学習通信080731
◎それは黒人奴隷……
■━━━━━
奴隷制謝罪を初決議
アメリカ下院、賠償には触れず
【ワシントン30日共同】米下院本公議は二十九日、米国が過去に行った奴隷制と人種隔離政策について、黒人に謝罪する決議を発声投票によって初めて採択した。
三十日付ワシントン・ポスト紙などによると、これまでにバージニアやノースカロライナなど五州が奴隷制を謝罪しているが、損害賠償につながる可能性があるとの理由で、連邦議会では謝罪決議は採択されていなかった。今回の決議は損害賠償には触れていない。
下院の決議は、南部テネシー州選出で白人のコーエン議員(民主)らが共同で提出。アフリカから強制的に黒人を連行して奴隷にしたことを「彼らの名前や運命を奪った、残虐で恥ずべき非人間的行為」と批判。米国の黒人は奴隷制やその後の人種隔離政策によって苦しみが続いていると指摘。その上で「米国民を代表して奴隷にされた黒人とその子孫に謝罪する」とした。
黒人議員会の代表を務める女性下院議員のキルパトリック氏(民主)は「過去の間違った行いを正す画期的な出来事だ」と評価した。
(「京都」20080731)
■━━━━━
2 奴隷狩り
では、イギリスの本源的蓄積にはこういう悲惨な底辺はなかったのだろうか。工場や炭坑での非人間的な労働条件のことは第四話でのべた。しかしそれよりももっと悲惨な状態の労働者が、やはりイギリス資本主義の底辺を支えていたのであった。それは黒人奴隷である。
イギリス本国で土地の囲いこみがすすみ、農民が土地とりあげに反対して一揆にたちあがっていたころ、ヨーロッパ諸国はアメリカ大陸の植民にのりだした。スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、そしてイギリスと、カナダから南アメリカまで、植民者がおくりこまれ、原住民のインディオたちを追いはらい、その土地をうばいながら、開拓をすすめていた。しかし、面積のわりに人口の少ない新大陸では、労働力がつねに不足していて、インディオを奴隷にするだけではたりず、ヨーロッパ大陸からいろいろな形で、労働者をつれてゆく必要があった。
はじめのうちは囚人や、借金をしょいこんで返せないものとか、前借金を借りて年季奉公をつとめるものとかが、大西洋をわたっていった。しかし、それでも労働力は不足していた。そんなときに、アフリカ大陸の黒人をつれていってこれを奴隷にして使うことを考えついたのは、スペイン人の宣教師ラス・カサスだった。それは一六世紀のはじめのことである。黒人は、そのまえから、ヨーロッパ大陸諸国でおもに召使として使われていたが、このあと一九世紀の末までに、約一千万人ないし一千五百万人の黒人がアフリカからアメリカおよび西インド諸島へ輸入された。つぎの表は、年代別、地域別の黒人奴隷輸入数の推定であるが、じっさいはもっと多かったといわれる。
スペイン人のはじめた奴隷貿易にイギリスが本格的にのりだしたのは、イギリスのブルジョア革命が終わった一七世紀の後半以後のことであった。ブルジョア革命が、イギリス本国では、すべての人間は平等であり自由であって、主権は国民にあると宣言してから、アフリカでは奴隷狩りがはじまったのである。
イギリスの奴隷貿易の中心になったのは、一六六〇年に設立され、一六七二年に改組された王立アフリカ会社であった。名前のしめすとおり、国王から特許状をもらってつくられた会社で、その総裁には国王の弟ヨーク公が就任した。ヨーク公はのちに兄のあとをついでジェームズニ世として国王の位についたが、そのあとも総裁をつづけていたから、この会社は国王みずからが経営していたようなものだった。奴隷貿易は国家的事業だったのである。
3 売られてゆく黒人
奴隷船はまず毛織物や金属製品や火薬、武器などをつんで、イギリスの港を出港する。イギリスで奴隷船の中心基地となったのは、西部の港ブリストルだ。船は一五〇トンか二〇〇トンぐらいの帆船で、目的地はアフリカ西部の黄金海岸とよばれているところ、ここに王立アフリカ会社は城をつくり、商館をおいて二百人あまりの駐在員を常駐させていた。
