学習通信080806
◎創氏改名の「罪悪」を否定することができるなら……

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八月。お祭り、汗、青空、セミの声。季節をいろどるさまざまな事象も、人々の戦争の記憶とむすびつく月です

▼六日、ヒロシマの朝の青空に姿を現した米軍機エノラ・ゲイ号。十五日、敗戦を告げる天皇の放送の意味など知らずに鳴き続けていたセミたち。歴史を振り返ると、八月はまた、日本が侵略戦争と占領の手を広げていった月です

▼日本が宣戦布告し、日清戦争が始まったのは、一八九四年の八月一日。ロシア革命後のシベリア出兵は、九十年前の八月二日。朝鮮・韓国を併合して植民地にしたのが、一九一〇年の八月二十二日。中国とのいくさの火が上海へと燃え移り、全面戦争に入ったのも、一九三七年の八月半ばでした

▼ことし八月は、福田内閣の改造で始まりました。改造の目玉は、政権のかなめの自民党幹事長に起用した麻生太郎氏です。首相が、「自民党は存亡の危機にあるから」と、引き受けるよう頼み込んだらしい。迫りくる衆院選で、党の顔≠ノしたいようです

▼もちろん、麻生氏の素性をよくよく知ったうえでの話です。植民地時代の朝鮮・韓国人に日本名をつけるよう強制した「創氏改名」について、まるで彼らが望んだかのように語った麻生氏。日本軍「慰安婦」は強制的な性奴隷化≠ニするアメリカ下院の決議案に対し、「事実にまったくもとづいていない」といいはった麻生氏

▼八月の歴史から日本の生きる道を学んだ幹事長とは、とても思えません。暑い真夏の、自民党のお寒いお家事情とはいえ。
(「赤旗」20080803)

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序章 何が問題となっているか

細川首相の慶州発言

 一九九三(平成五)年一一月七日、韓国・慶州で行なわれた日韓首脳会談の際の共同記者会見で、細川護煕首相が語った談話は、創氏改名という歴史と現在の政治・外交が強く結びついた例として思い起こすことができる。

 過去の我が国の植民地支配により、朝鮮半島の方々が学校における母国語教育の機会を奪われ、自分の姓名を日本式に改名させられるなど、誠に様ざまな形で耐え難い悲しみと苦しみを経験させられたことについて、そのような行為を深く反省をし、心より陳謝を申し上げる。

 創氏改名などの具体的事例をあげながら、植民地支配について謝罪した日本の首相の発言はこの時が初めてだった。前日の金泳三大統領との会談で、細川は「従軍慰安婦」「徴用」という言葉も使い、「加害者として心より反省」すると述べたが、記者会見での談話ではこれらが抜け落ちていた。そのような経緯はあるものの、この細川発言は韓国で好意的に評価された。

 細川の発言がその場の思いつきでなされたものでなかったのはいうまでもないが、とはいえ事前に充分な準備がなされたものでもなかった。

 細川はのちに、釜山行きの飛行機の中で外務省の担当者と会談準備をしていた時のことを、次のようにふり返っている。

 中曽根さんや宮沢さんと同じような発言のペーパーが用意されていたのですが、私は『そんな話ではだめだ。もっと踏み込んで、具体的なことをいいたい』と……。すると同行の後藤大使〔後藤利雄ソウル駐在大使〕が『それなら、創氏改名などのことを』といい出し、それだ、と決まった。本当に綱渡りだった。(若宮啓文)

 植民地支配について「もっと踏み込んで」謝罪の意思を表明しようとした細川首相の思いが、創氏改名への言及という形で表われたのである。

 その後、一九九六年六月の日韓首脳会談時にも、橋本龍太郎首相が「両国の歴史の不幸な部分」の一つとして創氏改名に触れる発言をしたことに表われているように、創氏改名への言及は植民地支配の歴史に関わる政府レベルでの認識を示すものとなったといえる。

日本政府の見解

 では、細川発言にいたるまでの日本政府の認識はどうだったろうか。

 敗戦(朝鮮解放)から間もない一九四八年前後に大蔵省管理局がまとめた『日本人の海外活動に関する歴史的調査』は、賠償問題に備えて政府が作成した膨大な調査報告であるが、その朝鮮篇第二分冊第三章「朝鮮統治の最高方針」では創氏改名について、「氏制度の施行は半島統治上一時代を画する重大な制度であり、朝鮮人の要望に応えると共に、内鮮一体の具現化に資せんとしたのである。然しながら飽くまで自発的なるべき創始(ママ)が地方官庁により、自己の成績の尺度と考えられ、形式的皇民化運動に利用せられ、強制的なものとなり、創氏戸数七割以上という成績にも拘わらず、多くの反感を買った」と記述している。

