか、なかなかどうして、反動勢力側の執念は、しつこい」と。