船が目的地につくと奴隷狩りがはじまる。といっても、イギリス人が直接上陸して黒人を追いかけまわすということはめったにない。そんなやり方では、地理にくわしい黒人をつかまえることは、とうてい、できなかった。いちばんよく用いられた方法は、黒人の部族どうしを戦争させ、その戦争の捕虜を買いとることだった。奴隷船につみこまれた火薬や武器は、そういう戦争をけしかけるための道具である。金や銀を贈って戦争をそそのかしたこともあった。戦争のないときには黒人はなかなかつかまらない。そんなときに利用するのはプロの人さらいだった。こうして平和な生活をおくっていた黒人の部落に、とつぜん戦争や人さらいがおそってくる。つかまった黒人は鎖でしばられ、何人もつながれて、まるで動物のように檻にいれられ、海岸からボートにのせられて沖合の奴隷船へはこばれてゆくのだった。
奴隷船は一隻に百人から二百人の黒人をつみこむ。それだけの数の黒人がつかまるまで、何か月も奴隷船は沖合に停泊している。イギリスからつんできた織物や金物や武器などは黒人と交換に支払われた。取引がはじまる。ここでは人間は品物だ。このごろはなかなか働きざかりの黒人はつかまらないんですよ、といって値段をつりあげようとする人さらいたち。なんとかして値切ろうとする奴隷商人。鎖につながれた黒人たちは、いま自分にどんな値段がつけられているのか、まったくわからない。わかってみたところで、自分のふところヘー銭の金がはいるわけでもない。
黒人の値段は時代とともにあがりはじめていた。一七世紀、イギリスがはじめて本格的に奴隷貿易にのりだしたころは、黒人ひとりの値段は三ポンドか四ポンドだった。これは、当時のイギリスの、ふつうの職人や農民の一か月分の収入ぐらいにあたる。いまの日本のお金になおせば、一五万円か二〇万円ぐらいの感じだろうか。ところがイギリスだけでなく、フランスやオランダやデンマークや、ヨーロッパの方々の国が黒人を買いあつめるようになると、値段はだんだんあがりはじめた。一八世紀にはいるころには一〇ポンドから一五ポンド、そしてやがては二〇ポンド、三〇ポンドというふうに。
この黒人という「商品」は、買手がふえたからといって生産をふやすわけにはゆかない。しかもアメリカで使われている黒人は死亡率が高く、つぎつぎと新しい黒人をおくりこんでゆかなければ、すぐ不足してくる。死んだ黒人の代わりだけでなく、どんどんひろがってゆくアメリカや西インド諸島の農場の経営のためにも、ますます多くの黒人が必要だった。奴隷狩りは休むことなくつづいていた。
4 捨てられる「積荷」
船にのせられた黒人は、人間ではなく「積荷」だった。つめこめるだけつめこむのだ。九〇トンの船に三九〇人、一〇〇トンの船に四一四人つみこんだとか、わずか一一トンの船に三〇人つみこんだこともあった。二段にも三段にも棚をつくり、そこに横づみにし、それでも足りなくて、通路にまでつみこむ。足のふみ場もない。奴隷ひとりあたり、長さ一六五センチ、幅四〇センチの広さしかない。鎖につながれたまま横になっている黒人に、まるで豚か鶏に餌でもやるように、バケツで食事がはこばれる。
アフリカ西海岸からアメリカや、西インド諸島のジャマイカやバルバドスまで、ほとんど赤道直下の船旅だ。うまく風にのれば一か月ぐらい、へたに無風地帯にはいりこんでしまうと三か月はかかる。黒人たちがつめこまれた船底は、熱気と悪臭がたちこめ、奴隷船の乗組員も長い時間はとてもいられない。そんなところに、一か月も二か月も鎖にしばられたままの「積荷」状態がつづいたのだ。
病人がでる。赤痢や天然痘、マラリアなどの熱病がひろがる。いったんこんな伝染病がでたら、せっかくの「積荷」が全滅する。伝染病の恐れのある病人や、もう回復の見こみのない病人は、えんりょなく海へほうりこまれた。そうしなければ、ほかの「積荷」まで被害がひろがってしまう。あまりにひどい「積荷」状態に、発狂してしまう黒人もいた。これも途中でしまつしてしまう以外に救いようがない。食物をたべられなくなって餓死するもの、そして、すこしばかり反抗的な様子をしめしたばかりに、なぐり殺されるもの、アフリカからアメリカまでの船旅のあいだに多くの黒人が死んでいった。すくないときで一〇パーセント、多いときには半分近くの「積荷」が、大西洋へ捨てられたのだ。