 この部分を執筆したのは、戦前、京城帝国大学教授(経済学)を務めていた鈴木武雄(執筆当時は東京大学教授)であるが、強制が末端の地方官庁によるものであったとしているのは、敗戦直前の朝鮮総督府の見解とまったく変わりのないものであった。

 その後、日韓両国の国交樹立のために日韓会談が開かれ、植民地支配の清算問題も議題となったが、日本側は植民地支配について明確な謝罪の意思を示さなかった。一九六四年一二月から始まった日韓の第七次会談の日本側首席代表を務めた高杉晋一(経団連経済協力委員長)が、翌年一月外務省記者クラブで語った内容は、創氏改名の評価に及ぶものだった。高杉は、「日本は朝鮮を支配したというが、わが国はいいことをしようとした」「創氏改名もよかった。朝鮮人を同化し、日本人と同じく扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫とかいうものではない」と発言したのである(吉澤文寿)。

 日本政府は高杉発言をオフレコとし、発言の事実をもみ消そうとした。韓国政府も日韓条約の早期締結を優先して日本政府の立場を受け入れることにしたため、高杉発言は外交問題化することがなかった。

 一九八二年には日本の歴史教科書に対する検定で中国への「侵略」などの言葉が削られたことが外交問題になった。この時、創氏改名を強制したという教科書の記述も文部省から修正を求められた。韓国政府などからの抗議に対し、文部省がまとめた見解は、「法令上強制ではなく、任意の届け出によるという建前」であり、届出が八割に上ったことから「かなり無理があったことは確か」だが、二割が応じなかったことは「やはり法令上の強制ではなかったことを示している」というものであった。つまり「強制」ではなかったということである。

 この文部省見解の草案を作成した時野谷滋(文部省教科書調査官)は、一九九八年に発表した論文で、「中央の意向が下部に行くに従って硬直し強行される」という当時の行政にありがちなことが創氏改名についても起こったとしている。「かなりの処理があったことは確か」だが「強制」ではなかったとする文部省見解を補強しようとしたものであるが、五〇年前の鈴木武雄の見解を繰り返しているに過ぎない(時野谷滋)。

 以上のように、細川発言にいたるまで日本政府は、創氏改名の歴史を直視しようとせず、「法令上は強制でなかった」「強制は末端の機関が行なったこと」という姿勢をとり続けたのである。

教科書の記述

 教科書問題、細川発言に見られるように、創氏改名は日韓関係において歴史認識に関わる大きな問題になってきた。そのような中で、一九八〇年代以降、日本の歴史教科書のほとんどに創氏改名に関する記述が登場し、現在にいたっている。

 二〇〇七年度に使用されている高校日本史の教科書は、戦時体制についての説明の中で、「朝鮮や台湾においても植民地統治策が大きく変化し、日本語教育の徹底や神社参拝の強制がなされた。朝鮮では姓名を日本式に改める創氏改名が実施されるなど、日本への極端な同化を求める路線が、皇民化政策として実施されるようになった」(山川出版社『新日本史』)と記述する点で共通している。

 中学校の歴史教科書でも、「朝鮮では、神社をつくって参拝させたり、日本式の姓名を名のる「創氏改名」を強制したりして、日本に同化させる皇民化政策をおし進めました」(大阪書籍『中学社会 歴史的分野』)という説明がなされている。

 日本の教科書の多くはこのように姓名と氏名を混同した記述をしているが、これが誤りであることは後述するとおりである。また、創氏改名を「姓名を日本式に改める」ものという説明も正確さを欠くものである。「創氏」の意味を正確にとらえずに、「日本式」というのは曖昧ないい方だからである。「創氏」によって姓が氏に置き換えられたことの意味は後述するが、そうしてつくられた氏名が「日本人風」になったことを「日本式」と説明しているのか、それとも姓名が氏名に変わったことを「日本式」といっているのか、不明確である。

 しかし、近年の研究状況を反映して、創氏改名を朝鮮の家族制度に対する日本の政策との関わりで説明する記述もあらわれている。「名前をかえるだけでなく、夫婦が別姓の朝鮮の人々にとっては、同姓を名のることにもなり、日本の家族制度が朝鮮にもちこまれることになりました」(帝国書院『社会科 中学生の歴史』)という記述がそれである。朝鮮での夫婦「別姓」の意味がわかりにくいという難点があるが、創氏改名を家族制度との関わりで理解させようとしている点は、近年の研究成果を取り入れたものと評価できる。