しかし、あまりに多くの「積荷」を海へ捨てると、商売としてもなりたたない。そこで船主たちは、奴隷貿易にでかけるまえに保険をかけてゆく。嵐にあって船が沈没することもあるから、保険はどうしても必要だった。
一七八一年九月、アフリカ西海岸を出航してジャマイカ島へむかっていたゾング号という奴隷船には、四四〇人の黒人がつみこまれていた。うまく風にのることができず、ゾング号はもうすでに二か月も航海をつづけていた。水と食料は途中で補給したが、それでもだんだん不足しはじめていた。そして、おそろしい熱病がひろがりはじめた。黒人だけでなく、一九人の白人船員のなかにも、熱病にかかるものがでてきた。病気がこれ以上ひろがるのをふせぐために、そして不足しはじめた水と食料を節約するために、コリングウッド船長は病人を海中へ捨てる決心をした。
アフリカをでて二か月たつあいだに、すでに六〇人の黒人と七人の船員が熱病で死んでいた。死人を海へ捨ててもまだ熱病はつづく。このままでは全滅するかもしれない、そう考えた船長は、「積荷」を捨てて保険をもらった方が得だと判断した。海難事故のときには、船を救うために積荷を捨てる「投げ荷」という制度が、保険法のうえでみとめられているからである。一一月の末から一二月のはじめにかけて合計一三二人の黒人がつぎつぎと甲板へひきずりだされ、海へなげこまれた。こうして、四四〇人の「積荷」の半分近い一九二人が大西洋の底に沈められたのだ。
やっと航海を終わってリバプールヘ帰ってきたコリングウッド船長は、半分近い「積荷」を捨てたのは、ほかの「積荷」と船を守るためにどうしても必要な処置であったと主張して、保険金の支払いを請求した。しかし保険会社の方は、それがほんとうに不可抗力によるものかどうかに疑問をもち、保険金の支払いを拒否した。このため、保険金の支払いをめぐって事件は裁判にもちこまれ、コリンダウッド船長の処置は、「投げ荷」にあたるのかどうかが争われることとなった。
裁判官は両方のいいぶんをきいたうえ、船長の処置は全体としては「投げ荷」行為にはあたらないとして、その申したてをしりぞけたが、しかし一部やむをえないところもあったとして、海中へ捨てられた黒人の若干名については、ひとり三〇ポンドの保険金を支払うようにという判決をくだした。「奴隷の場合も、馬や牛が海中に捨てられた場合に準じて判断すべきである」というのが、裁判長の考え方だった。船長も保険会社も裁判長も、この事件が、まだ生きている病人を海中へ捨てた大量殺人事件だとは、まったく考えてもいなかったのだ。
5 プランテーションのなかで
黒人のなかには女性も子どももまじっていた。もちろん、すぐ使える成人男子がいちばんよいことはわかりきっていたが、成人男子だけで必要な数をそろえるのはむずかしかったし、三〇歳をこえた大人よりは、一〇歳から一五歳ぐらいの子どもの方が、これから先、長く使えるという計算もあった。女性もある程度は必要だった。もちろん、女性や子どもは値段が安く、男子の半分か三分の二ぐらいだった。年ごろの娘は船旅の途中で船員のなぐさみものにされるのがふつうだった。
一日に一回、黒人たちは甲板にひきずりだされる。そのあいだに船底を掃除するためと、甲板でわずかばかりの運動をさせるためだった。鎖につながれたままで黒人たちは、船員たちが黒人ダンスとよんだ足ぶみの運動をし、しばらくのあいだ、日光と海風をたのしんだ。しかしそのときがまた、反乱のチャンスでもあった。鉄砲をもって黒人たちの足ぶみダンスを見守っている船員たちに、鎖につながれた黒人たちがおそいかかる。うまく鍵をうばいとることができれば、鎖をはずすこともできた。人数からいえば黒人の方が圧倒的に多いのだ。
しかし、反乱はほとんど成功しなかった。方々の部落からつれてこられた黒人たちには共通の言葉もなく、計画的に反乱を組織することはできなかった。鎖につながれたままでは、一致して行動にうつることもむずかしい。おまけに船員たちは武器をもっていた。反乱が失敗すると、鎖で手足をしばられるだけでなく、首に鉄の輸までかけられ、親ゆびぜめという仕置きにかけられることもあった。鉄のネジで親ゆびをしめあげ、つぶしてしまうのである。
長い航海が終わるころ、黒人たちはもう反抗する気力も体力も失っている。栄養失調でよろよろになってしまったものもいる。いよいよ陸揚げだ。港には奴隷商人が待っていてせり市がはじまる。アフリカでの仕入れ値があがるにつれて、アメリカやジャマイカやバルバドスなどでの売り値もあがっていった。一七世紀には売り値は一五ポンドから二〇ポンドぐらい、一八世紀の後半から終わりごろには五〇ポンドから、ときには一〇〇ポンドという高値のこともあった。輸送費もひとりについて五ポンドから一〇ポンドぐらいにあがっていたけれども、「投げ荷」があまり多くなければ、かなりもうかる商売だった。うまくゆくと、船を買いいれた費用までふくめても、元手と同額以上のもうけになることさえあった。
だが黒人たちにとっては、これからがほんとうの苦難のはじまりなのだ。一七世紀の中ごろから急速に発展しはじめたバルバドス島の砂糖生産が、奴隷労働の中心だった。そしてそれは、キューバやジャマイカやそのほかの島へもひろがり、また、すこしおくれてアメリカ南部で発展した綿花生産も、黒人の奴隷労働を基礎にしていた。プランテーションという名の大農場で黒人は朝早くから夜遅くまで、鞭にうたれて働きつづけていた。
ひとつのプランテーションには二百人から三百人の奴隷が使われていた。そのうち身体の丈夫な奴隷は何十人かが一組となって、畑をたがやし、砂糖きびをうえ、刈りいれ、製糖の仕事をする。女性でも丈夫なものは男子と同じ労働をさせられ、刈りいれなどの忙しいときには二交替制の徹夜の仕事がふつうだった。正午からつぎの日の朝六時までの一八時間労働ということさえあった。病気あがりのものや年より、子どもは草取りや飼料あつめなどの軽労働だった。ここでも食事は十分にあたえられず、ときには伝染病がはやり、死亡率は高かった。死亡率ー五パーセントという年さえあった。バルバドス島全体で約四万人といわれた黒人のうち、一年間に六千人が死んだのだ。島によっては、黒人奴隷も家庭をもち、ささやかながら自家菜園をもったところもあったが、バルバドスではそれはできなかった。黒人女性がたりなかったのだ。
6 三角貿易の富
西インド諸島で生産された砂糖や糖蜜、アメリカ本土で生産されたタバコは、イギリスヘはこばれた。それがイギリス本国で売りさばかれて、やっと奴隷貿易はひとまわりが終わる。イギリスの港をでてアフリカヘむかい、奴隷狩りに何か月かをかけ、アメリカヘまた一か月から三か月ぐらいの長い航海をつづけ、黒人をおろして砂糖やタバコなどをつみこみ、もう一度大西洋を横断してイギリスヘ帰ってくる。それは、ほぼ一年がかりの長い商売だった。
三角貿易という名でよばれるこの奴隷貿易は、イギリス人の目からみていると、毛織物や金物をつんで出航していった船が、一年ぐらいたって砂糖やタバコをつんで帰ってくるという、ふつうの貿易のようにみえた。だが毛織物や金物と砂糖やタバコとのあいだには、黒人が品物としてはさまっていたのだ。一八世紀になるとイギリスでは、ふつうの労働者の家庭でも砂糖を使うようになったが、その砂糖は、黒人奴隷の血と汗と、大西洋に捨てられた何百万人という黒人の犠牲のうえに、生産されたものだった。
それだけではない。アメリカや西インド諸島から輸入された砂糖や糖蜜やタバコを、イギリスはヨーロッパ諸国へあらためて輸出して、ばく大な利益をえていた。奴隷売買の利益に加えて、この砂糖やタバコなどをヨーロッパ諸国へ売ってえた利益もふくめてみると、一八世紀のイギリスの貿易を支えていたのが、この三角貿易だったことがわかる。そのもうけがイギリスの産業革命を準備する資本になっていった。そして産業革命がはじまったとき、その中心になったランカシャーの綿織物工業に、原料としての綿花を供給したのも黒人奴隷の労働だった。そういう二重の意味で、黒人奴隷はイギリス産業革命の土台になったのである。