 一方、韓国の教科書では、どのように説明されているだろうか。「日帝〔日本帝国主義〕は我々の名前さえも日本式の姓と名に変えて使用するよう強要した」(中学校『国史』)と、簡単な説明にとどまり、姓と氏を混同している点は日本の教科書と同じである。高等学校の選択科目「韓国近現代史」の教科書(二〇〇三年から取り入れられた検定制度による教科書で六社から出ている)では、創氏した戸籍を図版として掲載したり、創氏強要の方法について詳しく説明したりするものもあらわれているが、総じて正確さに欠ける記述といわざるを得ない。

麻生発言と強制否定論

 日本では、細川発言にもかかわらず、創氏改名を合理化しようとする考え方がいまだに根強く残っている。あるいは、逆に細川発言以降、そのような言説が勢いを増しているとさえいえる。創氏改名の「罪悪」を否定することができるなら、植民地支配そのものの「罪悪」も消し去ることができると考えられているかのようである。

 二〇〇三年五月、当時自民党政調会長だった麻生太郎が講演で、「創氏改名は、朝鮮の人たちが『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」と発言したことが問題となった。麻生は各方面からの批判を受けて、日韓関係の重要性にかんがみて「韓国国民に対して率直におわび申し上げる」と語ったが、「わかりやすく説明しようとして言葉が足りなくなり、真意が伝わらなかった」と釈明しただけで、発言を取り消すことはなかった。

 麻生発言が問題になった頃から、日本社会では創氏改名をめぐってさまざまな議論があらわれるようになった。

 杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』(二〇〇二年)は、創氏改名に「かなりの強制があった事は事実」と認めながら、それを「最も熱心に遂行したのは、朝鮮人ジャーナリストに煽られた朝鮮人地方官僚だったと考えられる」として、強要の責任を朝鮮人官僚に転嫁する見解を示す。

 二〇〇五年に発売されて多くの読者を得たという山野車輪『マンガ嫌韓流』(晋遊舎)でも、創氏改名は描かれている。それが強制でなかったことの証拠として、「陸軍中将ホンサイク」「衆議院議員パクチョングム」の二人をあげて、「朝鮮名のまま中将にまで出世した陸軍軍人がいましたし、朝鮮名のままの衆議院議員もいます。朝鮮の知事にも朝鮮名の人がいます。他にも朝鮮名で公職に就いていた人はいくらでもいますよ」と説明されている。

 『韓国・北朝鮮の嘘を見破る近現代史の争点30』(鄭大均・古田博司編、文春新書、二〇〇六年)に、「「創氏改名で民族名を奪われた」と言われたら」を書いた朝鮮史研究者・永島広紀は、創氏改名の法制度を説明しつつ、創氏は法的な強制であったこと、創氏が日本的な「イエ」制度の創出を目的としていたことを認めているが、他方で「創氏なり改名には、その当時の情勢に伴う「流行」や「雰囲気」、はたまた「自己規制」にいたるまでの目に見えないさまざまな「圧力」こそ存在してはいたものの、結局のところ、個々人ないしは宗族一門にその判断と運用が委されていた、というのが平凡ながらもその実態であったと言わざるを得ない」と論じている。つまり、創氏改名は朝鮮人の意思に委ねられていたという議論である。

 このほかにもインターネットの世界でも、創氏改名の強制性を否定する意見が飛び交っている。

 これらの議論を整理すると、次のようになろう。

(1)朝鮮名を維持した者がいたので、必ずしも強制ではなかった。
(2)創氏は義務だったが、改名は任意だったので、全体として強制ではなかった。
(3)満洲や日本「内地」に居住していた朝鮮人をはじめ多くが、日本名を望んでいた。
(4)戸籍に姓の記載は残ったので、朝鮮人の名前を奪ったとはいえない。

 このような強制性否定論の論拠をここでいちいち検討することは控えることとする。本書全体を通じて、これらが一面的な議論に過ぎないものであることを明らかにしていきたい。
(水野直樹著「創氏改名」岩波新書 p1-10)

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◎「八月の歴史から日本の生きる道を学んだ幹事長とは、とても思えません。暑い真夏の、自民党のお寒いお家事情とはいえ」と。