(浜林正夫著「物語 労働者階級の誕生」学習の友社 p121-139)
■━━━━━
「補説」
合衆国と黒人
1770年3月5日のボストン虐殺事件は,アメリカ独立革命の発火点となった事件だが,このときイギリス兵に殺された5人はみんな労働者であり,さらにまっさきに撃たれたのは,クリスパス=アタクスという黒人の船乗りだった。アタクスは大衆的な革命組織「自由の子」の指導者の一人だった。このことはアメリカ独立革命における労働者の役割,黒人の役割をものがたるものである。
しかし独立は黒人にもインディアンにもなにももたらさなかった。独立宣言の草案には国王ジョージ3世の専制を非難するなかに,黒人奴隷貿易に対する非難もふくまれていたが,その部分は南部プランターと,北部奴隷貿易商人の反対で削除された。そして合衆国憲法は,「入国を適当と認められる人々の移住または輸入」を第1条で認めたのである。こうしてアメリカ合衆国は,北部の黒人労働者と南部の黒人奴隷の辛苦のうえに発展することになった。
黒人奴隷にとって南北戦争はまさに解放戦争だった。そして南北戦争後のいわゆる再建時代は,アメリカ黒人の歴史のなかでもっとも輝かしい時代だった。それは合衆国の再建が黒人奴隷制度廃止のうえになされるものだったからである。しかし奴隷身分から解放されても黒人たちは,市民的諸権利も保証されず,生きるための生活手段ももたなかった。「自由の身になったって,黒ん坊はどっちみち奴隷みたいなものだ」という白人は南部に沢山いた。それでも黒人たちの運動は,共和党の急進派や奴隷制廃止論者の支援を得て,数々の成果をあげた。黒人たちははじめて選挙権を行使できた。これまで家族を構成する自由をもたなかった黒人たちの多くは自分の姓をもたず,また選挙登録の意味を知らないで,なにか食べ物か着る物がもらえるのかと思って袋やかごをもって登録場に殺到したというが,それだけにこの再建の意義は大きかった。またハワード大学,アトランタ大学など黒人の高等教育機関もつぎつぎと誕生した。
しかし黒人たちのもう一つの願い,「40エーカーの土地と1頭のラバ」はついに実現しなかった。この点では北部の共和党も南部のプランターと手を結んだ。と同時にK・K・Kなどの秘密結社の活動がはじまった。かれらは三角形の帽子のついたふく面で顔をかくし,ガウンで幽霊のようなかっこうをして町を走りまわり黒人を襲った。白人でさえ黒人に少しでも同情すると命を奪われた。こうして再建は挫折させられた。1880年代をさかいにした,合衆国の農業国から工業国への転換はこの上でおこったものである。それは同時に黒人支配の巻きかえしでもあった。南部では大地主が黒人や貧しい白人を隷属的な小作人とする刈り分け小作制があらわれ,「人頭税」や「能力試験」による黒人選挙権はく奪がはじまった。1896年には最高裁判所が「隔離はしても平等」ならば差別ではないという判決を下して,交通機関,学校,レストラン,娯楽施設における差別を当然とした。
合衆国は「人種のるつぼ」といわれている。合衆国人を形成する沢山の人種のうちインディアンをのぞくとすべて海外から渡ってきたか,連行されてきた人たちである。そして虐げられているのは黒人たちだけではない。そのなかでなぜ黒人たちだけが特別に差別されるのか。「黒人問題を階級問題,人種問題そして民族問題として,三重の複合において理解し,処理しなければならない」(W・Z・フォスター)という主張は,どう理解したらよいだろうか。
(土井・片山・掘越・吉村共著「新講世界史」三省堂 p380)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「資本主義の底辺を支えていた……それは黒人奴隷」「二重の意味で、黒人奴隷はイギリス産業革命の土台」と。